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「歴史の流れがわかれば歴史って簡単!」「だからその流れが解んねえっていってんだろこのボケ!!」


 「流れがわかれば歴史がわかる」


 歴史の教師とか、歴史のテストを解くのが得意な人間が必ず言うやつですね。かく言う私も自慢ではありませんが(という枕詞がつくときは大体自慢)このタイプでした。「歴史が好き」というのと「歴史のテストの点がいい」というのは微妙に違うと思うんですが、これは今はおいときますね。


 ほかの教科は平均点かそこらで、国語と古文は平均より上で上の下、数学壊滅(100点満点のテストで一桁あたりまえ)という、教師泣かせのタイプでしたから「日本史を教えてくれ」とは何回か言われましたね。で「流れがわかれば」「だからそれがわかんねんだよボケ!」のタイトルのやり取り。お約束です。論理的思考が苦手だから数学苦手なのか、数学苦手だから論理的思考できないのか、そもそもそんなこと関係なく私の頭が悪いのか(多分最後ですね)。


 そこで「流れ」というのものを少し体系的に考えてみたいと思います。ここでいう流れとはあくまで「日本史のテストで点を取るために抑えておくべきポイント」であり、木で例えるならば根っこであり幹です。後の細かい単語は文字通り枝葉。根っこをしっかり生やして幹を太くしておけばいくらでも点は伸ばせるというのが私の持論です。ペーパーテストさえそこそこできれば、ある程度応用はできると思いますしね。そのため数学のテスト壊滅的だった私は今でも数学で苦労しています。数字に関係のない仕事に就こうと思っていたのに、どうして事務だの経理だのやってんだろう(遠い目)


 (閑話休題)(またの名を強引な話題そらし)


 結論から言うと


①日本史は江戸時代までと明治以降でわけよう

②江戸時代までのキーワードは『律令体制』『中国』

③明治以降のキーワードは『立憲体制』『中国+欧州+ロシア+アメリカ』

④そして②と③を貫く一番太い幹が『皇室』と『土地』


 この4点ですかね。


 まず一番太い幹の皇室ですが、そもそも日本史の中心は政治史です(暴言)。経済史や文化史は枝葉であり(個人的見解)、政治史さえおさえておけばなんとかなります。


 神話の時代(まあ考古学畑の人なんかはいろいろ言いたいことはあるでしょうけど、とりあえず今は置いときましょうね)から今に至るまでずっと日本の国のトップは天皇であり、天皇の下にいかなる国家体制をとるかというのが大きな政治課題でした。そして明治維新までは②のキーワードのひとつ『律令体制』、維新後は③のキーワードのひとつ『立憲君主制』です。


 嘘か本当か知りませんが、いまでも霞ヶ関で法律を作るときに大宝律令をひっぱりだすことがあるそうです。ネタとしては最高に面白いですが、最近話題になったやんごとなきお方に関する法案を見ていると、あながち嘘ではないかなとも思えてしまいます。国家としての統一性が維持され続けていることの重みを感じますね。


 さて、どうして『皇室』と『土地』を並べたかといいますと、つまり「日本は誰のもの?」という問題です。もし今、日本の土地すべてが皇室の持ち物とか言えば、リベラル層は無論、ノンポリ層も「ええ」っとドン引きするでしょうが、昔は実際にそうでした。


 すこし長い話になりますが、端折っていきましょう。


 小さな村が集まってクニとなる。魏志倭人伝にも出てくる話ですね。大体、古代文明は小さな集団が集まって大きな国家となりました。そのほうがいざというとき(自然災害への対策や水利対策、外敵への対応)がしやすいですからね。


 日本の場合はヤマト政権、つまり今の奈良県あたりの豪族の集団が、今の皇室の先祖(宮崎県から来たとされています。天孫降臨とか神武東征とかああいう神話の話ですね)につながる家を盟主に連合政権ができました。基本的には連合政権で豪族の力が強かったんですが、それでも勢力を拡大し、西日本のほとんどを支配しました。今いろいろと歴史問題でややこしいんですが、朝鮮半島南部にまで勢力を拡大していたようです。逆に東は長野や静岡あたりまでが限界で、だんだんと勢力を東日本に拡大していきました。


