「平将門の理想を実現するために!江戸よ!私は帰って来たぁ!」「これが、三河武士か」(ざっくりとした関東の歴史、関東独立王国の系譜とその終焉。三条実美の功績)
「日本の首都はどこでしょう?」という有名なトリビアがあります。「日本の首都を決めた法律はない」というのが答えですね。首都の定義はお国柄の違いによっていろいろありますが(国家元首の住居、中央政府、国会の場所など)、戦後復興期には「首都圏整備担当大臣」があったように、東京を中心とした地域を首都と呼称する概念はあったようです。第二次大戦までは帝都ですね。今でこそ東京都は日本のGDPの五分の一、東京都市圏(一都三県、つまり東京と神奈川と埼玉と千葉)をあわせると世界最大級の都市圏ですが、かつて関東は日本における『田舎』でありました。
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関東はかつて坂東と呼ばれていました。坂の東、この坂は足柄山のことだそうです。ヤマト王権を引き継いだ朝廷がどこまで日本列島全体に影響力を持っていたかは、日本書紀に大体かかれています。内容をどこまで信じるかとかは、まぁこの際言いっこなしで。
静岡県は旧律令制の国のうち、西から遠江・駿河・伊豆の3国(線引きには多少変更あり)をあわせた県です。遠江は大井川の西から浜名湖までの範囲ですね(*)。『遠い』『江』、つまり遠い湖。この湖は浜名湖のことです。遠いのがあれば近いのがあるわけで、近い江、つまり琵琶湖のある近江(現在の滋賀県)ですね。どこから近いかといえば、都のあった大和(現在の奈良県)からです。朝廷(今回は中央政府の意味で使います)は日本統一の過程で領域に組み込んだ地域に線を引き、国を設置しました。遠江とか、近江とか現在では旧国名といわれる広域行政単位です(現在の都道府県にほぼ相当)。
出雲大社の大国主命の国譲り神話で、討伐軍に逆らった息子の一人が逃げ延びたとされるのが、信濃(長野県)の諏訪。現在の諏訪大社の始まりとされます。史実と神話がいろいろ組み合わさっていると思われる国譲り神話なるのものが正式にいつ成立したかはわかりませんが、少なくともこの時代には信濃が東の果てという感覚だったと思われます。平安時代に成立したとされる『伊勢物語』の中で、都の貴族であるとされる主人公が「こんなに離れた場所に来てしまった」と嘆くのが遠江(駿河だったかもしれません)です。当時、すでに東北地方も九州南部も、名目上は朝廷の支配化に組み込まれていたのにもかかわらず、都の人間にとっては遠江こそ東の果てという感覚なんですね。
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今では北関東と南関東と分けて呼ばれることが多いですが(たとえば高校野球大会とか、衆議院の比例ブロックとかですね)、かつて関東は旧利根川で東西に分けて認識されていました。すなわち東関東と西関東です。かつて現在の関東平野のほとんどは海の底であり、現在においても相当の内陸部(つまり西関東)から貝塚(つまり近くに海があった)が発見されている理由でもあります。東関東の中でも下野(今の栃木県)あたりが先進地域であり、ここは早くから朝廷に服属して西関東進出の前線拠点のような役割を果たしました。また服属して間もない地域を中央が統制するため常陸(茨城県)、上総(千葉県北部)、上野(群馬県)の3国を親王任国-皇族のみが国司(都道府県知事に相当)になれるものとしました。時代が下って織田信長が上総守である!と名乗って「田舎もの」と馬鹿にされたのは、この辺の経緯を知らなかったからでしょうか。親王任国とすることで、豪族達をなだめる狙いもあったと思われます。つまり遠いとはいえ、自分たちは中央政府の直轄なんだぞということですね。
関東の歴史を語る上で、中央政府との距離というものは欠かせません。政治的には無論、地理的な意味での意味も含めたものです。結局平将門の謀反の原因も、突き詰めるならこれが原因でしょうか。
さて、前置きが長くなりました。坂東が支配下に置かれ、しばらくたつと未開発の広大な平野を、都から流れてきた下級貴族が競って開発しました。3話で軽く書きました、公地公民の原則を有名無実化した「墾田永遠私財法」が背景にあります。都では藤原氏が権力の中枢を牛耳る状況が続いていたので、地方で一山あてようかという感覚が近いでしょうか。今で言うなら中央官庁の現役の官僚が出身の地元に帰って自治体選挙に出るようなものかもしれませんね。
