「ではお名前をどうぞ」「松平肥後です」「松平越中です」「松平…」「誰が誰だか解らんわ!!!」(織田信長のイメージの変遷、豊臣-羽柴と、徳川-松平の擬似一門関係)
いつも以上に私見が混じっていますのでご注意ください。
え?予告タイトルと違う?予告は予告ですから。書き出すとちょっと整理つかなかったので先送りしただけなんですけどね。歴史と歴史学の違いとか、考古学と歴史学の相剋とか、書き出したらこんがらがってきたので。またそのうちやります。
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さて、織田信長です。戦前(ここでいう戦前と戦後はWW2の前と後という意味です)は勤王の英雄、戦後は皇室さえ乗り越えようとした型破りの人物で、もっと極端なものでは皇室の打倒さえ目指した革命児として扱われています(実際どう扱われていたのかそこまで詳しく調べていませんが、とりあえずここではこの設定で行きます)。世評の評価ほどあてにならないものはないということですね。なんせTSしたり魔王化したりするぐらいですからね。もうなんでもアリですね。ナチスの陰謀論とまではいかなくても、多くの同人作家は足を向けて寝られないでしょう。
私の信長像は、もうひとつの作品の感想返信で書いたことありますが「地方の中小企業のオーナー社長の3代目が、急速に拡大して上場企業になった」というイメージです。地方という視点は最初なかったのですが、指摘されて「そういえばそうだよな」と思い至りました。あんまり書くとネタバレになるのであまり言いませんが、カンの好い方はなんとなくわかられると思います。
閑話休題(話を脱線させるのもええかげんにせいよお前)
織田信長の怖い革命児のイメージが世間一般に定着した後(まあこの時期がいつごろか、例えば江戸時代から明治維新そして戦後と、織田信長像の変遷を真面目に調査したらきっと本が一冊できると思います。私はやらないけど)、いわゆる「ギャップ萌」とでもいうべき信長のキャラクターが注目されるようになりました。
例えば
①信長は身内に甘い。裏切ってもすぐ許しちゃう(焼き討ちや、なで斬りなどの残酷な権力者イメージとのギャップ)
②下戸で甘いもの好き(そのまんまのギャップ萌)
③型破りな革命家ではなく、むしろ先例を重視した常識的な政治家(革命児じゃないの?ギャップ。どちらかというと研究者に多い印象)
私の信長像も③に近いのですが、その中で信長のキャラクターをどう位置づけるかというのを大事だと思ってるんですが、まあそれはネタバレになるので(略)③が研究者に多い印象と書いたのは、例えば蘭奢待切り取りとか、叡山焼き討ちとか天正の馬揃えとか、朝廷への圧力や権威への挑戦とされる根拠となった「信長像」を史料をもとに検証すると、実際には否定されることが多いからです。蘭奢待切り取りは、大和の支配者交代(松永から原田へ)と興福寺への服属要求、叡山は先例あり、馬揃えはあくまでイベントであり譲位への圧力ではないといった具合です。従来の信長像が正しいとか正しくないとかじゃなくて、ちゃんと調べてみたらこうでしたよ。という具合ですね。
くどいようですが、だからといって従来の信長像が間違ってるから書いたらダメとか、そういうことを言いたいわけではないのです。学問として論文を書いてるわけじゃないんですから。小説として面白ければいいんですよ。「正しい」信長像を書いたって、話が面白くなければそれまでですしね(何か自分にも突き刺さってくるなあ…)
さて②は『信長の忍』で有名になった話ですね。以前からそうした逸話は知られていたようですが世間一般にメジャーとしたのはこれかなと個人的に思っています(あくまで管見の及ぶ限りの話ですのでこれ以前に甘いもの好き下戸の話書いてる人がいるかもしれません)。まあこれは、そのまんまの話ですので、これ以上話をふくらませようがありません。ギャップ萌っていいですね。
問題は①です。信長は身内に甘い。弟信勝(信行とも)が一度裏切っても許すし、兄貴の信広も謝ったら許した。出来の悪い次男も怒鳴り散らしながら結局許した…まあほかにもあるでしょうけど、こんなところでしょうか。あとは「親友」とされる森可成の子供たちの溺愛。戦国いい話悪いはなしのまとめサイトでネタにされるぐらい、何をしても許しています。
森の遺族はまあ確かに信長の甘さといってもいいのかもしれません。宇佐山での奮戦がなければ信長は京都に帰れなかったでしょう。文字通り命を使って時間を稼いだのです。その息子達を優遇することで、「忠誠を尽くせばこれだけ報われるぞ」とやりたかったのでしょうね。まぁ、家中に良い影響を与えたのかどうかはわかりませんけど(鬼武蔵の所業リストを眺めながら)
閑話休題(もうええからさっさと本題に)
信長が身内に甘いと言いますが、では他の家と比べてそれほど身内を優遇していたのでしょうか?
