「私が両親から相続したのは頭髪の薄さだけであると考える人は手を上げなさい。胸を張りなさい。貴方は輝いている」(防衛大臣のエゴサーチ、本郷房太郎、寺内正毅VS児玉源太郎、竹橋事件、蒋官)
某スレでの雑談を膨らませてみただけの話です。
どうもご無沙汰いたしております。神山です。エッセイ開始当初の勢いはどうしたんだ!とか、さんざん次回予告でちらつかせていたネタはどうしたんだ!とかいうお叱りを承知の上で、まずは言い訳から。
まあいろいろ考えてはいたんですよ。戦前と戦後の織田信長像の推移とか、平泉澄の皇国史観の反動のもたらした日本考古学における六国史の極度の軽視とか。
でもね、これを書いちゃうといろいろと台無しなんですけど、ぶっちゃけ専門家の書いたコラムや論文のほうがおもしろいんですよ。
書こうと思った動機は、そういう話を読んで私が面白い!と思ったものを紹介したいなんですが、付け焼き刃の知識ではどうにもうまく捌ききれず。いざ文章に起こしてみても、上等な生肉の塊をなまくら刀で切ろうとして台無しにしているような感覚に。借り物の褌で相撲をとっているような感覚がぬぐえないんですよね。
これで自分のエッセイだの考察でございというには、どーにも憚られていましたが、つい最近ようやくこれなら1本書けるかなというネタを発掘しましたので、久しぶりに書いて見ました。
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さて現在の防衛大臣(2020年1月5日現在)は南関東地方の有名な政治家一家です。
先代はいろんな意味で(いい意味でも悪い意味でも)有名な元衆議院議長、祖父は立憲政友会(戦前の保守政党)の流れを組む政権与党の党人派閥を率いた総裁候補だった河野一郎。大叔父が元参議院議長の河野謙三、曽祖父(つまり一郎の父)も豪農で、神奈川県会議員議長を務めていました。
まあそれはともかく、現防衛大臣が何かとネットを騒がせるのは、その驚異のエゴサーチ能力です。
エゴサーチとは、検索エンジンで自分の名前や作品名を入力し、その評判を調べる行為です。自分がどのように評価されているかを確認する、自己承認欲求の一環に数えることができる行動ですね。
エゴサーチ、私もやったことがあるのでわか……げふんがふん。経験された方はわかるでしょうが、単に自分の名前や作品名を打ち込むだけではダメなんですよね。ちょっとした検索のコツといいますか、調べ方(入力方法、キーワードの選び方、どの検索エンジンを使うか、どの情報を排除するか等々)があるんですね。
こればかりは人に教えてもらっても、うまくいきません。自分で四苦八苦しながら、ああでもない、こうでもない、あ、こいつこんなこと書いてやが(ry)……などなど。自分自身のエゴサーチに関するリテラシー?を上げていくしか方法がありません。
政治家は人気商売といいます。悪口を言われてなんぼ。そして現大臣の御名前は、その……こういうと大変失礼な言い方にしかならないのですが、非常に単純といいますか、同姓同名の他人が山ほどあるパターンであることはご想像がつくと思います(その分だけ覚えやすいし、書きやすいんでしょうけどね)。市町村会議員まで広げれば、いったいどれだけの数になるか。まして民間を含めれば……
にもかかわらず現大臣は、その驚異のエゴサーチ能力、それもピンポイントで話題になるようなものを的確に射抜くことで、たびたびネットニュースでも話題になります。贔屓の地元サッカーチームの話題ならまだしも、恋愛相談だの、軽い批判的な書き込みまで。ひょっとして大臣って暇なの?と思うぐらいに食いつきが早いんですね。
秘書や事務方が優秀なのかもしれませんが、私個人の経験からしてもエゴサーチに関しては、ある程度本人のネットリテラシーがないとどうにもなりません。昨年(2019年)、文法に沿った文章をかけない大学生、検索エンジンを検索できない学生(入力の仕方がわからない)というのが話題になりましたが、こういうのは本人の経験が直結します。
もっとも現大臣は年季の入ったPC暦(95以前からいじっていたとかいう話を聞いたことあるけどネットソースだから真偽不明)らしいので、そちらの経験からかもしれませんが、それを言ってしまうとこの話は終わってしまうので、いったん棚上げします。
某スレでそれが話題に上ったとき、私の脳裏に浮かんだのは、現大臣の母方の曽祖父にあたる元陸軍大将のことでした。
というわけでようやく本題である本郷房太郎(1860年-1931年)を取り上げます(まだ話が脱線してない!)
