「あっそれ!一揆!一揆!!一揆!!!」「おい馬鹿やめろ」(米本位体制、江戸幕府の財政金融政策、百姓一揆の実像?、百姓一揆のイメージ形成過程など)
アルコール度数の強弱にかかわらず、一気飲みは急性アルコール中毒の危険性が急激に高まる危険な飲み方です。体質的に酒の飲めない人もいます。お酒はマナーと法令を守って人に迷惑をかけない範囲で、楽しんで飲みましょう。
のっけから何の話をしてるんだという突っ込みはさておいて、前回「後北条の年貢比率は『四公六民』というのは、旧北条領であった関東農民の思い出補正により嘘が本当になった」と書きました。今の現実の苦しさや不満を「あの時代は良かった」として慰めていたのではないかということですね。
ところがですね、実際に関東(つまり旧北条領)を中心とした天領(幕府直轄領)の農民がどれくらい徴税されていたかというと…徳川幕府開府以来、一時期を除いてずっーと右肩下がりだったそうです。「な、なんだってー」とキバヤシが出てきそうな話ですが考えてもみてください。例えば日本の戦国時代の内政もので主人公がよく開発したことにされる唐箕(元は中国からの伝来品ですけど普及したのは江戸時代)、千把扱きなどは農具は実際には江戸時代に発明、もしくは改良されて普及したものです。何故か?それは「必要は発明の母」という諺が答えだろうと思います。
前回述べたように太閤検地から、日本の土地の評価基準は一貫して「米」が中心の石高制になりました。つまり江戸時代の日本は「金本位制」ならぬ「米本位制」です。ある程度政情が落ち着くと、幕府のみならず諸大名も旗本も新田開発に躍起となりました。当然ですね。誰だって自分の資産価値は増やしたいものです。また織田・豊臣政権出身の大名は、天下統一とその後の過程で培われた優れた土木技術を継承しており、その他の大名も「お手伝い普請」という形で技術を吸収しました。まさに全ての条件が揃っていたのです。それが大体、5代将軍の徳川綱吉か、その前の4代将軍の頃まで続いたといわれる新田開発バブルです。バブルは「開発できる土地がなくなる」まで続きました。
例えば米所と言われる新潟(越後)は、上杉が会津に移転した後に入った、城作りの名手であった丹羽長秀の旧臣(村上・溝口)や、織田・豊臣に仕えた名人久太郎こと堀秀政の息子たちや家老によって急速に開発が進みました。特に新発田藩の溝口氏などは表面上は10万石なのに、実際には40万石ほどではなかったかとも言われるほどです(このお陰で溝口氏は明治維新後に伯爵になれました。表面上は15万石だった高田の榊原氏が、内実を調査した結果、子爵にしかなれなかったのとは対照的ですね)。あえて幕府に訂正報告をしなかったのは、脱税…ではなく、外様大名なのに裕福なのに目をつけられてお手伝い普請などを押し付けられるのを嫌ったからでしょう。今の米所たる新潟の基礎を築いたのは上杉ではなく、彼らなのかもしれません。
閑話休題(話が多少脱線しても許される魔法の言葉)
さて、つまり新田開発バブルにより技術的にも進歩が進んだというのはすでに語りました。技術革新によりそれまでよりも効率的に米の生産が出来るようになったのですね(といっても現代とは比べるまでもありませんが)。鰯を干した干鰯などという肥料の名前を、高校の日本史AかBかで覚えさせられた方もいらっしゃるでしょう。「こんなもん覚えてなんの役に立つんだ!」と。まあ試験の役には立ちます。それはともかく生産性が上がり、今までよりも米がより多く作れるようになりました。
では年貢の比率は?話を単純化するためにあえて五公五民(領主と農民で半分ずつ)としますが、「太閤検地によって決められた量」に据え置かれたままでした(実際にはいろいろ違うんですけど、話をわかりやすくするためにこうしますね)。徳川幕府ができて五代将軍になるまで約100年。この間の技術的進歩がまるで無視されているかのようでした。大規模な検地、つまり税務調査をした回数は片手でたりるほど。より多く取れるようになったのなら、本来であればその半分持って行ってもいいはずなのにです。
当たり前ですが、当時にマルサなど存在しません(目付はいましたが)。実際に年貢を徴収するのは地元の代官であり、代官から委任された庄屋であったりしたわけです。殿様たる旗本や、天領なら幕府の役人は常に農村に住んでいるわけではありません。また関東郡代を始め、5代将軍の時代までは代官職の多くが世襲でした。
