西園寺公爵「つまらん!おまえの話はつまらん!」(前回の補足。首相選定過程の制度化、西園寺公望の政治資産と5・15事件。平沼騏一郎、パリ講和会議と世界平和。近衛文麿と吉田茂の差)
え?予告タイトルと違(ry)… すいません。
そもそも元老とは何かといいますと(以下ウィキより抜粋)
>第二次世界大戦前の日本において、天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である
>大日本帝国憲法は元老についての規定を明記しておらず、また定義した法律も存在しないため、憲法外機関とされる
西園寺公望(1849-1940)が何ゆえ元老の再生産に否定的であったかというと、やはり憲法の枠外にありながら個人的な政治権威を持つ存在は、憲政をこれからも継続していく上ではよろしくないと考えていたからでしょう。具体的に新たな元老として清浦圭吾(旧山県閥・司法官僚。閣僚や枢密院議長を歴任)・山本権兵衛(薩派。海軍の事実上の創設者)両元首相を推す声がありましたが、西園寺はこれを却下しました。両者の素質の問題ではなく、明治維新の元勲(創設者)だからこそ憲法の枠外で超越した存在たりえたわけです。
元老は明治維新の元勲(首相経験者と軍部の重鎮)と、次の世代となりますが日露戦争を指導した桂太郎が明治天皇の遺言という形で指名されました。大正天皇は指名出来る状況ではなく、大正から昭和への移行期には新たに補充されませんでした。自動的に最後の元老となったのが西園寺公望です。
一般的な知名度はあまり高くありませんが、昭和政治史を少しでも嗜んだ人なら、知らない人はいないでしょう。兄は侍従長、弟は住友本家の婿養子となり住友財閥の総帥となります。その縁があったものか、少なくとも政治資金には困らない人でした。
明治天皇の幼馴染であり、鳥羽伏見の戦いの時には18歳の青年公卿として、中立を保つべきとする他の公家を「朝廷のこれからはこの一戦に掛かっているのだ」と叱責します。岩倉具視に「小僧能く見た」と激賞され、積極的な倒幕派ではなかった彼の前途が開かれます。晩年からは想像もできませんが、当初は軍人志望でした。戊辰戦争では(本人曰く)自ら最前線で鉄砲を撃っていたともいいます。しかし大村益次郎から「あなたは軍人に向いていない」と諭され、フランスに留学。10年近い留学の中で、西園寺はフランス流のリベラリズム(自由主義)を学びます。
今でこそリベラリズムは何か胡散臭い左派の看板架け替えのように扱われることもありますが、西園寺のそれはフランス革命の流れを汲む「自由のためなら自ら血を流す覚悟を持つべき」というもので、血の気の多い青年公卿にはピッタリだったのでしょう。エミール・アコラス(1826-91)のもとで学びましたが、学友には後の盟友である中江兆民や松田正久、クレマンソーやレオン・ガンベッタなど、そうそうたる自由主義の闘士がそろっていました。クレマンソーは第一次世界大戦当時、フランスの首相として「パリを前に、パリの中で、パリを後にしても戦う」とドイツへの徹底抗戦を主張し、ガンベッタは骨の髄からの共和派としてナポレオン三世を始め、多くの政府と戦いました。
混同されやすいですが、自由主義だからといって外交的には平和主義のハト派を意味してはいませんし、まして共和主義者というわけではありません。西園寺は生涯、立憲君主制の元で、自由主義の定着と政党政治の確立を理想としたようです。
しかし理想は現実の前にたやすく否定されます。彼は官僚として、または閣僚として幾度も自由主義的な政治行動を起こそうとします。女子教育の拡充や家制度の改革などきわめて(現代的な意味で)リベラルな政策を訴えますが、悉く否定されました。そのことも影響したのか、あまり政界では順調な出世というわけにはいかず、西園寺は旧知の伊藤博文の傘下のような扱いを受けました。またフランス留学中にリウマチを発祥し、生涯それに悩まされました。90歳の生涯の間に何度も「危篤」の号外が流れたほどです。心の中にある熱い理想と、思うようにならない体とのギャップに苦しむことになります。