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江戸時代、幕府の要職(現在の閣僚クラス)には譜代大名(関ヶ原以前からの徳川家に仕えた大名)しか登用されないという不文律がありました。
一方、明治維新後には、倒幕に貢献した薩摩・長州・土佐・肥前の4藩出身者が優遇されていました。もっとも後世において敵対派閥が意図的に喧伝した要素もあるので、必ずしも絶対というわけではないのは要注意です。しかしながら主要派閥とその閨閥につながる者がある程度有利というのは確かにありました。
本郷房太郎は現在の兵庫県にあった篠山藩の出身です。藩主は譜代の青山氏。当然ながら藩閥とは何の関係ありません。妻も兵庫県士族(元武士)の出身の家の娘。当然ながら閨閥が望めるはずもありません。
おまけに体もそれほど頑強ではなかったようで、幾度が卒中のような症状で倒れています。それが原因となり、定年より2年早く退官しています。本郷の体重は最大で100キロちかくあったというので、それも影響していたのかもしれません。
さらに本郷にとってハンディとなったのは、陸軍大学校に入学出来なかったことでした。
本郷は明治10年(1877年)の西南戦争の年に陸軍士官学校に入校。2年後の明治12年(1879年)に卒業します。卒業と同時に少尉に任官されるのが慣例ですので、当然ながら彼も少尉となります。
なお、同期には元帥となる上原勇作(工兵)、北清事変での北京篭城で知られる柴五郎(砲兵)、陸大を首席で卒業した砲兵の専門家である内山小二郎(当然砲兵)、そして秋山好古(騎兵)がいました。陸軍にはいくつかの兵科がありましたが、最も人数が多く、そして競争の激しい兵科が歩兵科でした。本郷はその歩兵科でした。
陸軍士官学校が陸軍出世双六のスタートなら、陸軍大学校は専門学校とでもいうべきでしょうか。陸軍大学校は高級幕僚、すなわち参謀養成学校です。参謀とは半ば職人芸じみた高度な知識と経験を必要とする専門職であり、高度な専門教育がなければ務まるものではありません。当然ながらそれを使いこなす高級指揮官にもその知識は必要であると判断されていました。
そのため明治初期はともかく、制度が整備されると陸大を卒業しなければ、事実上将官への道は立たれてしまいました。例外はありますが、かなり限られた特殊な例です。
その特殊な例が本郷なのです。まして陸軍大将に上り詰めたのは空前絶後といってもいいでしょう。
この陸大に応募するためには一定年度を勤め上げ、なおかつ所属する部隊の長(連隊長)からの推薦が必要でした。つまり人物を確かめる期間ですね。ところが本郷はまたもや自分の健康の問題で受験の機会を得られませんでした。ずるずるとしているうちにとうとう大尉に昇格(明治24年)。受験資格を喪失してしまいました(受験資格は中尉と少尉まで)。
しかし本郷は一向に腐らず、それまで通りの精勤を続けます。これをはさんで10年近く、ほとんど専属のようになった士官学校での仕事ぶり(後述)は上司からも同僚からも評価されていたといいます。
ついたあだ名が「坊ちゃん」。夏目漱石の小説と同名ですが、同小説は1906年の発表なので、おそらく文字通りの坊ちゃんとして呼ばれていたのでしょう。本郷の気質がうかがえます。
人間、陰日なたなく働けば誰かが見ているものです。4年後の明治28年、本郷は少佐に昇進。折りしも日清戦争の真っ最中(1894-95)。第4師団に配属され、留守師団の参謀となりました。
留守師団。文字通り出征中の師団の留守を預かる師団ですね。俗っぽくいえば留守番部隊でしょうか。それでも本郷はここで参謀を経験したことで、再び日の当たるコースに戻ることになります。
明治29年(1896年)には陸軍省軍務局に呼び戻されます。軍務局は軍政をつかさどる陸軍省の中でも人事や編成を扱う花形部署です。現在でたとえれば財務省主計局のようなイメージでしょうか。当時の軍務局長は児玉源太郎、陸軍次官を兼任していた長州閥の大物です。
ここで脱線しますが、陸軍における長州閥(長州出身者を中心とした派閥)は、山縣有朋元総理を頂点とした派閥です。元老でもある山縣の地位はほぼ不変でしたが、その指導者は大まかに言って桂太郎→寺内正毅→田中義一→宇垣一成と、昭和初期まで受け継がれていきました。