世襲自体を否定するわけではありませんが、地元完全密着の世襲となると、風通しの悪さは想像できるでしょう。密着と癒着は似て非なるものです。先例という格好の言い訳をお題目に、真面目に調査もせずに農民の言い分のままの年貢を受け入れて江戸へと運ぶ。代官職を無事に勤め上げて、息子に譲るまでは問題を起こさないほうがいい。江戸にいる上司の顔は見えないが、目の前の農民には嫌われたくないし、好かれたいのが人の人情。あえて税務調査をして農民の反感をかって、上司や同僚から無能とレッテルを貼られるよりは…
とまあ、こんな具合であったようです。気持ちは分からないでもないですが、これでは当然幕府の財政は逼迫しますね。米以外の商品作物や商業・金融業が急速に発達しているのに、肝心の米ですらまともに徴税できないようでは、どうにもなりません。
そこで5代将軍徳川綱吉は世襲代官をほぼ一掃します。中央から代官を派遣し、ビシバシと取締を強化するわけです。徴税強化と同時に金融緩和政策を実施し、経済規模に似合う形での貨幣改鋳を行い、慢性的なデフレに陥りつつあった経済と財政を立て直しました。元禄文化はこうした好景気の中で生まれた華やかな文化です。昭和の黄門を自称した旧大蔵省出身の元総理は、高度経済成長を「昭和元禄」と揶揄しましたが、元禄時代が好景気であったという認識がなければ、この言葉が広まることはなかったでしょう。
個人的な性格として綱吉は学問好きで知的レベルは父親や兄とは隔絶していましたが、好き嫌いが激しく偏執狂であり、仕えにくい事この上ない上司であったことは間違いないようですが、批判を恐れずに既得権を打破するには適したキャラクターだったのも確かです。新井白石の影響か、6代将軍の儒教的政策を肯定的に評価し、5代のそれは生類憐れみも含めて長らく否定的な評価が多かったようですが、研究の蓄積により生類憐れみの福祉政策としての側面を含めて見直されつつあります。むしろ6代将軍は綱吉のもとで貨幣政策を担当した荻原重秀を留任させようとしていたほどです。最後は「政治的な正しさ」を主張する白石に押し切られましたが。
そして7代将軍が夭折して将軍宗家が絶え、紀伊藩主の徳川吉宗が8代将軍になると、それまでパージされていた5代将軍時代の老中を復帰させるなど、明らかに5代の政権への回帰を意図したような人事を行いました。とはいっても吉宗のそれは部屋住みで一生を終え、家督も相続できずに終わるはずの自分を大名に取立ててくれ、後に紀伊藩主になるよう路線をつけてくれた綱吉個人への恩義のようなものであり、政策的には増税路線と金融引き締めというちゃんぽん政策でした。金融引き締めは大岡越前によって再度緩和路線へと戻り、増税路線も一定のところまで年貢徴収を強化したところで方針を転換したため、享保の改革をなんとか「成功」という形で終わらせることが出来ました。しかしこの「成功体験」を良くも悪くも踏襲したのが松平定信であり水野忠邦で、結局彼らは失敗したのですから、これが幕藩体制の限界だったのかもしれません。
閑話休題(だからこれをつければ許されるというもんじゃねえぞ)
さて、ようやく一揆です。江戸時代の百姓一揆という単語で皆さんが想像するのはなんでしょう。カ○イ伝のように、生活苦に我慢ができなくなった百姓が大挙して決起し、むしろの旗を立てて代官所を襲撃、政権側と武力で正面衝突…まあこんなところでしょうか。漫画的な表現としては実に盛り上がる展開です。あるいは各地の民間歌舞伎などで伝承される義民伝説などを思い起こされる方もいらっしゃるでしょう。封建体制では禁断である直訴をし、訴えを認められることと引き換えに死を賜る。身を殺して大義をなす。いかにも日本人好みですし、私も好きですね。
長々とした前振りですでにお気づきでしょうが、義民伝説はともかく、カ○イ伝のような百姓一揆は、実はそのほとんどがフィクションです。実際に大規模な百姓一揆となり藩主が改易された金森氏のような例もありますが、それは例外中の例外。ほとんどの一揆は「労働争議」のようなものでした。義民伝説がパターン化されて全国各地に伝わっているのも、労働争議としての一種の形態として雛形があったからです。「あそこの村はこうして成功したんだぞ」というやつですね。権力闘争が目的ではないのです。要求を飲ませることが目的なのですから、成功体験があれば誰だってそれに習うに決まっています。
一方で政府、つまり藩の対応ですが、あまりひどい統治をすると、中央政府から「政よろしからず」といって問責された例がいくつかあります。もっともよほど酷くないと介入にはいたりませんでしたが、坂の上の雲で知られる伊予松山藩は、親藩にもかかわらず、幕府から怒られています。また前述の金森さんのようにそれを理由に取り潰しされたところも。これは代官所の役人も同じです。基本的には藩政(?)不干渉なのですが、基本的に江戸幕府とは人道的(?)なおせっかいな政権でもありました。
