仙石秀久「再チャレンジ!」長宗我部元親「おい」(土佐長宗我部氏の歴史。四国と中央政治の関係、長宗我部の相続問題と決着時期について。一領具足の精神の継承者)
御家相続は家の大小にかかわらず、いつの時代でも悩みの種です。単に当人の親子関係だけの問題ではなく、様々な利害関係者が複雑に絡み合うからですね。今回は土佐(高知県)の長宗我部氏の御家相続について考えてみたいと思います。
高知県というのは血の気が多い土地柄で、戦後の県政でも相当個性の強い県知事が続きました。現在(2018年3月時点)の副総理は福岡県飯塚市を中心とした選挙区(衆院・福岡8区)を地盤としていますが、その外祖父であるワンマン宰相こと吉田茂は父親が高知県出身であることから首相時代は高知を選挙区(衆院・高知全県区)としていました。まあこの話がどうつながるかは最後までお付き合いいただけるとありがたいです。
何故か二次創作ではやたらと評判がよく扱いのいい長宗我部さん。まあ、まず普通は一発で漢字変換は出来ません。大河ドラマ「長宗我部元親」、もしくは「盛親」なんて結構ありだと思うんですけどね。今風なら「もりちか!」とかでも言いんじゃ(ry)幕末への伏線もいけるし、なんだかんだで悲劇的な結末は受けもいいと思うんですけどね。
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長宗我部って誰?という人のためにざっくり解説しますと、土佐(今の高知県)中部の国人でしたが、元親(1539-1599)の代に土佐を統一。四国統一寸前まで勢力を拡大しますが織田信長・豊臣秀吉と対立。秀吉の四国征伐で土佐一国に押し込められ、関ヶ原で西軍に属して改易(お家取り潰し)…ざっとこんな感じの家です。元親の父親である国親は、その父親が周辺豪族の連合に攻められて敗死し、一族と共に土佐一条家を頼って落ち延び、力を蓄えてお家再興を果たしました。
そもそも四国は三管領のひとつ細川氏のお膝元です。伊予(細川氏は河野氏と守護を争います)を除く土佐・阿波(徳島県)・讃岐(香川県)、そして淡路(淡路島は現在兵庫県)の守護を一族が世襲します。細川氏が応仁の乱の後、幕政を半世紀近く牛耳った原動力は、この四国と摂津(兵庫県東部)、そして和泉(大阪南部)にありました。ある程度中央から距離があり(中央政界の政争から、ある程度距離を置ける)、そして有事となれば迅速に兵を動員出来る距離にあり、また上陸できる場所を抑えていたからです。細川を下克上で傀儡とした三好も同じ地理的優位性を生かしました。
長宗我部国親は土佐国内の国人勢力と対抗するために、その子である元親は細川(三好)と対抗するために養子縁組や婚姻制作を繰り返しました。このあたりは織田家の北畠や神戸・長野家の相続や、後北条の藤田や佐野、千葉氏の相続、有名どころでは毛利の小早川・吉川の相続でも見られたことです。
国親は国内の対立する安芸氏や本山氏などの諸勢力に対抗するため一条氏を担ぎながら勢力を拡大しますが、統一の直前に急死。息子の元親は一条のお家騒動に漬け込む形で当主の一条兼定を追放、傀儡として一条内政を担ぐと(後北条の古河公方の扱い)、安芸氏を滅ぼし、旧敵たる本山氏を屈服させて土佐を統一します。縁戚関係にあった豊後大友氏の支援をうけた兼定を破り(四万十川の戦い)、土佐の支配を確固たるものとすると、土佐国内の吉良氏断絶を受けて弟にそれを相続させ(吉良親貞)、同盟関係の香宗我部氏に弟の親泰を入嗣させて従属化。また3男に土佐の国人の津野氏を(津野親忠)、そして三好と対立する過程で、西讃岐の香川氏に次男の親和を養子入りさせます。
話が前後しますが、元親の母親は美濃斎藤氏の一族であり、この縁で織田氏と反三好の同盟関係を結びます。元々、道三とその父親は北面武士(上皇に直接仕える武士)だった説もあり、それなりに中央に伝もあったのでしょう。明智光秀の重臣である斎藤利三(道三の継承した斎藤とは別の本来の斎藤一族)が取次となったのも自然な流れです。元親は信長から嫡男に一時を与えられ、長宗我部信親と名乗らせます。長宗我部一族の代々名乗る親よりも、信の字を先にしたあたりに両者の力関係が伺えます。なお元親の「元」は細川晴元から1字を貰っています。しかし織田家が三好宗家を滅ぼした後、その一族と組んだために同盟関係は決裂。本能寺の変(1582年)の原因になったともされます。
さてようやく本題ですが、秀吉は本能寺の変の責任があるとして長宗我部を討伐し、再び土佐に押し込めました(1585年)。3男の津野親忠を人質として降伏。最近、漫画のセンゴクで描写されたばかりですが、長宗我部氏はほかの四国の諸勢力と共に九州に大友氏の援軍として趣き、戸次川の合戦(1586年)で大敗。嫡男信親を始め重臣とその嫡男などを失います。一般的な解釈では、このことにより元親は欝になり厭世的になります。それに付け入る形で久武親直が4男の長宗我部盛親を担ぎ、反対する一族を粛清して実権を握ったのだ…とされます。