桂太郎(1848-1913)が長州閥のナンバー2であることには異論はありませんでしたが、その次が問題です。候補者は2人いました。前述の児玉源太郎(1852-1906)。そして寺内正毅(1852-1919)です。
年齢を整理しておきましょう。明治33年(1900年)を目処にすれば
山縣有朋(62)→桂太郎(52)→児玉・寺内(48)です。
これで互いに相手を意識しないわけがありません。どちらかが後継者の地位に就けば、自分はその地位から遠ざかるどころか、お払い箱となりかねない関係性です。前者が豪放磊落な豪腕タイプ、後者が几帳面で神経質なタイプと、性格も反対でした。
児玉の死により寺内が後継者となりますが、後に内務大臣や台湾総督を経験した政治家タイプの児玉が後継者となる可能性も当然ながらありました。
この児玉を寺内が陸軍省から叩き出す契機となったのは、北清事変(1900-01)にからむ馬蹄銀事件だとされています。これは北清事変で出征した第5師団のうち、歩兵第42連隊(山口)と香川の第12連隊(丸亀)らが馬蹄銀(その名の通り馬蹄のような形をした銀)を横領したとされる事件です。
元々、児玉はその職務スタイル(合法磊落な辣腕タイプで独断専行の気があり、よく言えば即断即決、悪く言えば軽率)もあり、慎重居士の山縣と相性がよくありませんでした。山縣が大反対した政党をつくった伊藤博文の第4次内閣(1900-01)に、陸軍大臣として入閣したのも気にいらなかったようです。
この馬蹄銀事件で児玉は対応に失敗しました。揉み消しを図った、あるいは郷土の連隊に手心を加えたというよりも、初期対応に失敗したというべきでしょうか。たいしたことはないと考えて後回しにしていたら、とんでもない事件だった。そのような気配が児玉の対応からは感じられます。とにかく内閣の交替とも重ならない妙な時期で児玉が辞任しています。しばらく児玉は軍服を着たまま桂内閣の閣僚に回ります。
これを見逃す寺内ではありません。児玉の後任として桂太郎内閣の陸相に登板すると、この事件を徹底的に調査し、徹底的に利用して陸軍省を完全掌握します。今信玄こと、陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死(1903)すると、その後任に就任したのは内務大臣に転出していた児玉源太郎。明らかに格落ちであり、こうなると誰の目にも後継レースは明らかです。
こう書いてみると寺内が日露戦争前に何やってんだと思われる向きもあるでしょうが、まあこの人の政治スタイルとしては、自分が細かく厳正に管理してこその陸軍という意識がありました。日露戦争全体を通してみれば、寺内の管理野球ならぬ管理陸軍は成功したと言えると思います。
閑話休題
だいぶ話が脱線しましたが、問題は山口の第42連隊の後任の連隊長です。不祥事を起こした連隊長の後任の上に、よりにもよって長閥の本拠地です。手心を加えれば児玉を「綱紀をゆるがせた!」という理由で追求した寺内の看板政策を自ら否定するようなもの。かといって長州出身者は長閥内部で下手な摩擦を生む可能性があるし、綱紀紊乱を放置するわけにもいかない。さて誰がいいか……
ここで白羽の矢が立ったのが本郷です。足掛け10年近く仕官学校教育に携わった経歴は、まさにうってつけの存在でした。何せ明治20年代前後の全ての士官学校卒業生とかかわりがあったので、問題となっていた連隊の幹部はほとんどが教え子です。こうして歩兵大佐として連隊長に就任した本郷は徹底的に綱紀粛正に取り組み、寺内の期待に見事にこたえます。
本郷はこの部隊を率いて日露戦争に従軍します。またも体調を崩し、担架に揺られながら4ヶ月ほど朝鮮半島と満州を転戦していた明治37年(1904年)の9月。押しも押されぬ陸軍のドンとなった寺内の鶴の一声で、本郷は突如として帝都東京に呼び戻されます。
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東京に呼び戻した本郷を、寺内は自らの副官としました。いかにも寺内らしい強引な人事ですが、42連隊の汚れ役を押し付けたことへの恩賞だけが理由ではありません。