閑話休題(話が脱線して何が悪いと開き直ってみる)
先に3国を親王任国としたのも、新たな開拓地を中央政府に組み込む狙いもあったようです。しかし新たなしがらみのない土地にはルールなどあるはずもありません。水利権に土地の相続問題、横領に訴訟。武力による解決?そんなもの認められるはずがありません。豪族たちは中央政府の実力者との結びつきを深めることで、訴訟に有利になるように積極的な工作を行いました。
「力でやりゃ簡単じゃねえか。どうせ中央政府はこないだろうし、来るとしても時間がかかる」
関東でよくある親族との領有権争いにキレた平将門(?~940)は、計画的なものか、ただの思いつきなのか国府(国司の在所、すなわち都道府県庁)を襲撃。自らを親皇と名乗り、反逆者となりました。この反乱は2ヶ月ほどで鎮圧されました。結果としては将門の目論見は、中央政府の迅速な対応により叩き潰されたわけです。
しかし将門の関東独立王国の夢(呪い)は、坂東武者の中に生き残りました。ちなみにこのとき鎮圧に加わった平貞盛は平清盛の直接の先祖になり、平将門一族の流れからは千葉氏や上総氏など、のちに初代鎌倉幕府将軍の源頼朝のもとにはせ参じた有力諸侯につながります。なにか意味深ではありますね。とにかく将門を討ち取った一族の子孫である平家と、将門の一門の子孫(つまり平氏)から支持を受けて関東で地盤を築いた源頼朝との戦いは、平家物語にあるとおりです。頼朝は関東に「武士の武士による武士のため」の政権を作りました。このあたり3話ともかぶるので少々端折っていきましょう。
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鎌倉幕府は「武士の武士による武士のため」の政権でした。律令体制の根幹たる公地公民の原則に正面から喧嘩を売る私有財産制が根幹にあり、武士たちは幕府に対して自分たちが納得して従えるだけの公正公平な裁判と紛争の仲裁を求めており、先祖の開拓した領土の相続と継承を最も重視しました。
頼朝の子孫はその期待にこたえられず、幕府内部での権力闘争の末に勝ち残ったのが伊勢平氏の子孫とされる北条氏です。北条氏は血筋はともかく代々の当主である得宗や、一門は優秀であり、執権(乱暴に言えば幕府における首相を将軍とするなら、執権は官房長官役)を北条氏で独占しました。北条氏による権力の私物化でしたが、御成敗式目や承久の乱といった政治課題を乗り越えた以上、それも許されていました。
世界帝国との始めての戦いとなる元寇という国難を乗り越え、北条氏の支配もこれからも続く…とはなりませんでした。外敵との戦いのために恩賞は少なく、再度のモンゴルの襲来に備えるために各地の守護に北条一門を設置。特に九州や中国地方においては、これまで守護を世襲していた在地の守護と激しく対立しました。またこれと同じく政権の体質が「関東の地方政権」と化しつつありました。
そもそも鎌倉幕府は中央政府から大江広元(毛利元就の先祖)や三善康信といった中央政府の非主流派の公家を招聘し、律令体制の下で蓄積された判例なども踏まえた上で、彼らをブレーンとして朝廷と交渉し幕府の体制を整えました。源将軍が絶えた後は、征夷大将軍に摂家の九条家や皇族をむかえ、中央政府とのつながりを保とうとしました。ところが時代が下るにつれてさまざまな課題を解決した自信が慢心となり高慢となるにつれて、中央との関係を軽視する風潮が生まれました。中央とのパイプ役であるはずの将軍に対する敬意も薄れ、惟康親王が将軍職を解任された際には、身分卑しきやからが、親王の在所を叩き壊して追放したとも伝わります。都に近ければまた違ったのかもしれませんが、関東においてはさほど中央の権威と京とのパイプは重視されなくなっていたのです。
「武士の武士による武士のため」の政権であったはずの鎌倉幕府は、関東の田舎政権と化し、皇統の分裂といった新たな政治課題に北条氏が有効な解決手段を見出せなくなると、瞬く間につぶれ去りました。あくまで北条氏の権力の独占が許されていたのは、問題解決能力があったからです。
