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「鎌倉・室町・江戸、オール3代将軍総進撃(後編)」(江戸幕府初期の政治システムの形成とざっくりとした3代家光までの歴史)

8話の続きですが、9話単独でも問題ないように書きました。


 前回、鎌倉幕府と室町幕府の3代将軍を振り返りました。書きながら思ったのですが、やはり3代目を書こうとすれば、2代目について触れざるを得ません。というよりも、偉大なる創業者と3代目を、2代目がどのように政治的に繋ぐかが重要なのでしょう。


 鎌倉の2代目は17歳で将軍になり20代の若さで押し込め隠居になりました。3代目の育成どころではありません。おのずから源実朝は自分の路線を模索せざるを得ませんでした。室町の2代目は3代目に優秀な重臣(有力守護大名)と、統一政府の行政機構とそれを支える官僚集団を残しました。足利義満はこの路線に乗り、また自らの主導権を十二分に発揮して室町幕府の最盛期を作り上げました。


 さて、ここまでくれば次に誰を書くかお分かりでしょう。


 江戸幕府2代将軍の徳川秀忠(1579-1632)です。


 徳川家康の3男ですが、兄の結城秀康(1574-1607)を差し置いて、後継者となりました。家康(子供の好き嫌いが明確でした)が秀康を嫌っていたからともいわれますが、実際に秀康は豊臣家に養子に出されます。母親の家柄が関係していたともいわれますね。秀忠の母親は西郷氏出身。この西郷は美濃土岐氏の一族で、三河守護代も経験したことのある名門であり有力豪族です。そして秀康は三河知立神社の社人の娘。あまり有力な社人というわけでもなかったようなので、どちらが三河徳川の後継者にふさわしいかといえば、秀忠でしょう。


 さて、その秀忠は早くから徳川の後継者として扱われ、最初は織田信雄の娘を、その次に浅井三姉妹の江と結婚します。豊臣と徳川は次世代の秀頼の母と、秀忠の妻という間柄で結ばれました。


 その秀忠ですが一部創作ではひっどい扱いです。関が原の後、家康が重臣に後継者を誰にするかと下問した逸話の影響もあり、実直だけど主体性のない男、親の言いなり。嫁の尻にしかれていたつまらない男、真田への逆恨み等々。まあこんなものでしょうか。


 しかし実際の秀忠は優秀な政治家でした。家康の元を離れては早くから大阪にいて、豊臣政権下の諸大名やその後継者、家臣と積極的に交流を持ちました。どちらかといえば交際関係が下手な人見知りの家康とは対照的に社交的です。また徳川家中の次世代を担う若手を側近とし(家康の割り当てもあったのでしょうが)その中から自分の側近を作り出しました。


 土井利勝、酒井忠利、酒井忠世、井上正就、永井尚政などです。彼らは2代将軍のもとで「老中」となり権勢を振るいました。


 早くから家康と離れて後継者修行をしたのがいい影響をもたらしたのか、それとも子育てという点では家康より豊臣秀吉のほうが優れていたのかもしれません。秀吉の育てた優秀な政治家が徳川秀忠と考えると、何かこう喜劇的ですらあります。秀忠は良くも悪くも名付け親でもある豊臣秀吉を反面教師としました。豊臣家の秀吉と秀次の又裂き状態の悲劇を見たためか、自分が将軍になっても駿府の家康に配慮し、自分の側近が大久保長安事件で粛清されても、幕府の亀裂を避けるためにじっと我慢しました。家康としても徳川の分断を避けるために先手を打った側面もあります。大久保氏への対応は冷たいとも表現できますが、第2の秀次事件を避けるためにはそうするしかなかったのでしょう。


 謹厳実直な2代目は、なにせ「秀忠」という名前を豊臣家滅亡後も改名しなかったほどです。秀吉からもらった名前なのですから、改名してもよかったはずです。あえてそれを選択しなかったのが秀忠の秀忠たる所以なのでしょう。かといって情に流されることもありませんでした。現に徳川15代の中で、家○という名前でないのは、彼を含めで綱吉(5代)、吉宗(8代)、そして最後の慶喜(15代)だけです。4人とも江戸幕府に良くも悪くも大きな影響を与えた将軍でした。


 閑話休題またのなをきどうしゅうせい



 良くも悪くも家康の路線を踏襲しつつ、「徳川家による幕府」という体制を安定させるためには、これ以上ない人材だったのが秀忠です。


 さて鎌倉・室町と、江戸幕府のもっとも大きな違いは何かといえば、それは前者があくまで日本の統一政権、武士や大名の諸勢力、もしくは公武合体による連合政権だったのに、結果論ではありますが江戸幕府はあくまで徳川家による日本の私物化でした。