士官学校時代からの本郷の別のあだ名は「生き字引」でした。博覧強記とはまさにこのことで、本郷は同期、先輩、後輩に教官にいたるまで、生年月日に出身地、家族構成、人事評定や成績表にいたるまで、ほぼ丸暗記をしていたといいます。それも手帳やメモを頼らずに話せたそうで、永田鉄山(昭和初期の陸軍軍人で陸相確実とされた超エリート軍人)も兜を抜ぐ正確さだったそうです。
寺内正毅という人は、ステレオタイプの東條英機のイメージといいますか。とにかくうるさ型で神経質で、あらゆることに目を通さずにはいられない性格でした。それでいて人の視線を気にするところもあり、自分の職権と権限の及ぶ範囲には敏感でしたが、その地位にふさわしいだけの、ある程度の公正さも兼ね備えていました。付け加えて記憶力にも優れており細かいことにも誰よりも先に気がつくという……
つまりは部下としてはこれ以上ない嫌な上司です。
その寺内も本郷の記憶力には適わなかったというのだから、本郷の異才が窺えます。こういううるさ型の上司は気に入った部下には徹底的に目をかけるもので、本郷は寺内のお気に入りとなります。かといって本郷が寺内の太鼓持ちというわけではなく、意見の違う場合は臆することなく堂々と上申していました。これでは省内で本郷が嫌われるはずもありません。
寺内が災禍なく10年以上に及ぶ陸軍大臣を務め上げることができたのは、本郷房太郎の存在なくしてはありえませんでした。過言というよりも、これは事実だと思います。
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本郷が陸軍士官学校に入校した翌年。明治11年(1878年)。竹橋事件が発生します。
この事件は日本史教科書でもさらっと触れられていますが、計画的な軍事クーデターでした。双方あわせて10名の死者(自殺者のぞく)を出した上に、反乱を起こした主体は、よりにもよって皇居竹橋に駐屯していた近衛歩兵大隊。大砲を皇居に向けて「陛下にあわせろ!」と迫ったというのですから、まさに明治版2・26事件です。あるいは明治版宮城事件でしょうか。
この事件を契機に軍人勅諭が布告されますが、この叛乱の動機は前年の西南戦争(1877)でした。
折りしも大蔵卿・大隈重信(またこいつか!)の緊縮財政下、内乱ということもあり昇給や昇格はできる限り抑えられました。その不満が爆発したのです。
つまりは論功行賞への不満が、主な動機です。
西南戦争で動員された兵力は約8万。死者は約7000人、負傷者は数万人にも上ったとされます。
さて日露戦争です。日本軍は戦没者だけで9万人弱。負傷者は約16万、動員された数は約30万です。
元々私は華族制度に興味を持って近現代史を始めたこともあり、私の疑問は「いくらなんでも日露戦争で爵位ばらまきすぎじゃね?」というものでした。
しかし竹橋事件を知れば、過剰と言われても納得できます。
日露戦争後、本郷は副官のまま人事局長と俘虜情報局の長官を兼任させられます。寺内の思惑は42連隊長に抜擢した当時とおそらく同じだったのでしょう。非藩閥の本郷ならば不満は出まいという政治的打算、そして本郷の驚異的な記憶力であれば職務に不都合は出まいというものでした。
何せ10年近い陸軍士官学校勤務時代の、全ての生徒の経歴を覚えているというのです。
どんな脳みそをしているのでしょう。
本郷のもうひとつの役職は俘虜情報局、すなわち捕虜の管理です。日露戦争では8万人近いロシア帝国軍の捕虜が出ました。
日露戦争における海軍の有名な話で、ロシアの艦艇を語呂合わせて覚えていたというものがあります。ボロジノ級戦艦のボロジノは「ボロ出ろ」、2番艦のアレクサンドル三世は「呆れ三太」、3番艦アリョールは「蟻出る」、4番艦でロジェストヴェンスキー司令長官が乗艦していたクニャージ・スヴォーロフは「国親父、座ろう」……
ひょっとすると、本郷は自室でこんな感じにぶつぶつ唱えながら覚えていたのでしょうか。俘虜情報局長官の本郷は、8万を越えるロシア人捕虜の氏名を全て管理していたそうです。それも基本は暗記で。
ねーよ!どーやってやるんだよ!PCもエクセルもない時代にどーやってやるんだよ!!!人力か?それとも大黒帳か?!?!馬鹿っていうほうが馬鹿なんだぞ、ばーか!!!