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さて、この鎌倉幕府を倒幕した後醍醐天皇と、源将軍家が絶えた後に残った源氏の名門たる足利尊氏は将来の政権構想をめぐって対立。関東に独自勢力を築こうとしたものの、敗北して九州に追いやられました。まあこの辺はややこしいのでざっくり書くとするなら、皇統は二つに別れ(南朝と北朝)、北朝側の幕府も勢力争いで分裂し、これに南朝支持の諸勢力もくわわってぐちゃぐちゃになりました。
こうしたぐちゃぐちゃを解決するため、北朝と幕府は京において公武合体政権である室町幕府をつくりました。とてもではありませんが、鎌倉幕府を相続して関東に幕府を開く余裕などなかったからです。しかし、関東と京という地理的な距離は解決されていません。そこで尊氏は自らの息子、2代将軍の足利義詮(1330-67)の弟である基氏(1340-67)を、関東公方(鎌倉公方)に任命。かつての幕府の在所である鎌倉に、第二の幕府を開かせました。統制できないのなら総督のようなものをつくって、独自にやらせるべしという考え方ですね。
しかし基氏の子孫は、再び平将門のDNAを発露させ、今度は自らが室町幕府に対抗するようになりました。反将軍の陰謀の影には必ずといっていいほど鎌倉公方があるとされ、6代将軍の時にはついに武力衝突にいたり、鎌倉府はつぶされました。
とはいえ中央政府から統制するには、やはり遠すぎます。幕府は再度、鎌倉府を再興させたのですが、今度も中央政府からの統制から離れ始めました。これに激怒した足利義政は自らの腹違いの兄を新たな鎌倉公方として送り込みますが、かえって紛争は長期化。延々とだらだらと2つの将軍と2つの関東管領と各地の守護が入り乱れて、都合1世紀以上にもわたり延々と争い続けました。
そして東の果てたる駿河今川氏に、都から一人の男がやってきました。幕府政所執事の伊勢氏の一族であるという伊勢新九郎-北条早雲です。新九郎は今川のお家騒動を収束させると、伊豆に進出。2代目の堀越公方を(おそらく幕府の命令を受けて)討伐し、伊豆を手中に収めました。西には今川という親族であり同盟国。延々と争いを続ける関東の伝統的な守護を尻目に、北条氏は着々と勢力を拡大。執権北条氏の後継であるとして北条氏を名乗り、都における中央官僚とのパイプや経験を活用し、古河公方を傀儡として関東に覇を唱えました。
そしてまた平将門の呪いが早雲の子孫にも降りかかります。豊臣秀吉の関東征伐(1590)です。関東の独自政権として認めてほしいという小田原の願いは、あっさりと叩き潰されました。小田原征伐をもって日本統一の最後の戦いとする本もあります(九戸の反乱は、あくまで反乱扱いとしたうえでのこと)。
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さて、小田原北条滅亡ののち、ここに入ったのは徳川家康です。「豊臣土木建設株式会社」のやり手CEOたる秀吉は、江戸に首府をおいて、どこそこの関東の要所に誰を配置して、おいちょっとそれは領土少なすぎるぞ、などと細かく家康をサポート(統制?)して関東経営を助けました。
関ケ原の合戦(1600)の後、家康の諸大名の再編を見ていますと「関東と関が原から東の東海道だけはなんとしても死守」という思惑がうかがえます。関が原合戦の前の小山評定において山内一豊の城と兵糧提供を契機に東海道の諸侯の城を接収した家康は、戦後に譜代大名を設置。尾張には自らの息子、岐阜、近江と譜代大名を置いて京までの道を確保しました。遠隔地の東軍に属した諸大名には大判振る舞いして、各地の諸問題解決を押し付けます。
さて、徳川家康の愛読書が東鏡(鎌倉幕府の歴史書)であることはよく知られています。鎌倉と室町の成功と失敗を研究した家康は、幕府を江戸において、朝廷を強力に統制することを図りました。もはや公武合体政権の必要はなく、むしろ江戸に幕府を置くならば朝廷の権威が高すぎるのは好ましくないと考えたのでしょう。この点は地下の出身で天下人へと駆け上がった豊臣秀吉のそれと比べて対照的です。また関東における天台宗の総本山である寛永寺は東叡山と呼ばれました。東の叡山。叡山とはいうまでもなく都の守り手です。寛永寺の開祖である天海が何を考えていたのかは、想像するまでもありません。