 前の室町幕府は将軍家の直轄領が少なく、そのため権威が衰えると不安定化しました。鎌倉にいたっては将軍独裁から有力御家人の合議制、北条得宗の専制など様々な政治体系を経験しましたが、それでも建前として最後まで御家人の政権でした。


 7話でも触れましたが、関ヶ原の合戦(1600)の後、徳川家康はあくまで本拠地である江戸を守ることを重点に諸大名を再編しました。関ヶ原から東の東海道、または東山道までは息子や徳川譜代の大名を置き、関東からは佐竹などの有力大名を追放。岐阜と近江、そして京を抑えます。しかしその他は気前よく豊臣恩顧の大名などにも領土を振舞い、地域の問題解決も含めて押し付けました。


 徳川家康が征夷大将軍となったのは1603年。2年後に秀忠に譲り、徳川宗家による世襲の先例を作ります。創業間もない幕府の体制はまさに家康の専制体制です。家康の信任を得た本多親子や、金地院崇伝、南光坊天海、林羅山、三浦按針などです。それぞれ将軍家との取次、宗教政策や朝廷対策、徳川幕府の理論的な裏づけ、外交政策などに寄与しました。彼らは家康個人の信任を背景にしており、家康の死後、林や天海を除けば、その多くが失脚したり隠遁したりしました。


 さて、家康が将軍を退いて駿府において政治の実権を握った大御所政治の間も、征夷大将軍を頂点にした正式な幕府は江戸にあります。曲がりなりにも軍政なのですから、それなりの体制を整える必要があります。


 しかし秀忠(江戸幕府)は、鎌倉や室町の歴代幕府の制度をほとんど導入せず、徳川家の政治システムを幕府の政治行政機構に昇華させることを選びました。たとえば評定衆(現代でいうなら閣議)、侍所(軍・警察権)、問注所(裁判所が近いか)といった制度は継承しませんでした。


 これは室町滅亡後、時間が30年ほど経過してノウハウを持つ人間がいなくなっていたことが大きいのかもしれません。実際、最後の室町幕府の混乱を見てみれば、とてもではありませんが経験者や官僚がいたとしても、そのまま受け入れるわけにはいかなかったでしょう。



 ここからは私の独断と偏見で書きますが、鎌倉や室町の制度は、建前でも全国の武士にも政権に参加する機会があったのです。しかしそれは徳川とその家臣で独占しようとした江戸幕府にとっては都合が悪かったのでしょう。パックス・徳川(徳川による平和)。徳川の圧倒的な武力による政治的な安定と私物化を継続するには、徳川の政治を天下の政治とすればよかったのです。


 たとえば時代劇でよく聞く老中は(以下ウィキより抜粋)


老中ろうじゅうは、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって(略)名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄としよりに由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「方々」を意味する敬称の「中」がついたものである。


 まさに徳川の政治が天下の政治となったわけです。さて、秀忠は家康の死後、親政を開始します。自ら取り上げた側近や譜代大名を老中として幕政を取り仕切り、親藩であろうと譜代であろうと外様であろうと厳しく取り締まり、統制を強化しました。朝廷に対する強硬姿勢も継続し、娘の和子を後水尾天皇に入内させ、紫衣事件により幕府の朝廷に対する優位性を確固たる物としました。普通なら反発が起きてもおかしくないはずですが、これまでのような軍事クーデターが起きることはありませんでした。圧倒的な徳川の軍事力と、それを背景にした硬軟織り交ぜた秀忠の政治的なリーダーシップの賜物といってよいでしょう。


 難しいところですが「起きた事」はあれこれ評価できますが「何も起きなかった」のは、どう評価すればよいのでしょうか。何もなかったからよかったのか、何も起きないように水面下で努力していたのか、それともただ単に偶然の産物なのか。


 閑話休題カンワキュウダイ


 秀忠時代の老中ですが、ある意味で家康時代と継続していました。すなわち秀忠個人の信任を背景に、かなりの部分まで独断で判断する裁量を与えられていました。幼いころからの顔見知りであり戦友、そして寵臣であるからこそできた間合いであり関係性です。本来であればクーデターがいつ起きてもおかしくない状況なのに、スムーズに幕政が進めていた理由でもあります。


 秀忠は自らも将軍を引退後、大御所となり江戸城西の丸に入りました。地理的に二元政治体制となることを避けたのでしょう。そして最後はかつて寵愛した聡明な忠長を幕府のためにならないとして粛清することを決断し、この世を去りました。