……と、思わず自分の脳みその出来の悪さに悪態をつきたくなるような逸話を残しています。
はぁ……
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少し時代は下りまして昭和初期の日中戦争(1937年-45年)。陸軍には蒋官と呼ばれる将校が大量に発生しました。これはジョークで、蒋介石のおかげで将官になれた人物。だから将官ならぬ蒋官、という具合です。こんな自嘲が語られるほどですから、どうにも見ている限りでは、論功行賞の大盤振る舞いという伝統以外は引き継がれなかったようです。少なくとも日露戦争ではこの種の、論功行賞がおかしいと言う不満はほとんど出ませんでした(私の勉強不足かもしれませんが)。
昭和陸軍には本郷房太郎はいなかった……などと総括すると簡単ですが、そう単純なものではありません。個人の力量に頼りすぎたあまり、組織の育成が追いついていなかったとは評論家が語りそうなことですが、それでは何の解決にもなっていませんしね。
本題に戻りまして、本郷は見事に日露の論功行賞を乗り切り、大正2年(1913年)には陸軍次官になります。折りしも木越安綱陸相が軍部大臣現役武官制の緩和に同意して陸軍で孤立していた時期ですが、これという本郷の話も行動も聞いていません。
本郷は岡山の第17師団長を経て、大正7年(1918年)、ついに陸軍大将に昇格します。陸大を卒業せず(非天保銭組)で、海外留学経験もない、まして非藩閥、あげくに特殊技能のない歩兵科出身の大将。ですがこれまでの本郷の異才を見ていただければ、それが決して寺内の身内びいきでないことはわかっていただけると思います。
士官学校時代に鍛えた生徒の中に皇族軍人の久邇宮邦彦王がいたとか、大陸浪人に乗り込まれたけど単独制圧して叩き出したとかいう逸話もありますが、省略します。さすがに本題から外れるので。
とにかく異才の軍人でした。
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その本郷の孫娘が嫁いだのが、現段階で衆議院議長在職の最長記録を誇る御仁です。つまり現在の防衛大臣からすれば母系の曽祖父ということになります。
……まぁ、遺伝で片付けばこれほど楽な話もないんですが(笑)。私が人並みはずれたエゴサーチ能力で思い出したのが、この異才の記憶力の持ち主だった本郷房太郎大将だったことを、なんとなく感じていただければ幸いです。
長文お付き合い頂きありがとうございました。
次回予告はするから嘘になるのであって、しなければ嘘にはならない!(キリッ
・ネタ元となった某スレの雑談で「銀河英○伝説風で例えたら本郷はキャゼルヌだな」と言われましたが、私としては寺内のほうがそれに近いとおもう。キャゼルヌは自由惑星同名の末期とはいえ、家族もいるのに軍に辞表叩きつけたりと、けっこう短気だと思っていますので。
・じゃあ本郷は誰かと言うと……フレデリカ・グリーンヒルの記憶力を持ったエドウィン・フィッシャーかな?(性格と体系はパトリチェフ)