第20話 『ファースト・ミッション』
窓をふと覗くと、外には夜の気配が広がりつつあった。
茜色と入れ替わるようにして、青黒い色が空一面を埋め尽くさんとしている。
眼下に見えるグラウンドでは、同じく部活動に講じていたサッカー部や野球部がちょうど用具の片付けにはいったところだった。
壁にかけられた時計を確認すれば、時刻は既に午後七時に差し掛かっている。
この学校の完全下校時刻だ。
ぼちぼち帰宅の準備をしなければならない。
「本格的な活動は、来週からにしましょう」
雪菜の言葉により、水卜唯乃莉の中二病更生プログラムのスタートは来週に持ち越すこととなった。
五人揃って廊下に出ると、途端に五月下旬とは思えないほどひんやりとした空気が肌に沁みた。
思わずブルっと身体を震わせる。
しかし、これほど冷え込んでいても確かに季節は初夏であり、これからどんどん気温は高くなっていくのだろう。
来週からは六月だ。
あのジメジメとした嫌な季節がやってくる。
「では、君たちの健闘に期待している」
「あんた何様なのよ……、えっと、よろしくお願いします」
上から目線で不遜に笑う唯乃莉に、軽く頭を下げる紗織。
相談者の二人は、それから並んで一緒に歩いて行った。
遠ざかって行く合間にも、何やらやいやいと言い争っていたが。
その二人の背中を見送りながら、
「腐れ縁、か……」
口の中だけの智悠の呟きは、誰に聞かれることもない。
やがて二人の姿が見えなくなると、
「さて。では、私たちも帰りましょうか。私は職員室に鍵を返して来るから」
「ええ、じゃあまた来週」
「頑張りましょうね!」
ムンっと鼻息を荒くするハナに微笑みを返し、雪菜は職員室がある本棟の方へと歩いて行った。
と、ふいにその足が止まる。
「あっ、そうだ」
「どうしたんですか?」
「二人とも、休みの間、何か解決策を考えておいてくれる?」
解決策とは、もちろん今回の依頼、対水卜唯乃莉用の更生プログラム案のことだ。
今日は金曜日。明日から二日間はお休みである。
「わかりました。ちょっと考えてみます」
「もちろんです!」
了承すると、雪菜は満足げに微笑んだ。
「ありがとう。私の方でも色々考えておくから、来週にすり合わせましょう」
そう告げると、雪菜は今度こそ本棟へと消えて行った。
その後ろ姿を茫然と眺めていると、ハナがひょいっと顔を覗き込んできた。
「……智悠さん、何か浮かない顔をしていますが、どうされました?」
「……いや、何でもない。僕たちも行くか」
そう返して、雪菜とは反対方向に踵を返す。
ハナは訝しげな顔をしながらも、とことこと後についてきた。
ペラペラの鞄を肩に引っ掛け、蛍光灯で照らされた青白い廊下を歩きながら、智悠はぼそりと呟く。
「雪菜先輩の考え、か……」
わざわざ言うことでもないと思ってハナにはああ答えたが、しかし、篠宮雪菜が考える解決策。
その言葉が持つ嫌な響きに、そこはかとなく不安の煽られる智悠なのだった。
* * * * *
金曜日が最も活気づく曜日ならば、最も憂鬱になる曜日は間違いなく月曜日だろう。
友達がいない学生にとって、月曜日ほど気分の乗らない日は存在するまい。
学校に行ったところで誰とも喋ることなく、ただただ七面倒くさい授業を受けるだけの日々の始まり。
言ってしまえば地獄の始まりだ。
割と本気で毎週月曜日がくる度に「サボったろうか」と思うのだが、そうは問屋が卸さないのが小日向家。
智悠の愛すべき妹、真綾の甲斐甲斐しくも荒々しい目覚ましによって叩き起こされ、強引に登校させられるのが毎朝の日課なのである。
サボって二度寝しようにも、そうは真綾が許さない。
あの妹の兄管理っぷりには、さしもの智悠と言えど諦めて投降せざるを得ないのだ。
