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「関西人の家に行けば必ずといっていいほどあるけど、絶対に二度と使わないもの。それがモ〇ゾフのプリンの空き瓶」(ロシアのざっくりとした歴史。利益線と主権線、山縣有朋の施政方針演説、満州とシベリア出兵)

予告と違う?細かいことは(略


早い話が「シベリア自治共和国は可能か?」という話です。別にそういう設定のSSが駄目だといいたいわけではないのです。あくまで神山の妄想の垂れ流しですのでご注意ください。


 また予告詐欺です。思いつかないんだからしょうがないじゃないですか!(逆ギレからの流れるような土下座)



 荒巻義雄先生の架空戦記『紺碧の艦隊』『旭日の艦隊』。私も昔は読みふけったものです。今でもたまに思い出したら読みたくなるんですけどね。説明するまでもないですが、この作品は史実の山本五十六が転生して平行世界で(ry)という設定で、転生者の集まりの集会が日本のこれからを議論する場面も出てくる。ネットに数ある仮想戦記に大きな影響を与えていると個人的には思っています。


 その中で『東方エルサレム共和国』という国家が出てきます。南樺太をユダヤ民族に割譲して建設された国家で、当然ながら親日国家。人脈を利用してアメリカとのパイプとなり、頭にピッケルを指すという独自なヘアースタイルで知られるトロッキー(1879-1940)の指揮するソビエトロシア亡命政府を支えます。ご都合主義といえばそれまでですが、いろんなピースを組合せた設定で読み応えはあります。


 さて、仮想戦記に真実味とか求めるなんて無粋極まりないんですが、そうすると今回の話はこれで終わってしまうので、とりあえずこの件について。約束の地たるエルサレム以外にユダヤ民族が国家作るといわれて受け入れるのかとか、そういうのは今回関係はありません。


 中国の東北三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)、かつて日本の傀儡国家(まあ色々議論はあるでしょうけど、とりあえず日本の影響下にあった国ということでこの言葉を使います)旧満州領ですね。満州とロシアの国境は、こうロシアが「ぐわし!」と満州を手のひらで握ったかのような妙な形になっています。これはアイグン条約(1858年)にロシア帝国と清の間で結ばれた条約によって定められました。中ソ国境紛争の原因ともなりましたが、大体基本はこれです。



 そもそも「ロシア」とはなんでしょうか。話が飛びますけど、しばらくお付き合いください。


 モンゴル帝国は13世紀(1200年代)に欧州とアジアをつなげた初めての世界帝国です。アジア、中央アジア、南アジアに中東、北アフリカに欧州にいたるまで数々の帝国や王朝を滅ぼして勢力を拡大しました。かのアレクサンダー大王ですらインド大陸までだったのですからね。なんだかわからないけど気に入った!とかいうやつです(?)最終的には拡大した領土の統治に苦しみ、事実上の連邦制国家となり、最終的にはモンゴルを除いてすべて滅び去りました。


 欧州知識人の間では、このモンゴルの恐怖は「タタール(モンゴル)のくびき」として記憶されているそうです。特に現在の東欧、ハンガリーやチェコ、ロシアの現在のモスクワ周辺などは直接支配されました。色々はしょりますと(*)ロシア帝国の前身であるモスクワ大公国は、モンゴル帝国の支配秩序の中からのし上がり、最終的にはこれを追放して自らの国を作りました。


 ロシアの歴史とは基本的に『東征』なのです。モンゴルに支配された恐怖が根底にあり、モンゴル人を追ったあとも、それを追うかのように周辺諸国を併合しました。そして東ローマ帝国最後の皇帝(オスマン帝国により滅ぼされました)の姪と結婚し、自らをローマ帝国の正統なる後継者と名乗りました。だから「王」でも「大公」でもなく「皇帝ツァーリ」なんです。「神は一人、教皇は一人、教皇の任命するキリスト教世界の世俗の守護者たる皇帝も一人」の原則に従うなら、ローマ教皇と神聖ローマ帝国の皇帝だけになりますが、ローマ教皇とは別のキリスト教(ややこしいのでとりあえずそういう認識でOKです)なので、その問題もありません。