私は個人的に、これはギャップのギャップ、怖い権力者イメージのギャップとしての身内に甘いイメージ、これが強調されすぎている気がします。弟信勝の遺児が優秀であったので優遇(馬揃えで一門衆の上の方に)していましたが、庶流である津田姓をなのらせ、明らかに区別しています。宇佐山で戦死した織田信治、彼の遺児は柘植姓。一門衆としての格下げと受け取れなくもありません。中川重政、諸説ありますが彼も織田の一門ですが、区別しています。
へうげものでは「息子に甘い」と脚色していました。これはなるほどと思いました。身内というと範囲が広すぎます。自分の血を分けた息子を優遇というならわかります。ですが信雄の伊賀攻めの失敗をあれだけ強烈に批判し、問責文を天下にわざと晒すなど、事実上の正室である生駒氏の子であり信忠の同腹である彼をそれほど優遇したとも思えません。信雄が無能だったからだだろ?という見方もできますが、むしろ身内であろうともけじめはちゃんと付けさせた印象です。信長の息子でなければ切腹だったろうという見方もありますが、自分の息子だからこそ切腹させられなかったのかもしれません。嫡男の同腹の弟ということもありますが、乗っ取ったとはいえ当時は別家たる北畠家の当主。織田一門の序列が崩れるとか伊勢政策とか、考えるだけでも影響が大きすぎてできなかったのだと思います(まだ信雄には息子もいませんでしたしね)。
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あくまで私の個人的見解ですが、むしろ織田信長は本家と分家、庶流と嫡流の区別をはっきりさせた、極めて常識的な当主だったのではないかと考えています。
そもそも「身内に甘くない」当主がいるのでしょうか。
鮭様のあだ名で一部でやたらと人気のある最上義光という山形県の大名がいます。この人は関ヶ原のあと、20数万石から一挙に、米沢を除く山形県のほぼ全域である57万石の大名になります。しかし領内に息子や弟、一門衆、そして婚姻関係を結んだ有力家臣を配置して統治しようとしましたが、お家騒動により3代で改易されました。
大体、最上騒動を説明する際には「一門や国人に自らの息子を養子入りさせて、統治する。極めて中世的な政権の限界であった」というまとめが多いと思います。では徳川家はどうなのでしょう。自分の息子を庶流の松平氏(忠輝)や、武田の名跡(信吉)、関東の名族結城(秀康)などを継承させています。徳川家は「中世的な政権」なのでしょうか。息子を北畠や神戸、家臣である羽柴に養子入りさせた織田家は「中世的な政権」なのでしょうか。
織田信長を「地方中小企業のオーナー社長」と例えました。しかしこれは全国のどの大名だって同じことではないでしょうか。中小企業、それこそ10人未満の小さなところでは、身内を信用しなければやっていけません。ぽっとやってきた縁もゆかりもない社員を雇って現金を持ち逃げされたとして、そんなやつを雇ったからという自己責任で終わりです。訴えたところでどうなるというのです?明日の運転資金の算段するほうが先ですね。会社が潰れれば責任を問われ、生活を失う運命共同体たる家族が、だからこそ重要になるわけです。
身内すら信用できないお家は末期なのだと思いますが、織田家は尾張統一の過程で明らかとなったようにに、良くも悪くも一門衆が腐る程いました。ですからこそ新たな嫡流である信長-信忠の路線を明確にし、それ以外の息子や一門を、姓を代えさせたり、養子入りさせるなどして区別したわけです。身内に甘いというより、むしろ常識的なもの。かといって特段厳しいということもありません。
武田家の秋山虎繁と一緒に処刑された叔母であるおつやの方については、あれは明らかな裏切りですからね。また別の話だと思います。初恋が絡んでいたらゴシップネタとしては面白いと思うんですが、実際には秋山と結婚してなかったとか。