そんなわけで、土曜日曜と短い休日を挟んだ、翌週の月曜日。
今日から暦の上では六月に入り、徐々にジメジメとした空気を肌に感じる季節となった。
あと数日もすれば梅雨入りだろう。
そんな不快な空気の中、今朝から痛む背中を庇いつつ、ひたすら板書を写すだけの機械と化す。
カリカリとシャーペンを動かし、時折ぼぉーっと窓の外を眺める時間を送っていると、いつのまにか放課後になっていた。
「よし。じゃあ行くか」
「ですね」
声をかけ、いつものようにハナと一緒に部室へと向かう。
ガラリと戸を引くと、既にそこには二人の女子生徒が来ていた。
篠宮雪菜と桜井紗織。
かたや愛用のティーカップで、かたや来客用の紙コップで、談笑混じりに優雅なティータイムを嗜んでいる様子だ。
「それでね、やっぱり下着は黒が至高だと思うのよ」
「そ、そうですね……」
訂正。よくよく見てみれば、談笑しているのは雪菜だけである。
「お疲れ様です」
「あら、智悠君に真白さん。お疲れ様」
「ど、ども」
会話の内容にツッコみたかったけれど、ガールズトークに口を挟むのは気が引けた。
室内に足を踏み入れつつ、軽い挨拶を交わす。
雪菜は微笑を浮かべたが、紗織はまだどこか緊張した様子で軽く会釈するだけだった。
彼女とはまだ知り合って日が浅いし、この反応も致し方あるまい。
智悠とハナがそれぞれの定位置に腰掛けると、雪菜は持っていたカップをカタリと置き、
「さて、では全員が揃ったことだし、会議を始めましょうか」
と言った。
「あの、水卜さんがまだ来てませんが……」
きょろきょろと周囲を見回し、ハナが疑問を投げかける。
彼女の言う通り、一番肝心な唯乃莉の姿がどこにも見当たらない。
単純に到着が遅れているのかもしれないと思ったが、雪菜の口振りからして、今日のメンバーはこれで全員らしい。
どういうことかと首を捻っていると、紗織が口を開いた。
「それなんだけど、あの子、今日は来ないって言ってた」
そう言うと、紗織はスカートからスマホを取り出してススッと高速で操作し、有志部の三人に向けて小さな画面を見せた。
そこに表示されていたのは、LINEのトーク画面。
上に『唯乃莉』とある新しいトーク画面に、緑のふきだしで『あんた、今何してるの? 早く来なさいよ』とのメッセージが。
若干刺々しい印象を受ける、紗織からのメッセージだ。
その下に、白いふきだしで『ボクは行かないよ』と送られ、紗織が『はぁ? どうしてよ?』と返答した後に、こんな文言が表示されていた。
「えーと、なになに……『紗織は、あらかじめ種がわかっているマジックを見て面白いと感じるのかい?』…………は?」
メッセージを読み上げた智悠は、その意味するところを測りかねて思いっきり顔をしかめた。
どういうことだってばよ、と脳内で火影が疑問符の渦を巻く。
隣で同じく画面を見ていた雪菜はふむと頷くと、
「おそらく、こちらの更生プログラムの内容を知っていたら面白くないと言いたかったのでしょうね。あの時、智悠君があんな言い方をしたから」
「だとしたらわかりにくすぎる……」
「あんな言い方?」
雪菜の言葉に、ハナが首を傾けた。
その反応に、遅ればせながらハナにはまだ詳しい説明をしていなかったと気づく。
わざわざ言う必要もないと思っていたが、仕方ない。ここは得意満面に、智悠の巧妙な策略を自ら解説してしんぜよう。
「実はな、ハナ。僕はあの時———」
「智悠君はあの時、乗り気でない水卜さんをこちらに巻き込むために、わざと挑発的な言い方をしたのよ。水卜さんがこの案件を『勝負』だと受け取るようにね」
「…………そういうことだ」
余すところなく黒髪の上級生に説明されてしまい、決まりの悪い顔をする智悠。
せっかく得意げに立てた指を持て余すところとなった。