時代が下りますが、パリ講和会議に出席した西園寺と再会した旧知のクレマンソー首相は「理想に燃えた青年貴族は、おだやかな皮肉屋となっていた」と評しました。また彼の孫は祖父を「火のように激しい厳しい性格を包蔵しているが、表面に現れる事は滅多にない」と回想しています。思うように動かない体への苛立ちが、彼を皮肉屋にしたのかもしれません。そもそも彼は政治家という職業を賤業とみなしていました。立憲政友会の総裁となったのも仕方なくという観があり、骨の髄から政党政治家の原敬などは「党勢拡大のために働かない」と日記で愚痴り倒しています。
桂太郎と持ち回りで2度首相を務めますが、体調不良もあり「早くやめたい」と度々述べ、原敬を激怒させています。建前でもありましたが、おそらく本音でもあったのでしょう。桂園体制と呼ばれる、桂太郎との持ち回りの政権運営、衆議院を政友会が、貴族院と官界を桂(山縣閥)が抑えることを前提とした政権のたらいまわしは、日露戦争後の難しい政権運営を円滑にする役割を果たしましたが、両者ともに妥協を強いられる不満が残るものでもありました。
西園寺の言動には首相として、政党の総裁としてそれを理解していたが故の諦観ともなんともつかぬ色が付きまといます。そして大正政変における自身の違勅を理由に総裁を辞任しました。
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ここで終われば単なる皮肉屋の貴族政治家ですが、ここからが西園寺の真骨頂というべきでしょうか。元老でありながら政党政治家というきわめて相反する属性でしたが、それを自分の中で消化し、公家らしい老獪さでそれを巧妙に覆い隠しました。大きな世界平和とか憲政の常道といったお題目は唱えましたが、個人的な好悪を相手に伝えず(実際には個人的な好き嫌いが非常に明確でした)、どのような相手とも対面して「よいことを聞かせてもらった」と機嫌をとり、情報収集の伝手としました。政界や官界、経済界に軍部と張り巡らした情報網は、山縣亡き後は間違いなく日本における政界の巨人と行ってもよい存在でした。
時代は昭和初期。政友会と民政党という二大政党が成立した頃です。西園寺の理想とする憲政の常道を確立させる格好の時期でもありました。憲法の枠外にある超越的な立場。最後の元老として振る舞いながら、それを自分で最後としようとしたところに、この老人の政治観が窺えます。
西園寺の理想とは裏腹に、時代は昭和恐慌から世界恐慌、大陸での政情悪化が続きました。政党は内部抗争や勢力争いにより有効な解決策を出せず、有権者やマスコミ、宮中や軍部からそっぽを向かれて自壊した……というのが通説です。もっともその後も政友会と民政党は、選挙を経てもなお衆議院の議席の7割から8割を占めており、依然として無視できない勢力ではありました。
5・15事件の後、西園寺は政友会の後継総裁である鈴木喜三郎ではなく、朝鮮総督を2度経験した元海軍大臣の斎藤実を次期首相として奏薦しました。満州事変などの国際情勢の悪化に伴い、国際協調派の斎藤を選んだとされますが、この間の経緯は複雑すぎて一言では言い表せません。
政友会に対しては分裂寸前なのを「次の首相は政友会から」とにおわせて協力させ、野党第一党の民政党には「政友会単独よりはよいだろう」と説得し、経済界には「高橋蔵相続投か、その路線継承が望ましい」と打診し、司法や検察に絶大な影響力を持つ平沼騏一郎(鈴木喜三郎の親分でもありました)には枢密院議長のポストをちらつかせ、軍部の各派閥には、それぞれを支持するともしないとも明確にせずに、自らへの支持を取り付けつつ、上原勇作・東郷平八郎の両元帥と面会。存命している首相経験者にも全員面会しましたが、関係各所を自ら飛び回りました。新聞各紙も最後まで誰が西園寺の本命の後継首相なのかわからなかったほどです。
この斎藤内閣発足は、西園寺の中立性を大きく傷つけます。陸海軍の強硬派は中間内閣を、自分たちへの裏切りと認識し、西園寺はテロの対象となります。むしろそれまでの西園寺は「世界平和」を唱えつつもいざとなれば協力するだろうと強硬派に思わせる、一種の思わせぶりな姿勢をあえてとっていたわけです。
自らの中立性が傷つくことは西園寺も理解していたでしょうが、非常時のためにやむをえないと考えていたのかもしれません。
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ですがその後も非常時は続きました。西園寺の傷いた政治的権威は回復せず、政治は仲介者を失いました。