 当然ながらローマ教皇の権威を正面から否定するロシアは長く欧州の一員としては認められていませんでした。ピョートル大帝(1672-1725)が欧州諸国を訪問して近代化に取り組んだ話はあまりにも有名ですが、当時の北方の大国といえばバルト帝国、すなわちスウェーデン王国でした。ピョートル大帝はこれを北方戦争で苦しみながらも打ち破ります。状況が変わるのはナポレオン戦争(1803-15)において、ロシアのみがほとんど単独で、コルシカの悪魔に何度も屈辱を味あわせられながらも戦い続けたことによります。「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議(1814)に、ロシアは押しも押されぬ「大国」として出席しました。国際政治=欧州政治においてロシアの地位が確立された瞬間かもしれません。



 さて、ロシアが「西進」することがどれほど難しかったかはお分かりいただけたと思います。なにせ軍事力でも経済力でも人口でも、西側諸国に圧倒的に劣っていたのです。ポーランドやリトアニアが欧州における最大の国家といわれれば「なに言ってんだお前」といわれそうですが16世紀から17世紀にかけて、両国は連合を組み、欧州で最も繁栄した国家のひとつでした。ロシアはモンゴル人を追放したかとおもえば、今度はこの強国と国境を接することになったわけです。領土を拡張しようとすれば、おのずから東に進むしかないわけです。その東進の結末が、満州を手のひらで握るかのような、あの妙な国境というわけです。そしてロシアは今でも、自らが欧州なのかアジアなのか、迷いの中にあります。


 アイグン条約は1858年。日本はまさに幕末真っ盛りで、安政の大獄が始まったころです。


 明治維新がいかに危機一髪だったか、お分かりいただけたでしょうか。ロシアは英仏とトルコをめぐってクリミア戦争(1853-56)、アメリカは南北戦争(1861-65)。この二つの戦争がなければ、日本は幕末の猶予期間すら与えられなかったかもしれません。


 閑話休題なんのはなしだったっけ



 昭和初期の日本は(日露戦争後から一貫してますが)ロシア(ソビエト)とアメリカのどちらを仮想敵国とするか、決め切れませんでした。陸軍は前者、海軍は後者ですね。海軍のことはとりあえず置いておきます。多少時代はさかのぼりますが、陸軍の大陸政策について考えて見ましょう。


 陸軍のドンとされる山縣有朋(1833-1922)は政党が大嫌いでしたが、この人は何の因果か第1回帝国議会(1890)において、内閣総理大臣として望むことになりました。帝国憲法においては予算案は議会の賛成が必要。そのため山縣首相は自らがもっとも嫌いな政党勢力が多数を占める衆議院において施政方針演説に望みました。


 ちょっと面白いので長いですが引用しましょう。


>諸君我が


>天皇陛下は至仁なる聖慮に依りまして、曩きに千歳不磨の大典を立てさせられ、茲に諸君と相會するを得たるは、誠に國家の爲慶賀に堪へざる次第で御座ります、又本官の幸榮とするところで御座ります


>本官は今内外の政務に就きまして、諸君に其の方針の在る所を陳述致しまするの機會に遭遇致しましたるが、既に政府の執る所の政策に於きましては、先日開院の勅語に於きまして、其の大体を明示致されました以上に、今更に本官が事々しく辯明致しまする必要を見ませぬで御座ります


>さりながら二三の要點に就き概略を陳述致しまして、諸君の公平なる判斷を煩はさんことを望みます


(二三の要點とあるように、現在のそれと比べると非常に短いです)