 「なんで東日本でなく半島なんだ?」という問いには、歴史学者ではありませんが元の官僚でいろいろと歴史関係の本を出しておられる八幡和郎さんが「西日本を創業地とする企業が、ライバル企業ひしめく東日本進出よりも、競争相手の少ない東アジア進出を優先したようなもの」という例えに私は納得しました。


 さて、なんだかんだで順調に勢力を拡大していたわけですが、そこに立ちふさがったのが大陸の王朝です。


 中国の王朝は日本の時代と当てはめると覚えやすいですね。魏志倭人伝の魏以外で覚えなければいけないのはせいぜい下の8つでいいんです。


①奈良時代初頭はずい

②隋はすぐに滅んだので奈良時代と平安時代はとう

③源平合戦と鎌倉中期までそう

④モンゴル人の王朝である元寇のげんは100年せずに追い払われたので

みんが室町・戦国・織豊政権(織田・豊臣)、江戸幕府初期

⑥江戸時代はしん。そして明治維新で日清戦争して

⑦大正時代に辛亥革命で中華民国

⑧WW2のあとに中華人民共和国…ここまでくると近現代史ですね。


 どうです?たった8つだけ。どこから覚えていいのかわからないよりはましになったと思います(私だって数学どこから手をつけたらいいものかいまだにわからないし)


 なんで『中国』なのかといいますと、江戸時代までのもうひとつのキーワードである『律令体制』は中国の王朝の国家統治システムだからです。律令りつりょう、律は今で言う刑法、令は行政法のことです。儒教思想を根底にした皇帝を頂点とした中央集権体制。明治維新ごろになるとこの制度疲労ばかり目に付くようになりますが、少なくとも奈良時代のころは東アジアにおける最先端の政治システムでした。


 そのため遣隋使や遣唐使などでそれを学ぼうとしていたのですね。仏教を導入するか否かというのもこの問題と関係します。そして朝鮮半島をめぐり、律令体制の導入に四苦八苦していた日本は、唐と、その後援をうけて半島統一を図る新羅と対決します。


 白村江の戦い(663年)ですね。そして日本は大敗します。これによりヤマト政権以来延々と細々と半島南部に持っていた勢力は完全に失われることになりました。


 「やべぇ!唐が攻めてくっぞ!」


 日本は大慌てで防衛を高めます。そしてさらに律令体制を本格的に導入し、天皇中心の中央集権国家を作ろうとします。


 そこで『土地』というキーワードです。


 ヤマト政権が豪族の連合政権であることは述べました。ですので豪族の中の民や土地は豪族の私有物。いざというときに天皇や政府が命令することができなかったのです。有事でこれでは勝てる戦も勝てなくなります。


 「すべての土地と民は国家≒皇帝(天皇)のもの」というのが律令体制の基本概念です。公地こうち公民こうみん、聞いた事ありませんかね。すべては天皇のものなんだから豪族も言うことを聞け!という理屈ですね。こうして強力な中央集権国家の建設が図られ、律令も整備されて日本は高度な官僚国家に




なりませんでした。




 ところで公地公民の概念って、どこかで聞いた事ありません?すべての土地と民は国家のもの。まあ、かんのいい方はお気づきでしょうが、今はほとんど滅び去った社会主義国家のそれですね。私はこの指摘をあるブログでみて、衝撃を受けました、いままでのもやもやがすらすらと解説できることに気がついたからです。確かに公地公民は豪族から権力を取り上げることには成功しましたが、同時に閉塞感をもたらしました。


「どれだけ土地開墾したって、どうせ国にとりあげられるんだろ、なら別にしなくてもいいじゃん」


 まさにどこかのモスクワで見たり聞いたりしたかのような話でしょ?当時の日本は国力増強のために「100万町の広さの開墾するぞ!」(長屋王)などと威勢のいいスローガンを上げていましたが、これも似ていなくもないです。しかし民はしらけています。


 そこでモチベーションを高めるために出来たのが三世一身さんぜいっしんほう。開墾した土地は3世代なら私有認めるぞ!どうだ、すげえだろ?