西園寺に最も批判を強めたのは、空手形を切られた平沼騏一郎です。平沼は検事総長、大審院長(最高裁判所長官)、司法大臣の三つを経験した日本法曹界のドンです。一般的には国粋主義的な右派政治家とされますが、この人の政治思想は非常にわかりにくいものがあります。一概に対外強硬派というわけでもなく、時代と状況によっては親英米派の側面もあり、政党と共産主義を嫌いました。彼の主張していた政治体制は、わかりにくいことこのうえありません。西園寺は彼をファッショと嫌いましたが、一概にそうとも言い切れません。よくわからない人物というのが正直なところです。
西園寺は彼を嫌いつつ、枢密院議長をちらつかせて協力させていました。しかし西園寺はなかなか彼を枢密院議長に推薦せず(ある時期まで宮中人事は西園寺の了解を暗黙のルールとしていました)、これに約束違反だと激怒した平沼が帝人事件(裁判により全員無罪)により斎藤内閣を倒閣した……という真偽定かならぬ話もあります。平沼の思想と体質を嫌い、手形の決済を拒否したがために、西園寺はさらに自身の政治的な選択肢を狭めました。
最終的に平沼は枢密院議長から念願の首相に上り詰めますが、懸案となっていたドイツとの同盟が、独ソ中立条約により頓挫。「欧州情勢は複雑怪奇」なる声明を出して半年あまりで総辞職しました。
閑話休題
西園寺はよく「亜細亜の日本とか小さいことを言うな。世界の中の日本を考えろ」と語ったそうです。国際協調主義者でしたが、それは単なるハト派を意味していたわけではなく、明治維新以来の外交的な資産と、その集大成とも言える第一次世界大戦によって日本が勝ち得た5大国(イギリス・フランス・イタリア・日本・アメリカ)の地位を守るべきというものでした。
有史以来、日本が覇権国家となったことはありません。しかし少なくとも第一次世界大戦により大国となりました。それは先の大戦を経て今に至るまで変わらぬことです。今の日本がそっぽを向けばアメリカは太平洋の覇権を失いますし、日本があるからこそ新たな大国たる中国は太平洋へ出ることができません。ロシアは日本が敵対すれば、欧州との2正面作戦を強いられます。WWⅠ前から日露協約を結び、開戦直後に日本が連合国として参戦したからこそ、東部戦線で総動員が可能となりましたし、独ソ戦における日ソ中立条約の存在は大戦の衰勢を左右しました。
日本の動向は、少なくとも世界平和に影響を与えるという意味では大国なわけです。日本が大陸問題で現状打開を狙えば、欧州における現状打開勢力たるドイツと同一視される。それを西園寺は恐れていました。パリ講和会議に出席し、ヴェルサイユ条約に首席全権として調印した老人は、誰よりも大国としての日本の実力とその責任を理解していました。
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この時、全権団の中にいたのが近衛文麿であり、吉田茂です。
パリ講和会議における連合国のやり方に、ある意味正当な懸念と疑念を覚えた青年公爵は、1918年には早速「英米本位の平和を排す」という現状打破を訴える論文を書きました。そして首相時代にドイツやイタリアとの同盟を結びます。岳父に頼み込む形で随行した吉田茂は、本意ではない中国畑を歩かされ続けます。戦後はアメリカを同盟国にして再び国際社会に復帰しました。
吉田と近衛の違いが何かといえば、個人的な性格や政治家としてのキャラクターを除けば、吉田は日本の実力を信じており、近衛は日本を信じきれていなかったということだと思います。ドイツ生まれの社会主義思想にかぶれた近衛は、ドイツを頼りに現状の打破を狙いました。
一方の吉田は、どんな状況にあろうとも日本の実力を信じていました。著書や回顧録にそれを垣間見ることができます。問題があろうと、日本は必ず乗り越えることが出来る。吉田の岳父(牧野伸顕)や外祖父(大久保利通)が乗り越えてきたように、自分と、そして日本にはそれが出来るという信念があったのでしょう。
話が飛び飛びになり恐縮です。長文お付き合いいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。
え?予告?なにそれ食べれるの?