 さて、ようやく徳川家光(1604-51)です。男色家の馬鹿殿です。以上




冗談です。




 講談では名君扱いされることが多いですが、そこまで無条件に褒め称えるのもどうかと思います。この人は容姿も含めてかなりのコンプレックスの塊で、嫡男でありながら後継者として扱われなかったりしたため、いろいろな事をこじらせていました。男色で過剰に愛と忠誠を求めたのもそれが理由でしょうか(単なる美少年好きな可能性も捨て切れませんが)。秀忠はその欠点も長所も十分に理解して、自らの重臣を仕えさせるのと同時に、優秀な若手を側に置くことに配慮しました。


 大御所秀忠の死(1632)後、家光は親政を開始しますが、ここで大きな方針転換を行います。妻への偏愛でしられる外様大名の細川忠興と、その息子の細川忠利は膨大な往復書簡を残しており、初期の江戸幕府の体制や政局をうかがう重要な資料となっています。その中で「近頃は年寄に相談しても直ぐに答えが返ってこない。こまったものだ」という一文があります。


 家光は父親時代からの重臣を「信用」はしても「信頼」はしていませんでした。信用とは過去であり、物理的なもの。信頼とは未来への期待であり、精神的なものといいます。確かに父親のもとでの功績や名声もあり信用はしていましたが、家光にとっては信頼できる存在ではなかったようです。そのため老中の裁量の範囲を狭め、何事も合議で行うべき、将軍である自分の親裁を仰ぐべきとしました。


 当然、行政の決済スピードは遅くなりますね。独裁と合議はどちらも長所と欠点はありますが、この場合は欠点が目立ったようです。それが前述の細川親子の書簡にも出てきます。あの権勢を振るった土井(利勝)ですら若い将軍に配慮して、身動きが取れなくなっていると不満をこぼしています。さすがに家光はこの状況をまずいと思ったのでしょう。かといって老中にこれまでどおりの裁量を与えては将軍親政の意味がなくなります。


 そこで1633年、家光は側近6人を指名し、彼らに幕政の意思決定権を与えました。6人とはすなわち「知恵伊豆」の異名で知られる松平信綱を筆頭に、堀田正盛、三浦正次、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次です。このうち秀忠時代の老中の引退により、4人が昇格(松平と堀田、阿部の二人)したことで解体されましたが、これは後に若年寄(老中の補佐)の原型となりました、


 つまり秀忠時代の老中の棚上げであり、自らの側近に政治の実権を与えたわけです。秀忠時代の遺臣も心得たもので、年齢もあり順序引退。鎌倉や室町の血なまぐさい政争に比べると、本当に同じ幕府か?と思ってしまいますね。


 この2年後。老中の月番制が発足します。月ごとにある老中が政務を担当し、月ごとに交代する。良くも悪くも特段の飛びぬけた権力者を避ける知恵でもありました。こうして何とか就任当初の混乱を乗り越え、父親がつけた優秀な側近集団の支えもあって家光政権は軌道に乗ります。個人的な性格に問題が多くても、優秀な側近を信頼して政治を任せたスタイルは、4代の家綱、5代の綱吉にもある程度共通しているかもしれません。えらそうに評価させていただくなら、少なくとも合格点は余裕でクリアでしょう。


 幕府の政治システムはこの後、ざっくりいうなら将軍親政から老中(譜代大名)の合議制になります。徳川の政治の私物化は、確かに安定をもたらしましたが停滞ももたらし、幕末においてはその制度疲労が明確となりました。この辺の制度的な変遷をもうちょっと詳しく書きたいんですが、またいずれ。



 さて、江戸幕府の老中システムの成り立ちを見てわかっていただけたと思いますが、制度というのは「○○という官職を作りました。権限は××で有資格者は△で☆が任命する」と法律や行政命令で作っても、実際に機能するかどうかとはまったく別問題なんですね。それまでの政治的な経緯があり、目の前の課題がある。それを無視して「××の解決のために○○という制度を作ったぞ!」としても意味がないわけです。


 法律を勉強したわけではないので、解釈に誤りがあったら申し訳ないですが、国際法に象徴される多くの慣習法は、それまでの判例や社会通念により出来上がっていたものを文章化したものです。近代化の中で過去の慣習法を否定する積極的な制度化も行われるようになったわけですが、それまでの経緯をまったく無視して作ったところで、うまくいくわけがないのです。


 というわけで次は明治中期から敗戦直後まで日本に存在した内大臣ないだいじんという官職の権限や政治にもたらした影響を見ることで、新しい制度や官職というものがいかに定着し、そして運用されていったのかという実例を見てみたいと思います。


 お付き合い頂きありがとうございました。次は「内府みたいに尖っては」「それ以上いけない」でお会いしましょう。




 …予告しちゃった。外したらどうしよう(遠い目)




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