楔
村崎紗月さんの歌「赤い鎖」に寄せて。
十二月の彼女の誕生日にネックレスを贈った時、赤い楔を打ち込んだ、と思った。彼女の心に。
そのネックレスは肌の弱い彼女の為に純度の高いシルバー925のチェーンで、チャームは赤いガーネットだった。銀と濃い赤が、Vネックから覗く彼女の鎖骨を綺麗に彩っていた。十二月の誕生石とは違うけれど、冬には、殊に十二月には、そして何より彼女には赤い色がよく似合った。
塾の講師として働いていた僕にしては奮発したほうだろう。そして彼女は塾の生徒だった。大学受験に落ちて一年目の浪人生だ。僕らの交際は当然、塾には内緒だった。彼女も今時、珍しく口の堅い子で、僕との仲を、一種、彼女の交友範囲の中ではステイタスとなるであろう事実を、誰にも喋らなかった。
僕らは時々、僕のアパートで逢った。彼女の家は厳格で、彼女はうちに一泊もしたことがない。けれど夕食をたまに振る舞ってくれた。僕が美味いと言うとはにかむように笑った。笑うと片頬にえくぼが出来た。セミロングの栗色の髪からは、いつもシャンプーの良い匂いがした。
ある日、僕は起業して順風満帆の友人宅にパーティーに誘われた。高層マンションの最上階という、僕の暮す安アパートとは比較にならない城のようなその一室には黒い革張りのソファーや、ハラコを被せたようなソファーやらが広々とした空間に鎮座し、友人は露出の多い美女を侍らせながら、好きに呑めよと僕に言った。勧められたカクテルを、僕は呑んだ。まるで味が解らなかった。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、ふかふかとして頼りない。雲上の世界とはこのようなものか、と僕は地上に散らばるネオンの明かりを見ながらどこか寒々しい心地で思った。お前もうちで雇ってやろうかとの誘いは、丁重に断った。そのまま僕は帰路に就いた。暖房に慣れ切った身体は、外の寒風に悲鳴を上げた。白い息を吐きながらマンションから帰る途中、空を見上げた。マンション前は公園になっていて、彫刻刀で削り出したような樹の枝々に、星が引っ掛かっているように見えた。小さなその星が何だか愛おしくて、僕は戯れに手を伸ばした。酔っていたのかもしれない。
友達が死んだの、と彼女から聴かされたのはその翌日だった。首吊り自殺だと言う。受験ノイローゼだったみたい。そこまで言うと、彼女は初めて静かに涙を流した。高層マンションに住む友人の世界より、こちらの世界のほうが余程、僕の常識と感覚に馴染んでいた。その晩、彼女は初めて僕の部屋に泊まった。自宅には、友人の家に泊まると言ったそうだ。それで誤魔化せるものかは解らない。けれど彼女はその時、切実に温もりを求めていた。必死で僕を受け容れ、僕もそんな彼女を受け容れた。彼女の細い肩が震えていた。彼女はベッドでも、僕のあげたネックレスだけは外さなかった。彼女が身動きするたび、そのチェーンとチャームが揺れ、時に鳴いた。泣く彼女に同調するように。
明け方、まだ空がようやく白み始めた頃、ろくな朝食が出せないことに気付いた僕は、コンビニに行った。彼女の好みそうなおでんの具材と、自分の好きな具を買って、汁を一杯に入れてもらった。持って帰る途中、コンビニの袋の中で容器が揺れ、汁が少しこぼれた。もう陽が昇ろうとしていた。僕の眼前に真っ赤な朝焼けが広がる。真っ赤な。
彼女の胸に打ち込んだ楔は、まるで儚い幻のようなものかもしれないけれど。この朝焼けのように、いつまでも刻まれ、存在を声高に主張し続けるものであると良い。例え僕と彼女がいつか、万一離れる日が来たとしても。その楔は煌々と輝き続けるのだ。