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木戸侯爵「内府みたいに尖っては」近衛公爵「わかってくれとはいわないが、そんなに俺が…」西園寺公爵「それ以上いけない」(内大臣の歴史。敗戦までのざっくりとした首相選定過程)


 前回、江戸幕府とは徳川(岡崎松平)の家政運営を、天下の政治としたものであり、老中という制度もその中で変遷したという触りを書きました。つまり天下の徳川の私物化ですね。


 しかしこれをあえて擁護するなら、最後の室町将軍が追放されたのが元亀4年(1573年)と30年以上も前です。そして旧幕臣の多くは明智光秀の与力となり、本能寺の変の後に多くが討たれました。徳川家康が征夷大将軍となったのは1603年。それまでの幕政運営のノウハウは完全に失われていたと思われます。


 おまけに織田家とそれを相続した豊臣家の中央政治を牛耳った五奉行の多くは関が原の合戦で西軍に属したのでパージされていました。やむをえないことではあったのですね。しかし征夷大将軍を任命するのは天皇であり、やはり皇室以外の家が委任を受けながら日本全体を代表するという体制に無理があったのかもしれません。徳川家は確かに日本最大の大名ではありましたが、それでも日本全体を統治するには領土が少なすぎたのでしょう。


 閑話休題いきなりかい


 さて前回のまとめですが


>制度というのは「○○という官職を作りました。権限は××で有資格者は△で☆が任命する」と法律や行政命令で作っても、実際に機能するかどうかとはまったく別問題なんですね。それまでの政治的な経緯があり、目の前の課題がある。それを無視して「××の解決のために○○という制度を作ったぞ!」としても意味がない(略)それまでの経緯をまったく無視して作ったところで、うまくいくわけがないのです。


>明治中期から敗戦直後まで日本に存在した内大臣ないだいじんという官職の権限や政治にもたらした影響を見ることで、新しい制度や官職というものがいかに定着し、そして運用されていったのかという実例を見てみたいと思います。


 というわけで内大臣について。これは内務大臣とは違いますので念のため。



 律令体制化(つまり明治維新前)にも内大臣というポストはありました。これは令外官(律令には正式に載っていない臨時ポスト。内閣府特命担当大臣のようなもの)の最高クラスの官職であり、具体的にどんな人物がついたかといえば(ウィキより抜粋)


①摂関家の若手公卿に摂政・関白就任資格を付与するための任命(つまり摂関が空くまでの繋ぎのポスト)

②宿老もしくは功績多大な公卿に対する礼遇のための任命(名誉顧問とか名誉監督みたいなものですね)

③単に筆頭大納言に相当する公卿への待遇が「3番目の大臣(太政大臣を除く)」に改められた任命(機械的に有資格者を任命したパターン。悪く言えば派閥順送り人事)

④武家政権の長あるいはそれに次ぐ地位の者に対して与えられる任命(具体的には徳川将軍家ですね)


 の4つです。つまり「具体的な役職は決まっていない名誉職」のような扱いですね。まさに三条実美にふさわしい役職といえるでしょう。しかしこの役職は王政復古に伴い、摂政関白などと同様に廃止されています。



 明治憲法公布を前に、行政は律令体制を基本とする太政官制度から内閣制度に移行します。本来であれば10年以上、事実上の政権首班であった三条実美(1837-1891)が横滑りしてもおかしくありませんでした。実際、明治天皇はそれを期待されていた節もあります。しかし黒子の岩倉具視がいない三条は政界における主導権を発揮できず、本人もそれは十分に理解していました。また淘汰が進む藩閥勢力の間では、旧長州藩出身で故大久保利通にも近かった伊藤博文(1841-1909)が首相候補で一致していたので、三条が首相ではいかにも都合が悪かったのです。そこで「次の首相は英語を話せるもの」ということで三条ははずされ、三条本人もこれを受け入れました。


 とはいえ事実上、日本の首相を10年以上務めた人物です。肩書きもなしに放り出すには大物過ぎましたし、明治天皇がそれを許しませんでした。そこで内大臣という役職を新たに作ったわけです。つまり明治以降の内大臣とは、三条実美のためのポストとして始まったのです。



 さて、内閣制度導入の肝のひとつに宮中と行政府の分離というのがありました。王政復古という建前があるので、政府といえども天皇の政府です。しかし宮中、つまり皇室の私的な部分(宮中祭祀や皇室財産の運営管理など)と、公的な近代国家として運営していくための行政府を一緒にしておくのは物理的にも不可能でした。また一部ですが存在していた天皇親政論者を退けるためにも、両者の区別は必要でした。憲法公布(1891)より前に内閣制度の導入により分けられた理由でもあります。


 内大臣はその宮中に、廃止された内大臣を復活させる形で設置されました(1885)。内閣制度創設と同年です。肝心のその役職というか役割ですが、きわめてあいまいなものでした。あたりまえですね、三条ありきのポストなのですから。宮中においては内閣総理大臣よりも宮中次席が上とされていたのがその象徴です。


 再度、ウィキさんの出番です。


>内大臣は、親任官である宮内大臣・侍従長とともに、常に天皇の側にあって補佐(常侍輔弼)する官職であった。具体的には、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他宮廷の文書に関する事務などを所管した。


 名誉職を飾り立てただけの文言にも見えますが、このうち常侍輔弼(つねに宮中において天皇に仕え補佐する)というのが、後々意味を持つことになるとは誰も想像していなかったのです。