江戸幕府による朝廷の統制はある程度は成功したのですが、そもそも征夷大将軍も帝が任命するもの。大義名分という点では朝廷にかないません。幕末には国難に対処するため「公武合体運動」なる、家康が聞けば激怒するような運動も起きましたが、考えてみればこれは室町幕府への回帰でもあります。幕末に幕府の要職を歴任した小栗忠順は、最後まで徳川の家臣でしたが、それ以上の国家観をもてなかったのが彼の悲劇でもありました。14代将軍からは江戸を離れて大阪にはいり、事実上大阪と京都が首都になった感がありました。
そして王政復古を迎えます。
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日本最初の首相は誰かと聞かれれば、内閣総理大臣という意味で言えば伊藤博文です。しかしそれ以前、明治4年(1871)から明治18年(1885)まで14年近く、事実上日本の宰相であった人物がいます。三条実美(1837-1891)です。
明治政府は摂政・関白・征夷大将軍といった「令外官」(4話で説明しましたあれです)を廃止。新たに太政官制度を布告しました。そしてトップの太政大臣に就任したのが彼です。征韓論における留守政府の統制に失敗したことで(誰がやっても難しかったでしょうけど)、三条は弱い指導者のイメージがありますが、そもそも名門公家でありながら一貫した尊王攘夷派である彼は、さまざまな政治経験を重ねるに連れて観念論にとらわれないリアリストとなりました。だからこそ政治手段を選ばない権謀術数の塊のような岩倉具視と手を結ぶことも厭いませんでしたし、彼の代理人として振舞うこともためらいませんでした。
さて、京から江戸に都が移ったのは明治2年(1869年)。三条が右大臣の時代です。これより前に大久保利通主導で大阪への遷都が計画されましたが、反対論が根強かったために、辣腕と強気で知られるさしもの大久保も「遷都ではなく、ちょっと長めの行幸だったんだよ!」と言いつくろうことでお茶を濁しました。江戸への遷都を強硬に主張したのは、ほかならぬ三条です。その理屈としては「京は帝のお膝元としての長い歴史があるので大丈夫だが、江戸は長く徳川将軍のお膝元であった。ここに帝が住まうことで人心を収攬する。極論をいえば、大阪と京を失っても江戸さえ押さえておけば天下は失わない」といったものであったようです。これが関東の中央政府への反抗の歴史を踏まえたものであったとするならば、慧眼という他ありません。
そして明治天皇は江戸城に入られ、江戸は東京、東の京と名前を変えました(各省庁の移転は順繰りに行われました)。ここに平将門以来、延々と続いた関東独立王国の夢も終わりを告げたわけです。そして今度は150年ほどの長きにわたり、京都の人々は陛下の長い長い行幸からの帰還を待ち続けています。
三条は内閣制度創設後は「彼のために作られた」といわれる内大臣(内務大臣ではない)に就任。何度か組閣の機会がありましたが、これを断り続け、明治24年(1891年)に死去するまで在職しました。華族制度創設(1884)の際、当初から公爵位を与えられた家は摂関家5家と、徳川宗家、島津の2家と毛利、岩倉、そして三条でした。三条は家柄ではなく幕末と明治維新政府における功績によって公爵となったのです。岩倉亡き後、三条は最後まで明治政府の中において公家として振る舞い、超然とした存在であり続けました。
武士の始めた夢を、公家が幕府という体制と共に終わらせた。それが江戸遷都であり、幕引きを担ったのが三条実美であったともいえるのかもしれません。まぁ、私のもうひとつの作品を呼んでいただけたらわかると思いますけど、私はこういう人が大好きなんですね(ダイレクトマーケティング)。相も変わらず飛び飛びの話にお付き合いいただきありがとうございました。
次は「魏志倭人伝の真実、邪馬台国は九州にあったのか?!(仮称)」、または「ざっくりとした欧州史(仮称)」、ひょっとすると「鎌倉・室町・江戸、オール3代将軍総進撃(仮称)」のどれかでお会いしましょう。
*:三条実美の初代首相説は八幡和郎先生の一連の著作に大きく影響を受けています。というかぶっちゃけ元ネタ。極端なまでの江戸暗黒史観(いいたいことはわからないでもないんですけど)はちょっといただけませんが、切り口はどれも見事な本ばかりです。好き嫌いはあるでしょうけど、読んで損はないかと思います。
*:静岡県の旧国名を勘違いしておりました。友好様、ご指摘いただきありがとうございました。