———唯乃莉の更生は、彼女自身ではなく紗織の依頼だ。
勝手に自分を問題児扱いされ、その矯正を他人に頼むなど、本人からしてみれば迷惑以外の何物でもない。
案の定渋っていた唯乃莉を乗り気にさせるために、智悠は一芝居打ったのだ。
今回の依頼が、有志部VS水卜唯乃莉の勝負だと受け取ってもらうために。
誰でも思いつく安い挑発だが、中二病患者を刺激するのに『勝負』という名目は結構な効果がある。
そして智悠の期待通り、こちらから明確に勝負だと言わずとも、唯乃莉は挑発に乗ってくれた。
(とは言え、やっぱり罪悪感はあるけどな……)
頭の中だけで、智悠は唯乃莉に全力で土下座する。
水卜唯乃莉は、彼の個人的な事情に巻き込まれた被害者なのだ。
ここにいる小日向智悠は、一時的に仮初の魂を与えられているにすぎない。
言うなれば、今の智悠は半死半生。
生か死か、審判が下るその時まで、人々を助け続けるのが彼に残された唯一の道。
水卜唯乃莉は、そんなエゴに強引に付き合わされただけだ。
たとえ外から見て彼女が問題児であろうとも、当の本人が伸ばしてもいない手を取るべきではない。
そう心の奥底で思ってはいても、目の前に差し出されたチャンスを見逃すことはできなかった。
「こうしてみると、人助けって、思ってたよりも難易度の高いミッションだな……」
それを課した女神に視線を向ければ、「そうでしょうそうでしょう」と、したり顔で豊かな胸を張っていた。憎らしい。
その隣で、部長が「だからやりがいがあるのよ」と、同じく大きな胸を張ってウインクしてくるのが若干ウザい。
とは言え、そんな後ろ暗い事情がある以上、こちらから彼女の欠席をとやかく言うことはできない。
もう勝負は始まっているのだ。
無事更生できれば有志部の勝利、できなければ唯乃莉の勝利。
「というわけだから、今日はこのメンバーで作戦会議と行きましょう」
パンと手を打ち、部長の雪菜が会議の開会を宣言した。
そしてそのまま、視線を横にスライドさせる。
「智悠君と真白さんの二人には、休みの間に案を考えてくるように言っていたけど、何か思いついた?」
問われて、二人はしばし考える。
先に口を開いたのはハナだった。
「何か他に熱中できるものを探すというのはどうですか?」
「熱中できるもの?」
「はい。私はてんか……こほん、遠くにいた頃はすごく退屈していたのです。でも、とある素晴らしい趣味に出会えたことで毎日が楽しくなりました。なので、水卜さんも、何か熱中できるものがあれば変われると思うんです」
途中思いっきり『天界』と言いそうになっていたけれど、ハナは華やぐような笑顔で何とか誤魔化し、そう力説した。
それは何とも感動的な話だ。
彼女の言う素晴らしい趣味が人間界の覗きだと知っている智悠は、素直に涙は流せないが。
「なるほど。良い考えかもしれないわね」
しかし、そんなことなど露ほども知らない雪菜は、顎に手を当ててふむふむと頷いている。
確かに良い考えだ。
中二病患者は、言わばカッコいいことに関心が向いている状態。
その関心を、もっと別の普通のものに移し変える。
「となると、水卜さんが何に熱中するのかを調べないといけないわね」
ハナの案を検討していた雪菜は、そう言って向かいに座る紗織を見た。
「桜井さん。水卜さんの趣味は?」
「あの子の趣味……」
紗織は記憶を掘り起こすように唸った後、
「小さい頃はよく本を読んでましたけど、今はちょっと……わからないです」
「友達なのにか?」
気になって智悠が口を挟むと、紗織が切れ長な瞳を向けてきて、
「私と唯乃莉は友達じゃないから」
と、やけに強い口調で言ってきた。
「お、おう……」
カースト上位の女の子にそんな目を向けられては、気弱な男子はへどもどするしかない。