>顧みるに舊幕府が鎖港の政略を執りたる以來、我が國三百年間の無事大平を保續致しましたに相違御座りませぬことで御座ります

>併し此の政略は宇内の大勢に背馳致しまして、我が國三百年間の進化を遲く致したる結果を生じたるは、甚た遺憾の至りに存じます


(徳川幕府の政策は安定をもたらしたと評価しつつ、文明開化が遅れたとも批判し、維新政府の功績を自賛します。しかしこれはなにも責任転換ではなく実際に国家の重責を担うものとして切実なる恨み節だったのでしょう)


>偖明治大政維新の時に膺りまして、世運の變遷を察して一旦此の方向を變じますると、過去數百年間滯るところの負債を償還せねばならぬと云ふ事に気が附きました故に、我々が此の短日月の間に於きまして、其の負債を償還することに努力致しましたで御座ります、然るに僅二十有餘年間の短日月なるが故に(略


(日本のおかれた環境と負債を端的に述べ、之までの政府の取り組みや殖産興業政策の必要性を説き、増税路線への理解を求めます。当時の政党は負担軽減を求め政府と真っ向から対立していました)


 さて、内政政策を説明して、ここから外交政策になります。


>又是と同時に國家の獨立を維持し、國勢の伸張を圖ることが最緊要のことヽ存じます、此の事たるや諸君及我々の共同事務の目的であつて、獨政府のなすべきことで御座りますまい

>將來政事上の局面に於て何等の變化を現出するも、決して變化することは御座りますまいと存じます(注:政党への釘)

>大凡帝國臣民たる者は協心同力して、此の一直線の方向を取って、此の共同の目的に達することを誤らず、進まなければならぬと思ひます

>蓋國家獨立自營の道に二途あり、第一に主權線を守護すること、第二には利益線を保護することである

>其の主權線とは國の疆域を謂ひ、利益線とは其の主權線の安危に、密着の關係ある區域を申したのである


 主権線と利益線、高校の日本史にも出てきますね。主権はいうまでもありませんが、利益線とはなんでしょうか。山縣首相の説明によりますと


>凡國として主權線、及利益線を保たぬ國は御座りませぬ、方今列國の間に介立して一國の獨立を維持するには、獨主權線を守禦するのみにては、決して十分とは申されませぬ

>必ず亦利益線を保護致さなくてはならぬことヽ存じます

(主権の及ぶ領土とは別に利益線を維持しなければ国家として独立したとはいえないのだ!)


>今果して吾々が申す所の主權線のみに止らずして、其の利益線を保つて一國の獨立の完全をなさんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累子て、漸次に國力を養ひ其の成蹟を觀ることを力めなければならぬことと存じます(注:軍隊は予算をつけてすぐにできるものじゃないんだから!だから予算案に賛成してくれ!)


 あとは蛇足ですが、なかなかいいことを言ってますのでそのままコピペしますね。


>即豫算に掲けたるやうに、巨大の金額を割いて、陸海軍の經費に充つるも、亦此の趣意に外ならぬことと存じます

>寔に是は止むを得ざる必要の經費である以上演べまする所の數箇の要點は、假令小異はあるとも、其の大体に就きましては、諸君に於て必ず協同一致せられんことは、本官は信じて疑ひませぬ

>大凡是等の事に就きまして、今申述べまする樣に成るべくは速に拂盡さねばならぬ共同義務である、然らば此の重大の義務を盡さんが爲には、我々境遇に伴ふ所の一箇の利益を犠牲に供して、公平無私に相倶に胸襟を押開いて、腹蔵なく相談し相議するに於ては、互に其の意見を一致することに於て、決して難きことはないことと存じまする、本官は幸に諸君の了察あらんことを望みます


 諸外国の注目と圧力の中、なんとしても国家としての独立を守り抜き、アジアにおける立憲国家として成功しようとする山縣首相の並々ならぬ決意を感じます。


 閑話休題(さすがに脱線しすぎだと反省している)


