「鎌倉・室町・江戸、オール3代将軍総進撃(前編)」(鎌倉幕府と室町幕府のざっくりとした歴史)
珍しく予告タイトルまま。自分でもびっくり
『売り家と唐様で書く三代目』という諺があります。川柳が元ネタだともされますが、意味としては以下のようなものです。すなわち初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになる始末、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの-というのが大辞泉の解説です。
つまり家業を潰すも生かすも、3代目次第というわけです。で、タイトルにつながるわけですね。そもそも「幕府」という制度は征夷大将軍による軍政であり、完全に有名無実化した公地公民制を根本概念とする律令体制のもとで、土地の私有財産制を根幹とする武士による政権を、如何に位置づけるかという問題でした。言葉を悪くすれば、朝廷からの委任により、政権を合法的に「私」したわけです。
鎌倉・室町・江戸の幕府の初代将軍は源頼朝(1147-1199)・足利尊氏(1305-1358)・徳川家康(1543-1616)、彼らはまさに創業者であります。ではその3代目はどうだったのでしょうか?今回はそれぞれの3代目を振り返ってみたいと思います。
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ます鎌倉幕府。初めての「武士の武士による武士のため」の政権でした。初代将軍の源頼朝は傑出した政治家であり、その傘下には三浦・和田・畠山・比企、八田に小田、足利、側近集団の安達に梶原、大江、妻の実家の北条氏。少しでも鎌倉幕府の歴史(ぶっちゃけ、やる夫鎌倉幕府が一番わかりやすいですね)をかじってみればわかりますが、思わず「うへぇ」と変な声の出る濃いメンバーです。よくもまあ、これだけのメンバーを…。ウィキをざっと流し読みするだけでも「面倒くせえ!」と叫んでしまいます。
彼らも御曹司という肩書きだけにひれ伏したのではありません。彼らは自らの指導者に自分たちの所領を保障し、紛争が起きれば公正公平な調停者として振る舞うこと、そして朝廷に自らの代理人として交渉することを望みました。そして頼朝はその期待に十分に応えられる政治家でした。頼朝は戦下手であったともいわれますが、それ以上に彼らを従わせるだけの権威がありました。それは源氏の御曹司という肩書きだけではなく、源頼朝という政治家個人に対する尊敬の念でもありました。
まず弟(義経や範頼など)や親族、創業の功臣(上総氏)であろうとも幕府の体制に従わないものは躊躇なく排除しました。身びいきのようなものはまるでなかったと思われます。そして論功行賞は一癖もふた癖もある連中を頷かせるだけの理がありました。これは京から招聘した大江や三善といった公家出身者をブレーンに、律令体制の判例を研究させたことも大きいですが、判例をそのまま当てはめるだけでは関東の荒武者は納得しません。それぞれの実情に合わせた新規の解釈も行い、判例を元に実際の実情に合わせました。言葉にすれば簡単ですが、不満があれば弓刀で決着をつけようというお国柄で、法による支配を始めようとしたのです。これはいくら評価しても、過大評価にはならないでしょう。
頼朝は富士川の合戦の後も上洛せず、平家の凋落がはっきりしたあとも基本的に鎌倉に留まりました。そして坂東武者の代理人として朝廷と激しい交渉を行い、関東の武士にとって重い負担となっていた京への出仕を軽減させます。また義経追討の名目で朝廷から行政権を分捕り、幕府の体制を整えました。関東の武士が期待した役割を見事に果たしたのです。また朝幕関係については、自らの娘を入内(乱暴に言うなら皇族に嫁ぐこと)させることで結びつきを強化しようとしました。朝廷内部における同盟相手の九条氏失脚などで紆余曲折がありましたが、これは結局成功しませんでした。
頼朝の急死(1199)です。落馬したことが原因とされます。急死だったようです。前後して入内予定だった娘も前後して死去したため、話は流れました。鎌倉幕府の歴史書である東鏡を愛読書としていた徳川家康の孫娘になる徳川和子の入内は、まさにこの先例に倣ったものだったのでしょう。
閑話休題(前置きが長いのはいつものこと)
さて、3代の前に行く前に2代目将軍の源頼家(1182-1204)ですね。頼朝の死去当時、彼は17歳です。偉大なる親父の急死で跡継ぎが17歳。
…無理じゃね?と思った貴方。その直感、大当たりです。結論から言うと無理でした。
頼朝だからこそ関東の荒武者連中は従っていたのです。幕府の重臣は頼朝の体制を存続させるために要職にあった十三人の合議制(評定衆の雛形とも)を導入し、体制を安定させようとしました。将軍独裁からの大転換でしたが、しかし17歳の青年将軍には当然面白くありません。また重臣同士はそれぞれが競争相手であり、とてもではありませんが円滑な政権運営などできるはずがありませんでした。青年将軍にもそれはわかっていたでしょう。
