第21話 『待ち合わせは時計台の下で』
———時は少し流れ、六月六日。
土曜日。
その日、小日向真綾は一生ものの不覚をとってしまった。
「あ……ああ……」
どうしてこんなことをしてしまったのか。
何故あんなことをやらかしたのか。
激しい後悔の念に押し潰されそうになりながら、彼女は声高に叫ぶ。
「や、やばい————寝坊したぁぁ!」
愛用の目覚まし時計を確認すると、時刻は午前九時を過ぎたところ。
明日は休日だからと少しだけ夜更かししてしまったのが悪かった。
小日向家では、早めに起きた真綾が朝食を作った後、なかなか起きてこない兄を愛あるタックルで叩き起こすことを毎朝の日課としている。
それは学校がない休日も例外ではない。
土曜日だろうと日曜日だろうと、毎朝遅くとも七時には無理やり叩き起こすのだ。
それは兄妹の健康維持のため、という心優しい気持ちが半分。
残りの半分は————、
「毎日私だけ早起きなんて、ちょっぴりムカつくからね」
毎日兄の目覚まし役を務める妹の、ささやかな仕返しである。
日々、早起きして甲斐甲斐しく世話をしているのだ。
自堕落な兄の惰眠を邪魔するくらいは大目に見てほしい。
「と、そんなこと言ってる場合じゃなかった。早く起こさないと!」
使命を果たすべく、寝起きのパジャマ姿のまま勢い良く自室を出て、向かいにある兄の部屋のドアを開ける。
「お兄ちゃん、もう九時だよ! 起き……て……」
起床を告げる言葉は、室内の光景が目に入るにつれて、徐々に尻すぼみになっていった。
「あれ……?」
年頃の男子高校生らしい黒を基調としたシックな部屋。
そこに目的の人物の姿がなかったのである。
ベッドの上はもちろんのこと、クローゼットの中、机の下。
人が隠れられそうな場所を覗いてみるも、やはりどこにも兄の姿はない。
どうやらどこかに身を潜めているわけではないようだ。
一応エッチな本が隠されている場所も見てみたが、普通にエッチな本がひっそりと置いてあるだけだった。
親切心からしっかりと向きを整え、重ねて戻してあげる。
「おかしいな……」
ここで言う『おかしい』とは兄の性癖ではなく、自分が起こしに来ていないのに、寝息を立てて眠る兄がいないことだ。
それに———奇妙なのはもう一人。
「もしかして、もう起きてるのかな……?」
まさかとは思いつつも、状況からしてそうとしか考えられない。
部屋を出て、足早に階段を降りる。
しかし、リビングももぬけの殻だった。
「んん?」
いつもと違って静かな家の光景に首を捻る真綾。
と、その時。
ザリザリと、何やら靴底を擦るような音が鼓膜に届いた。
「お兄ちゃん……?」
音のした方向———玄関に続く扉を開くと、そこにいたのは、
「———ハナさん」
「あ、真綾さん。起きたのですね。おはようございます」
姿が見えなかったもう一人の住人、真白ハナが笑顔で朝の挨拶をしてきた。
数週間前、兄が急に家に連れてきた外国人の女の子で、今はこの家で三人で暮らしている。
兄はホームステイだとか何とか言っていたけれど、よくわからないし、楽しいから別にどうでも良い。
同居人が急に増えたことで最初は戸惑ったが、年上の女性とは思えない可愛らしさと人当たりの良さに魅了され、今ではすっかり仲良しだ。
「うん、おはよー」
本人からの申し出で、今やタメ口を使って話すくらいには。
「って、あれ? ハナさん、これから出かけるの?」
見てみれば、今朝のハナは休日の女の子らしいコーディネートに身を包んでいた。
留学生のハナは制服しか持っていなかったので、それらは全て、昔に真綾自身が着ていたものだ。
物を捨てられない性格がこんなところで役に立つとは思わなかった。
初夏らしい爽やかな装いのハナはにこぱっと笑い、
「はい。今日は『でえと』ですので」
「……デート?」
唐突な甘い単語に、真綾はこてりと小首を傾げる。
寝起きで立ち上がったアホ毛も相まって、その様子はすごくアホっぽい。
デートと言えば、真綾も良く知る、男女が二人っきりで出かけるあの『デート』だろう。
微妙にイントネーションがズレていたけれど、多分それで合っているはずだ。
「では、行ってきます!」
ハの字を寄せる真綾を尻目に、ハナはそう言ってパタパタと慌ただしく玄関を出て行った。
後に残された真綾は、閉まるドアを見つめることしかできない。
「行っちゃった……」
呆然と呟くと、お腹の虫がぐぅと鳴った。
「そうだ、朝ご飯作らなきゃ」
遅めの朝食を作るべく、キッチンへと向かう。
結局今朝見かけたのはハナだけで、兄の行方はわからないまま。
釈然としない気持ちそのままにリビングに戻ると、ダイニングに何かが置かれていることに気づいた。
「あ……」
そこにあったのは、トーストをはじめ、目玉焼きにウインナー、そしてプチトマトが添えられたサラダ。
『朝食 メニュー』で検索すれば真っ先に引っかかりそうな朝食が、ラップに包まれて置かれていた。
そして、その脇に添えられていたのは、一枚の紙切れ。
———『ちょっと出かけてくる。探さないでください』
「……もう。お兄ちゃんったら」
兄の筆跡で書かれた馬鹿な置き手紙に、思わず苦笑が漏れ出た。
事故に遭って以来、あの兄はどこか変わったように思う。
急に女の子を家に連れてきたこともそうだが、最近は毎日帰りも遅い。
いつも休日は一緒にゲームをしたりして遊んでいたのに、この前は一日中ハナと話し込んでいたみたいだし。
「デート……デートかぁ……」
兄の変化は喜ばしいことだ。