「じゃあ、智悠君の意見は?」
気を取り直して、雪菜は今度は智悠のアイデアを求める。
「僕の考えは大体ハナと同じです」
「同じ?」
「はい。何か部活に入ってみるというのはどうかと」
「部活ね……」
紗織から聞いた事前情報によると、唯乃莉は万年帰宅部だと言う。
あの人格で団体行動ができるか否かはさて置くとして、そもそも部活動自体に興味がないらしい。
この学校は部活動の種類が豊富ゆえ、生徒の部活動加入率は9割を超えている。
彼女のように帰宅部を貫く生徒は少数派だ。
「部活に入れ込むようになれば、水卜も少しは変わると思うんですけど」
智悠が考えを述べると、雪菜は首を縦に振り、
「なるほど。活動自体に加えて、部活の中で団体行動を学んでもらうというわけね」
「まあ、そういうことです」
「だとすると、なおさら水卜さんの趣味を調べないといけないわね。仮に加入を打診するとしても、本人の好みに沿ったものの方が良いでしょうし」
「あ、それなら、私が訊いてみます」
智悠と雪菜が詳細を詰めていると、やり取りを聞いていた紗織がそう申し出た。
スマホを取り出し、再びLINEアプリを起動する。
しばらくフリックしていたと思ったら、やがて形の良い眉を寄せて難しげに唸り出した。
「どうしたの? 何かわかった?」
雪菜が尋ねると、スマホの画面をそっと見せてくる。
と、そこに奇妙なものを見つけた。
(あれ? トーク画面が新しくなってる……?)
ついさっき見たはずの、欠席の旨を告げるメッセージが綺麗さっぱり消え、唯乃莉とのトーク履歴が刷新されていた。
少々気にかかったが、それよりも今重要なのは彼女からの新しいメッセージだ。
気を取り直して画面を注視する。
趣味を尋ねるメッセージのすぐ下に、白い吹き出しで『人間観察』と表示されていた。
「さて、今すぐ人間観察部に行って話を通してきましょう」
「そんな部活はないです、雪菜先輩」
立ち上がりかけたアホな先輩の袖を掴む。
いくら豊潤な部活動数と言えど、流石にそんな特異すぎる部があるわけがない。
全部活は把握していない智悠でもそれくらいはわかる。
「ていうか、趣味が人間観察ってどういうことだよ……」
女神でもあるまいし。
ことごとく期待を裏切らない少女だ。
隣でハナが「お友達になれるかも……」と呟いているのは無視するとして、どうしたものだろうか。
「はあ……」
部活作戦の雲行きが怪しくなり、知らず深いため息を漏らす。
水卜唯乃莉の脱・中二病計画。
わかってはいたことだが、なかなか一筋縄ではいかなそうだ。
その後、休みの間に考えてきたアイデアを次々に出しては議論したのだが、そのことごとくが同じような理由で効果薄と結論づけられる結果となった。
「中二病って大変なものなのですね……」
「そうだな……」
アイデアを出し尽くし、ぐったりと机に突っ伏すハナと智悠。
なかなか手応えを掴めず、部室内の空気がしだいに重たいものとなる。
「あなたたち、少し考えすぎているのではないかしら」
それは、今までずっと聞き役に徹していた部長からの言葉だった。
「……そう言えば、まだ篠宮さんの意見を聞いてないですよね」
「確かに。先輩は何かアイデアないんですか?」
何の気なしにハナに同調した智悠だったが、この時の彼はあまりにも浅はかだった。
あれほど不安がっていたはずだったのに、こうして彼女に意見を求めてしまったのだから。
雪菜は自分を見つめる三つの視線を受け止めると、ふっと美しい微笑みを浮かべた。
「何も難しく考える必要はないわ。要は彼女を変えれば良いわけでしょう?」
黒髪の上級生は口元の微笑をさらに深めると、
「———女の子が変わる理由なんて、一つしかないじゃない」
そう言って、その瞳を下級生の男子へと向けた。