頼家は無能だったから解任されたとも言われますが、ではどうすればよかったのでしょうか。彼は妻の実家である比企一族と関係を強め、再度将軍独裁体制への転換を図ります。しかし一部の勢力を優遇することは他のすべての勢力からの反発にあいました。1203年に病に陥ると、監禁されて将軍職を剥奪されます。比企一族は粛清され、翌年には(おそらく)母親の黙認のもとで暗殺されてしまいました。北条政子は源頼朝の妻にふさわしく、母親であることよりも政治家であることを選択しました。だからこそ承久の乱(1221)におけるような事態で、彼女の発言は影響力をもてたのです。
そして3代将軍となったのは源実朝(1192-1219)。頼家の弟でした。幕府内部の対立により、先代将軍が押し込め隠居になったのです。朝廷として新たな将軍を任命しない、もしくは辞任を認めないという嫌がらせも出来たはずですが、当時の実力者である後鳥羽上皇はそれをしませんでした。むしろこの3代将軍に恩を売ることで朝幕関係を深め、朝廷の権威確立を狙っていたのかもしれません。実朝としても個人として宮廷文化への憧れもあったようですが、それ以上に朝廷と結びつくことで幕府の重臣たちを牽制し、将軍の権威を高める狙いがあったのかもしれません。しかし彼は、兄の遺児により、鎌倉鶴岡八幡宮で暗殺されました。この暗殺事件は謎が多く、誰が黒幕だったのかさまざまな説があります。とにかくここに源氏将軍は絶えました。
ちょっと話が脱線しますが、この後の将軍に幕府は皇族将軍を迎えようとしました。後鳥羽上皇はこれを拒否しましたが、どの時点で幕府への武力決起を考えていたのかは定かではありません。しかしこれだけ血なまぐさい政権に皇族を将軍として送るのは躊躇したでしょう。結局、幕府は朝廷内部の同盟相手たる九条氏から将軍を迎えました。鎌倉幕府は北条氏が権力闘争の末に主導権を握り、お飾りの将軍の下で幕府を運営しました。御家人としても自らの代理人として私有財産を保障してくれれば、将軍は誰でもよかったのかもしれません。
閑話休題
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関東の田舎政権となった鎌倉幕府が自壊し、天皇親政を目論んだ建武親政が失敗すると、北条氏と代々縁戚関係にあった源氏の名門である足利尊氏が征夷大将軍となります。何度も書きましたので、ざっくりといきましょう。足利尊氏は北条氏の残党を追い払った後、関東に独自勢力を築こうとしたものの、敗北して九州に追いやられました。皇統は二つに別れ(南朝と北朝)、北朝側の幕府も勢力争いで分裂し、これに南朝支持の諸勢力も加わって、ぐちゃぐちゃになりました。
こうした諸問題を解決するため、北朝と幕府は京において公武合体政権である室町幕府をつくりました。とてもではありませんが、鎌倉幕府を相続して関東に幕府を開く余裕などなかったからです。武士としての政権の継続性を明確にするなら、そのほうがよかったのでしょうが。さて2代将軍の足利義詮(1330-67)は、父とともに辛酸を嘗め尽くし、反抗した勢力の領土をそのまま安堵するなどして、なんとか統一幕府としての体制を整えます。影が薄いともされますが、九州で猛威を振るった足利直冬を撃退するなど、軍事的な才能はひょっとすると父より凌駕していたのかもしれません。
そして3代の足利義満(1358-1408)。金閣寺で知られる室町幕府最盛期の将軍です。父の築いた制度と重臣に支えられ、肥大化した守護勢力を討伐し、守護大名の相続に介入することで将軍の権威を高めました。勘合貿易により富を蓄え、財政を再建。南朝と北朝を統一し、名実ともに日本を統一しました。
さて、どこまでが義満個人の功績だったのでしょうか。父の引いた路線を大筋で継承しただけだとか、細川頼之、斯波義将といった重臣らの路線に乗っかっただけかもしれませんが、少なくとも数ある選択肢の中からもっとも望ましいものを選択し、さまざまな議論のある勘合貿易も(朝貢体制に組み込まれる危険性はともかく)必要とあれば押し通しました。勘合貿易により通貨が大量に輸入され、諸産業の発達とあわせて日本の経済は大きく発展しました。遠隔地の公益や取引も行われるようになります。政策的な意図がどこまであったかはともかく、経済的には成功しました。個人的には非常に癖のある性格だったようですが、細川や斯波はそれを適度に受け流し、守護大名の統制に結びつけました。少なくとも唐様で書く三代目でなかったのは確かです。名将軍といってよいでしょう。
個人的見解ですが、何もかも初めてだった鎌倉幕府のそれは、何もない荒野に新たな建物を作るような難しさであったと思います。頼家にしても実朝にしても失敗したからこそけちょんけちょんに言われますが、何の先例もない状況において、懸命に政権運営に取り組もうとしていたことだけは確かだと思います。何せ、何をしても初めてなのですから。なにより初代が偉大すぎました。頼家は父のようになろうとして失敗し、実朝は公卿になろうとして失敗しました。彼らの失敗があったからこそ、室町幕府の将軍達はその経験に学ぶことが出来たわけです。
対中政策を除くとすれば、足利義満の名君としての評価は揺ぎ無いものです。そして三つめの幕府である江戸幕府、その3代将軍は、源実朝になるか足利義満になるか、注目されていました。
そして江戸幕府3代目の徳川家光。創作物では名君イメージがありますが、さてその内実は…というのは次回に。
…ボケれなかった