一例を挙げます。私が大学生時代、確か九州の藩だったとおもいますが、一揆の際の訓示で「鉄砲を持って行ってもいいけど撃ってはダメ!百姓挑発するなよ!平穏無事に!」という文章があり、一同揃ってずっこけた記憶があります。基本的には一揆を起こされる時点で政治的な失点なのです。これ以上失点を重ねたくないという、なんとも見事なお役人心理に「こんな侍は嫌だ」と研究生一同が思ったものです。
まあ、これはあくまでその藩だけの話かもしれません。基本的にいろんな藩があり、鹿児島の島津さんのように「武士の武士による武士のため」のような藩もあれば、出羽酒田の酒井氏のように地元の大商人が藩政を牛耳っていたりと様々です。そもそも江戸時代が260年ほど続いた長い時代なのですから、特定の時代の特定の例だけをとりあげて「江戸時代の一揆とは~」と語ること自体がおかしいとも言えます。木を見て森を見ずということわざがありますが、これは難しいところで、木を分析しないと森全体のことがわかりませんし、森全体を見ないと木の本質を見失う恐れもあります。歴史学者とは多かれ少なかれこの問題と向き合わざるを得ません。
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さて「ではあの大規模な百姓一揆のイメージはどこから出てきたの?」という問題です。まさか江戸幕府初期の島原の乱などのイメージがいきなり江戸幕府の終わりに復活したわけではありませんし、ありえません。
前回、私が書いた↓を覚えておられるでしょうか。
『地租改正という大増税により、全国各地で反対運動が吹き荒れた』
実はこれが「百姓一揆」のイメージなんです。この時の反対運動はそれはもう強烈で、役所を焼き討ちしたり武装蜂起したり、士族の反乱と結びついたりとで、明治10年(1877)の西南戦争が終わるまでの10年程は、日本全国はそれはもう血なまぐさい時代でありました。確かに明治維新は事実上の無血革命とも称されることもありますし、私も他国の例と比べるなら穏当に政権交代が為されたとは思いますが、戊辰戦争にしてもそうですし、決して血が流れなかったわけではありません。近代化に反対する諸運動は他国と比較してもそれほど弱かったわけでもありません。
そしてこの全国各地で10年ほど続いた「一揆」のイメージと「徳川幕府は無能で潰れた」という明治政府の意図したプロパガンダと結びついたことにより、カ○イ伝のような武装闘争という百姓一揆のイメージが作られたというのが私の恩師の見解でした。実はこの「武装闘争=権力打倒を目指した民衆の蜂起」という見解は学会でも長く主流であったそうです。「調べ」もせずに「階級闘争史観」の「決まった結論」を導き出すために「都合のいい材料」だけをひっぱりだして、明治維新が市民革命なのかブルジョワ革命なのかとわけのわからない論争を延々と繰り広げていたそうです。
まあ、お分かりなる方もいらっしゃるでしょうが、いわゆるマルクス主義的な歴史観ですね。WW2の直前から終わりにかけて主流となった皇国史観の反動から、学会は左派でなければ人にあらずという状況であったようで、個別に百姓一揆の事例を調べて研究するという、当たり前だけど地味で膨大な仕事量が必要となる研究には「皇国史観では民衆の視点がない!」と声高に批判する連中ほど見向きもしなかったそうです。彼らの批判する皇国史観の本尊であるはずの平泉先生の方が、よほどまともな実証主義的な研究があるぐらいですから推して知るべしです。
百姓一揆の実像がようやく具体的に研究されだしたのは、ほんの10年か20年ぐらいのことだそうです(伝聞のため実際には不明)。ちょうど冷戦構造が崩壊したあたりと考えると、なにか意味深ではあります。
幕府が終わってもうすぐ150年、たかが150年前ぐらい前のことなのに、これだけ紆余曲折があり、色眼鏡や勘違いや確信犯などが入り混じって実像が長くわかりませんでした。江戸時代のことですらそうなのです。先の大戦を「歴史」として語るには、まだ時間が早すぎるのかもしれませんね。でも機会があれば近現代でIFモノ書いてみたいですね(おい)
あいも変わらず話が飛び飛びとなって恐縮です。お付き合い頂きありがとうございました。
次は(仮)「歴史の流れがわかれば歴史って簡単!」「だからその流れが解んねえっていってんだろこのボケ!!」でお会いしましょう。