っち、面白くない…かなわぬ恋に身をもだえさえながらNTRた信長とか、年下の甥への思いの中で押し倒される熟れる寸前の熟女とか想像するだけで、げふんがふん
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さて豊臣秀吉です。この人は言うまでもありませんが、まともな教育を受けた身内がいませんでした。なにせ彼1代で足軽から天下人まで成り上がったからですね。姉や妹の嫁ぎ先、嫁の実家(浅野・木下)やその縁戚(小出・青木)などをかきあつめ、身内とかろうじて呼べなくもない親戚の子供を養育(福島・加藤)するなどして、一門衆の拡大に取り組みました。しかし限度があります。
そこで秀吉は自らを「源平藤橘」に次ぐ5つめの新たな豊臣姓の長として特別な地位にたち、すべての大名を豊臣朝臣として天皇の家臣としましたが、同時にそれまで名乗っていた羽柴姓で擬似一門を形成しました(氏と姓についてもいずれやりたいと思いますがややこしいからなあ…)。旧織田家の同僚は無論、全く関係のない有力大名にも羽柴姓をばらまいたのです。身内として政権のコアメンバーという位置づけですね。
ウィキに一覧がありますが、まあすごいメンバーですね。徳川家康に前田利家、毛利輝元に小早川隆景、宇喜多秀家という後の五大老初期メンバー。あとで五大老となる上杉景勝。堀秀政に池田輝政、京極高次に、家康の跡取りである秀忠。利家の跡取りである利長。最上に伊達に佐竹に里見…コアメンバーという割には、些か広すぎる気がしますね。名門出身の側室といい、秀吉の生まれのコンプレックスがあったのかもしれません。それともこれを政権を安定させるための努力と受け取るべきなのか。悩ましいところです。
つまり「貴方のお名前は?」「羽柴侍従です」「羽柴少将です」「羽柴安芸中納言で」「わからんわ!!!」
天皇を頂点とし、すべてを豊臣朝臣とした上で羽柴一門で政権を運営する。これも一種の連合政権でした。
そして徳川幕府も松平姓で擬似一門関係を結んだ外様大名らと連合政権を築きました。徳川を将軍家と御三家(のちに御三卿も追加)に限り、親藩は無論ですが譜代から外様まで松平姓をばら撒きました。擬似一門とすることで幕府を形成する徳川家と松平一門という一体感をつくろうとしたのですね。これもまたすごいメンバーで前田に伊達に島津に黒田に浅野に鍋島に池田の両家等々。これらのお家は、例えば公式の場では「前田家中」とは言わず「松平○○(官位)家中の~」と名乗ったそうです。
あなたも私も、あちらもそちらも松平。誰が誰だかわかりませんね。
当然、明治維新を迎えると、このような松平の擬似一門関係を続ける意味はありません。外様の大名は本来の名乗りに戻し、松平庶流、たとえば大給松平や桜井松平といった大名として残っていた家は「大給」「桜井」へと姓を改めました。もはや擬似一門体制で国家を運営する時代ではなくなったのです。
新たな時代は国民国家として、一つの国民が一つの国家を形成する時代となりました。そして『歴史』ではなく『歴史学』が必要とされる時代が訪れたのです。
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今日はいつも以上に私見が多くなりました。豊臣と羽柴の関係はまだ完全に整理されたとは言い切れません。論文集はハードルが高いかもしれませんが、研究の概説をまとめた文庫本がいろいろ出てますので、興味のある方はどうぞ読んでみてください。タイトルに興味のあるのを打ち込んで検索するだけでも色んなのが出てきますからね。
今日のところはとりあえずここまでといたします。お付き合い頂きありがとうございました。
次は(仮)「歴史と歴史学の違いってなんです少佐?」「ドイツの歴史学は世界一ィィィ!ということだあぁ!!」でお会いしましょう。