 さて、ここでいう利益線とは朝鮮半島のことです。当時の李氏朝鮮は近代化に失敗した国家であり、周辺国の草刈場となっていました。日本と清が主導権を争ったのが日清戦争(1894-95)、日本とロシア帝国が争ったのが日露戦争(1904-05)というわけです。朝鮮半島が仮にロシアの影響下に置かれれば、日本は果たして独立を保てたでしょうか。おそらく答えはノーです。その点では朝鮮半島の確保が日本の利益線とする山縣の指摘は正しかったわけです。


 日本は論争の末、朝鮮半島を自国領土に組み込むことにしました(1910)。日露戦争の後、ニコライ2世のロシアは極東地域において日本と手を組み(日露協約)。西側、欧州側への関与を強めました。第一次世界大戦の遠因ですね(直接的なものではありませんが)


 ところが朝鮮半島の先には、鴨緑江を超えて満州がありました。清は辛亥革命で倒れ(1911)、大陸は中華民国という統一政府はすぐに全国への影響力を失いました。満州事変は大陸の混乱から、日露戦争で日本が獲得した合法権益を守ろうとしたものでもありました。傀儡政府満州がどうなったかは、いまさら語るまでもありません。満州の失敗(本土のしがらみにとらわれずに弾丸列車計画とか色々高度経済成長の元ネタや実験場となった側面は大いにありますけど、ここではあえて失敗としておきます)は、実はすでに日本は経験していました。


 シベリア出兵(1918-22)です。


 第一次世界大戦末期、ロシアで革命が発生。革命政府は少数派のソビエトにのっとられ、悪名高いソビエト連邦が結成されました。しかし経済危機の進展により、各地で反革命運動が発生。政府軍の赤軍に対して白軍と呼ばれた勢力は各地で蜂起し、内戦が起こりました。


 仔細を省くと、チェコ・スロバキア師団救出の名目でソビエトをけん制するためにアメリカ主導で連合国がシベリアに出兵しました。このとき日本は白軍を支持し、シベリアに緩衝国家を作ろうとしました。攻められる前に攻める、もしくは橋頭堡を確保する思惑ですね。何より共産主義国家なるものを認めるわけにはいかなかったのです。最終的には日本は国際的な圧力により撤兵。白軍の国家構想は内部分裂もあり頓挫しました。



 さて、ようやく本題です。ネットジョークでオソロシアと呼ばれる、ロシアの面白写真。まとめサイトなどでご覧になったことはないでしょうか。その中で「舗装された道路が凸凹になっている」もの。ご覧になられたことはありませんか?


 結論から言いますと、私はシベリアにおける緩衝国家は日本が全面的にバックアップしていても困難ではなかったかと考えています。日本単独ではなくアメリカや英国が全面支援したとしてもです。その理由が前述の凸凹道路です。ちゃんと道路を舗装しても、一冬たてば雪解けなどでアトラクションのように波打つ始末。現代の技術をもってしてもそうなのです。ならば100年前は?


 帝政ロシアやソビエトがシベリアを犯罪者の抑留先にしていたのは、何も罰するためばかりではありません。奴隷労働でなければコストがペイされなかったわけです。実際にシベリア抑留者も労働力としてすり潰さんばかりに使われました。「シベリアで餓死者が出なかったのは、シベリア出兵の間だけ」というジョークがあるそうですが、実際にそうでした。日本は国内外に向けての世論戦は下手でしたが、陸軍においてシベリア出兵を主導した山縣の後継者である田中義一(1864-1929)がロシア通だったこともあり、現地の統治には全力を持って取り組みました。亡命ロシア人が満州や日本に多数流れ込んだ原因でもあります。