それに、それを後押しするようにアシストしたのも真綾自身。
ただ、それでも———、
「……たまには私にも構ってよね、お兄ちゃん」
こんがり焼けたトーストを齧りながら、そんな複雑な妹心を吐露する真綾だった。
* * * * *
———さて、そんな妹の気持ちなど知る由もない兄はというと。
とある人物と待ち合わせるために、駅前の時計台へと向かっていた。
駅に出かけるとなったら真っ先に選択される、ここらでは定番の待ち合わせスポットだ。
到着すると、ちょうど時計台の前に目的の人物の姿を発見。
足早に駆け寄り、声をかける。
「すまん、少し遅れた。待ったか?」
「いいや、いま知床」
「北の大地まで行くな。来たとこだろ」
「きただけにね」
開幕のボケが決まり、ニヤッと不遜に笑む少女———水卜唯乃莉。
今日は、この中二病少女と二人で出かけることになっている。
そう———俗に言う、デートというやつだ。
「それにしても驚いたよ。まさか知り合って間もない君から、このボクに逢瀬のお誘いがくるだなんて」
「逢瀬って言うな。正直、僕としても不本意なんだ」
ニヤニヤとにじり寄ってくる唯乃莉に、深々と息を吐く。
———遡ること五日前、部長の篠宮雪菜が提案した、水卜唯乃莉の中二病矯正計画。
それは、『水卜唯乃莉を小日向智悠に惚れさせる』という正気を疑うものだった。
何でも彼女曰く、
『女の子が変わる理由は一つ———それは恋よ』
とのこと。
『乙女は恋して変わるもの。色恋に夢中になれば、中二病なんて綺麗さっぱり消えてなくなるわ。だから、智悠君。あなたが持つあらゆる手練手管を使って、水卜さんをあなたに夢中にさせなさい』
こうして、部長の鶴の一声により、部内唯一の男子生徒に水卜唯乃莉のハートキャッチ・アンド・メタモルフォーゼミッションが課せられた。
回避する間も無く、その場にいた紗織によってあれよあれよとセッティングされ、現在に至る。
正直、無謀な策としか思えない。
手練手管も何も、智悠は生まれてこのかた、女の子と付き合ったこともなければ、そもそもデートすらしたことがないのだ。
明らかに、恋愛素人の童貞には荷が重すぎるミッション。
「君たちの先輩も、なかなか厄介な人のようだね」
先行きの不安さにため息を吐く智悠に、さしもの唯乃莉も同情めいた視線を向けてきた。
確かに彼女の言う通りだが、本人も唯乃莉には言われたくないと思う。
「とは言え、やっぱりあの人の考えはロクなもんじゃなかったな……」
「どうする? ギブアップかい?」
後悔の色を滲ませていると、唯乃莉が勝ち誇ったように笑う。
正直すぐにでもやめてしまいたい。
しかし———、
「……いや、やろう。ぶっちゃけ、今はこれくらいしか方法が思いつかないのも事実だ」
行き当たりばったり感は否めないが。
「それに、普通の高校生らしくするって意味じゃあ、恋愛はベターだと言えるし」
「それについてはボクも同感だ。高校生なんて、色欲だけで生きているようなものだし」
「そこまでは言ってない」
言動から察するに、この少女、斜に構えることがカッコいいと思っているタイプか。
「———さて」
と、挨拶がわりのやり取りが済んだところで、唯乃莉がおもむろに手を叩いた。
「続けるってことは、これからボクと君はその他大勢の高校生よろしく、デートをするってことでいいんだよね?」
「まあ、そうだが……」
含んだ言い方なのは気にしないことにする。
「なるほどなるほど。つまり、今日一日に限り、ボクと君は恋人同士になるというわけだ」
「いや、別に付き合うわけじゃないから違うと思うけど」
これはあくまで唯乃莉の心を射止め、中二病を更生させるためのミッションだ。
だが、唯乃莉はそんな抗議など意に介さず、
「だったら、まずボクに対して言うべきことがあるんじゃないかな?」
「は? 言うべきこと?」
「鈍いなぁ———女の子と会ったら、まず服装を褒めるものだろう」
そう言って彼女役の少女は、自身を見せびらかすように両手を広げてみせた。
その存外可愛らしい仕草に、しかし彼氏役の男子は何故か渋い顔。
「……せっかく触れないようにしていたのに」
休日の水卜唯乃莉。
その私服は、なんとゴスロリファッションだった。
黒を基調としたワンピースの所々に豊かなフリルがあしらわれ、胸元は大きなリボンが飾っている。
側から見たら完全にコスプレ衣装なのだが、唯乃莉の小柄で細身な体躯には存外似合っているのが不思議だ。
一度見たら、これ以外の私服姿が想像できないくらいしっくりきている。
短めの黒髪に片方だけ覗く赤い瞳も相まって、さながら異世界の住人のようだ。
「……くそ、何でメイクもしていないのにこんなに似合うんだ」
「ふふん、そうだろう。もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
予想外のポテンシャルの高さに歯噛みする智悠に、唯乃莉はドヤ顔で薄い胸を張る。
広場を横切る通行人が、物珍しげな顔をしてチラチラとこちらを見ていた。
「……? 何かやけに視線を感じるんだが」
「お前がそんな格好してるからだろ」
人通りの多い駅前でゴスロリファッションなど、何かのイベントにしか見えないだろう。
「恥ずかしくなってきたし、そろそろ行こうぜ」
声をかけると、唯乃莉はひらりとスカートを翻し、
「そうだね、行こう。———君が勝つかボクが勝つか、天下分け目のランデブーに」
「死語がカッコいいと思ったら末期だぞ」