ま、ここまでくれば大体想像出来るでしょうが、明らかに江戸時代の朱子学の思想の入った解釈ですね。次男や3男を差し置いて4男がお家相続するなんてという。まあわからないでもないです。実際当時から粛清された親族を始め家中に強硬な反対派がいたわけですし、久武さんもいろいろ評判悪かったのは事実のようです。しかし考えてみてください。戸次川で嫡男とその側近、重臣譜代の若手がことごとく戦死した。つまり当初想定していた次期長宗我部家の中枢を担う人材がいなくなったのです。
2男の香川親和。西讃岐の香川氏に養子入りしたのは1581年。秀吉に降伏して長宗我部が土佐に押し込められる4年前です。それだけ考えれば問題はなさそうですが、問題は香川という外様の人材がおそらく彼の周りにいたことです。土佐の国主であるのに、これはいかにも都合が悪いでしょう。長宗我部譜代からすれば自分たちにもチャンスがあると思っていたのに、なんで讃岐の連中の下に!という気持ちでしょうか。
では津野親忠。津野氏は土佐の豪族で、もともと長曾我部に従っていたわけでもありません。「なんで俺らが~(以下同文)」。親忠は才覚ある人物で、人質時代に独自に豊臣政権幹部とも接触してパイプを築いていたようです。仮に豊臣政権が磐石なら、中央とのパイプを背景に反対派を威圧するかたちでの相続がありえたかもしれません(最上家親のパターンですね)。
しかし元親はそれを選択しませんでした。選んだのは4弟の盛親。実を言いますと盛親への家督継承は一門の影響力を削いで、中央集権化政策を進めるためではないかという説は以前からあります。結果論ですが比江山や吉良を滅ぼしたことで、一門の影響力はそがれました。どちらを選んでも主導権争いが起こるのは間違いない状況なのは見たとおりです。しかも勝者は土佐を牛耳ることが出来る状況です。当事者の自制は期待できません。
では何故この時期(1586-90)の4年足らずの間に決着させたのか。お家騒動となり中央が介入してくる前に決着させたという点以外について、考えてみたいと思います。
元親は仮にも一代で四国を統一しようとした人物です。成立まもない豊臣政権の内部事情を見るに付け、あまり深入りしすぎるのも危険と考えたとしてもおかしくはないと思います。仮にそうでなくとも、一時は秀吉と対抗したものとして、お家としての独立性を維持するためには、一定の距離を置きたいと考えても不思議ではありません。秀吉としても戸次川での一件があるので、あまり強気に出れないことを踏まえていたのでしょう。つまり長宗我部家としての独自性を維持しながら、お家相続を元親主導で決着させられる最初で最後の機会が、この時期だったのではないでしょうか。
元親は1588年に本拠地を浦戸から大高に移し、ほぼ同時期に(おそらく中央の黙認のもと)盛親を後継者とします。そして反対する一族周囲を、文字通り血の粛清を行いました。この悲惨さは現在に至るまで高知県内で語り継がれているので、相当なものだったのでしょう。比江山七人ミサキなる怪談があるくらいです。しかし元親からすればこのまま権力の空白を放置しておけば、いずれは中央の介入を招くことになるという危機感もあったと思われます。
元親は小田原攻めに従軍し、北条氏が一族の意見を取りまとめられずに結果滅亡したことや、佐竹氏が国内の豪族を中央の黙認のもとで粛清するのを目の当たりにします。仮にこれ以降であると、長宗我部のお家相続は豊臣政権下の政治問題になります(蒲生家のお家騒動や豊臣大納言家の後継者問題など)。まさにギリギリのタイミングでした。元親の一族粛清と後継者選定は錯乱していたからではなく、豊臣政権内部の国持大名として生き残るために先手をうった冷徹な政治的選択と考える方が自然ではないでしょうか。しかし盛親は政治的な経験を積む時間的余裕のないままに、朝鮮出兵、そして関ヶ原の合戦を迎えます。戦後に津野親忠を粛清するなどの不手際もあり、長宗我部家は改易になりました。ここに土佐の支配者としての長宗我部は終わりを告げます。
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細川と三好が滅び、長宗我部が滅亡。村上水軍の一族である久留島氏が九州に国替えとなり、四国は織田・豊臣・徳川の家臣や一族である三河・尾張出身者が支配する国になります。四国征伐で土佐以外の在地勢力は粛清されており、長宗我部が改易されたことで完全に消え去ったかに思われました。
しかし山内氏の粛清のあとも、元親の下で四国を統一せんと暴れまわった一領具足の子孫は郷士として生き残ります。そして幕末維新に彼らの中から時代を切り拓く志士達が出てくるわけです。吉田茂首相は実父が高知県出身の代議士であり「土佐に鉄道はいらん!」「高知県のために日本の首相をやっているのではない」という、良くも悪くも高知の県民性を象徴した高い視野のもとで、敵対勢力との対立を恐れずに戦後復興に取り組みました。一領具足の子孫達は、四国を飛び越えて日本をその気高い精神で征服したというと言いすぎでしょうか。
長文お付き合い頂きありがとうございました。さて次のネタはなんにしようかな…