「でも三世代したら返すんだろ…」

「わーた、わかったよ!」


 で20年後に出来たのが、743年の墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうです。ここのミソは「既存の土地」ではなく「新しく開墾した土地」の私財化を認めた点です。律令体制の公地公民の原則(これまでの土地と民はこれでやる)と、何とか折り合いをつけようとしたのでしょうが、駄目でした。ずるずると私有地は拡大し、公地公民の原則は平安時代にゆっくりと崩れ去りました。同時期に律令体制の盟主であった唐が滅び、大陸は五代十国の戦国時代に突入しますが、なにやら日本の源平合戦を先取りしていたかのようです。



 そして出てきたのが武士です。皇室と貴族の争いから「喧嘩して白黒つけたほうがいいじゃん」という用心棒が武士であり、用心棒から権力闘争の主体に上り詰めるのには時間はかかりませんでした。平清盛であり、源平合戦。そして始めての「武士の武士による武士のため」の政権。鎌倉幕府が出来上がります。武士は私有物たる土地の権利を求めて争い、一所懸命なる言葉も生まれました。中国は宋が統一しました。


 鎌倉幕府は内ゲバに苦しみ四苦八苦しながら政権を運営し、ババを押し付けられたのか権力闘争の勝者となった北条氏のもとで宋を滅ぼして世界帝国になりつつあったモンゴル帝国の元を撃退。元は統治の拙さもありすぐに滅んで明となりました。


 鎌倉幕府は北条氏の私物化と問題解決能力がなくなったこと(逆に問題が解決できていたからこそ北条氏の私物化が許されていた)により滅びました。建武親政に南北朝、観応の擾乱をへて室町幕府。室町幕府は鎌倉の愚を避けるために公武合体(武家と公家の連合政権)として京に幕府を置きましたが、これが駄目になるともうあとは「力で解決しようぜ!」の時代です。戦国時代ですね。


 織田・豊臣ときて徳川です。豊臣の朝鮮出兵の影響もあり明が滅んで清になりました。徳川家康は室町と鎌倉の先例を学んだ上で、江戸に幕府を置いて朝廷を威圧的に統制しようとしました。ある程度は成功したのですが、そもそも征夷大将軍も帝が任命するもの。大義名分という点では朝廷にかなうはずもありません。幕末には国難に対処するため「公武合体運動」なる、家康が聞けば激怒するような運動も起きましたが、考えてみればこれは室町幕府への回帰ですね。14代将軍からは江戸を離れて大阪にはいり、事実上大阪と京都が首都になった感がありました。



 明治維新により、日本は再度『律令制』の元で天皇中心の国家となります。公地公民の原則が徹底され、版籍奉還、廃藩置県と続きます。土地の大名による私有を認めないということですね。まあ資本主義の発展に伴い、これもうやむやにされていきますが。しかしさすがに律令体制のままではあらたな脅威たる「欧州+ロシア+アメリカ」には対処しきれません。


 そこで遣唐使以来の伝統により、国家ぐるみで勉強しようということで取り入れられたのが「立憲国家体制」です。海外に学んで自家薬籠中の物とし、アレンジをくわえるのは得意中の得意です。憲法には天皇ですら従わざるを得ないという体制をつくりあげ、再度天皇を頂点とする中央集権国家を作りました。そして日清・日露・第一次、第2次大戦とで「中国+欧州+ロシア+アメリカ」と、味方となり敵となりを繰り返し、世界の列強となり、敗戦を経験し、再度復興して…ここから先は近現代史ですね。皇室は日本の象徴として今もありつづけています。日清戦争の後の大正初期に清が滅んで中華民国、第2次大戦のあとに中華人民共和国(+台湾)…これも近現代史ですね。



 いささか駆け足となりましたが、これが今の段階で私が考える「歴史の流れ」です。もう少し簡易にできないかとも思いましたが、だいぶ年号とか出来事とか端折ってこれです。明治維新以降は語りだすとキリがないですしね。たかが2000年、されど2000年です。1年、1月、1日たりとも欠けては今の我々はいないのです。


 なお、これを読んだからといって日本史のテストで結果が伴うとは限りませんのであしからず。学生諸君、先生の授業を毎日ちゃんと聞いて教科書読み込むのが一番の早道ですよ。先生は教えるプロであり(個人差あるでしょうけど)、教科書は体系的に教えるノウハウを何十年と培ってきたプロの会社の作った本なんですからね。


 お付き合い頂きありがとうございました。


 次は(仮)「これも令外、あれも令外、たぶん令外、きっと令外」でお会いしましょう。


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