 ところが曲がりなりにも「国家」となると、いずれは独立して独自の行政府のもと、税を徴収し、警察と軍事組織を形成し内政と経済開発に取り組まなければなりません。


 今、ロシア連邦の極東連邦管区(ういきでご確認ください)は、中華人民共和国からインド連邦の領土を差し引いたぐらいの広大な領土ですが、人口は約600万人。シンガポールの人口が確か550万ぐらいです。あれだけの広大な領土に、それだけしか住んでいないのです。正直、これではどうにもならないのではないか、というのが私の考えです。おまけに地理的な環境が、冬が来て春になれば道路の舗装は前面張替えというもの。これではいくらなんでも行政コストが高くなりすぎます。



 さて、田中義一という人は陸軍大臣の後、退役して立憲政友会の総裁となり昭和初期に首相となります。直面したのは中国問題。中国は大きく北と南に分裂しており、南の蒋介石が中国統一を目的とした北伐にいかに対応するかという問題でした。北伐軍は各地で略奪や暴行を起こし、大陸に多くの在留邦人がいた日本においても大きな政治問題となっていました。田中は欧米と協調して一撃離脱の山東出兵を行い、蒋介石をけん制しました。


 しかしこの田中の姿勢を軟弱だとしたのが関東軍であり、満州某重大事件です。田中自らが馬賊から見出した張作霖を、彼の地盤の満州に引き上げさせ、北京における軍事衝突を避けようとした田中の思惑は、張作霖の帰還により(実際彼の軍勢も行く先々で問題を起こしていました)満州が混乱することを嫌った関東軍の暴走により爆殺されました。田中はこの問題の対応に失敗したことで失脚しました。


 この数年後に起こったのが満州事変です。田中の失敗した傀儡国家を再び満州に作り上げようとした彼らは、山縣有朋のように議会において国民に呼びかけることもなく、勝手に予算を流用して軍事行動を起こしました。この点が山縣と、昭和維新を自称した彼らとの差なのかもしれません。


 昭和維新(この言葉嫌いなんですけど)の中心人物とされる橋本欣五郎は、トルコのケマル・アタテュルクを尊敬していたそうですが、ケマルがギリシャとの戦争において最も難しい領土問題に関して積極的に議会に出て答弁し、国民に対して呼びかけていた点については、どう考えていたのでしょうか。むしろケマルの姿勢は彼らが批判していた長閥のドンである山縣有朋が首相時代にどう振舞ったかを見れば、どちらが近いかはわかるものです。(もっとも首相引退後はそうではなかったようですが)


 田中も軍人としてシベリア出兵を推し進めましたが、お世辞にも国民にその意義を十分に説明できたとは言い切れません。しかし説明したところで、日本の利益線と主権を守るためにシベリアに傀儡国家を作る、なんてことを口にすればどうなるかは想像に硬くありません。いくら当時においては合法権益とはいえ満州利権を守るために張作霖を爆殺したい!なんていえるわけがありません。じゃあ他に選択肢があったのかといわれれば困りますが、もう少し他にやり方がなかったのかと、今の私は無責任な立場からおもってしまうのです。


 3話で歴史の流れを説明した時、明治維新以降の歴史では中国、欧州とアメリカにくわえてロシアを足した理由は、おおよそこのような感じです。いつも以上に話が飛び飛びとなってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました。


 次回は…たぶん予告してもそのとおりにならないので諦めます(おいこら)




プリン食いたい。




神戸の有名洋菓子メーカーのモ○ゾフは、白系ロシア人のチョコレート菓子店を起源としているそうです。他にも白系ロシア人はプロ野球、ラグビーの有名選手など、日本スポーツ界との関係が知られています。シベリア出兵がなければ、昭和の大横綱はいなかったかもしれません。


(*):感想欄で御指摘を頂きました。モスクワ大公国は単に反モンゴル意識により建国された国ではなく、むしろその支配下の中での再編により勃興した国であるそうです。またモンゴル皇族との結びつきにより支配の正統性を強めていたと。ロシアこそ世界帝国モンゴルの正当なる後継者という文章を読んだことがありますが、国家建国の段階からDNAに刻み込まれていたことになりますね。キリル様ありがとうございました。

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