 閑話休題だいたいこのひきはろくなことにならんひき


 三条は1891年に死去します。日清戦争開戦のわずか3年前という緊迫した国際情勢でありました。国内においては帝国議会が召集され、民党と藩閥政府が対立。その最中に内閣総理大臣より形式的とはいえ上のポストが空席になったのです。政府は大慌てです。黒田内閣総辞職後に暫定的に内閣を率いながらも、後任が決まるとすぐに辞任した三条ほどの出処進退の潔さを、地下からのたたき上げで良くも悪くも権力欲旺盛な藩閥出身者に求めるのは酷というもの。


 問題なのは三条が一時的とはいえ首相代理を務めたことです。明治憲法公布前という変則的な情勢であったとはいえ、内大臣が首相臨時代理もできるポストという前例を作ってしまったのです。これでは妙な野心のある人物を任命できません。まして三条の後が務まるほどの公家出身の有力な政治家もいませんでした。


 後任に選ばれたのは徳大寺とくだいじ実則さねのり。それまで長年務めていた侍従長との兼職で、明治天皇が没し、大正天皇が即位するまで在職します(1891-1912)。彼は後の最後の元老である西園寺公望の実兄です。謹厳実直を絵に描いたような人物で、天皇親政運動に反対。実弟の西園寺とは公式の式典などの場をのぞけば話さなかったという、非政治的な性格でした。元老達(明治天皇が遺言によって指名した相推薦権をもつ重臣)侍従長職との兼任とすることで、内大臣ポストの非政治色を強めようとしたのだと思われます。


 明治天皇に殉じるかたちで徳大寺公爵が退任すると、後任には前首相の桂太郎公爵がまたも侍従長兼任で就任します。若い大正天皇の政治的な師としての役割を期待されていた…というと聞こえはいいですが、実際には桂新党構想に反対する山縣有朋が、宮中に押し込める形で棚上げを図ったのです。


 ところが大正政変により第2次西園寺内閣が崩壊。総理候補がみな辞退する中、唯一引き受けた桂が職を辞して登板します。在任わずか3ヶ月余りという短さでした。陸軍の横槍で前内閣が倒れ、山縣の政治的後継者と見られていた桂が3度目の就任。民衆は「桂の陰謀」と見なしました。第一次憲政擁護運動により、桂内閣は総辞職します。



 外には政党勢力、内には明治天皇の遺言という形で首相推薦権を独占していた元老の政治的な綱引きの中、非政治的な存在として期待され、伏見宮ふしみのみや貞愛さだなる親王(1858-1923)が就任します(在任1912-15)。元帥陸軍大将であり、名前からわかるとおり皇族です。困ったときの皇族頼みというわけですね。しかし前例とする危険性も考え、あくまで「内大臣府に出仕して事務を取り扱う」という形で執務をとります。しかし伏見宮殿下は大隈重信系の政党勢力に肩入れし、明らかに政治的な存在として振舞いました。これでは駄目だということで元老勢力は殿下に3年でお引取りを願います。


 この後は大山巌(在任1915-16)、松方正義(在任1916-22)と元老が就任しますが、高齢化により職務が困難となります。その後は旧山縣系の官僚である平田東助(在任1922-25)が就任します。



 松方元首相の死により事実上最後の元老となった西園寺公望は、元老の再生産に否定的でした。山本権兵衛元首相や平田東助らを元老にする案を拒否。政党政治の確立を政治的な信念としていた(といっても拘泥はしていませんでした)君主と部下の個人の信頼関係を前提としたものより、あくまで機械的なシステムとして首相を自動的に奏薦する制度を作ろうとしました。


 そこで西園寺が注目したのは内大臣の「常侍輔弼」です。内大臣・宮内大臣・侍従長は連携して天皇を支え、内大臣を中心に自動的に首相を奏薦するシステムを作ろうとしていたと思われます。明治の元老大久保利通の次男である宮内大臣の牧野伸顕(在任1925-35)を任命しました。しかしご存知のとおり、昭和初期は世界的にも国内的にも政治的に不安定な時期でありました。立憲政友会と立憲民政党の二大政党による政党政治は行き詰まり、牧野は宮中における君側の奸として批判され、テロの対象にもなります。牧野は満身創痍で辞任に追い込まれます。もっとも牧野もどちらかというと民政党よりであったのも事実ですので、なんとも難しいところです。


 牧野を辛抱強くサポートしていた西園寺ですが、辞任後には前首相の斎藤実(在任1935-36)を推薦します。政治との距離をとるという当初の姿勢はすでにないものとされていました。非常時ではやむをえないと西園寺は考えたのでしょうか。斎藤は長く海軍大臣を務め、朝鮮総督を2度、5・15事件のあと首相を務めました。のらりくらりと強硬派の政治的要求をかわす穏健派実力者でした。


 しかし彼も2・26事件でテロの対象となり惨殺されます。79歳。反乱将校はベッドの上で胡坐をかく斎藤を機関銃で蜂の巣とします。春子夫人は転がり落ちた夫の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」と叫びましたが、それをはがしてさらに刀で切りつけました。昭和天皇の怒りはすざましく、軍同士の挟撃を恐れる川島陸軍大臣に「賊軍に何の配慮が必要か」「朕自ら兵を率いて鎮圧せん」と宣言され、皇族の長老で陸軍参謀総長だった閑院宮載仁親王を「いったい何をしているのだ」と叱責されました。


 西園寺はその後も首相奏薦権を独占しつつ、制度として内大臣を中心とした首相選定の仕組みを作ろうとしました。第1次近衛内閣を最後に、西園寺は「最近の政治家の顔も知らない」として奏薦を辞退。平沼騏一郎枢密院議長を後継首相に奏薦したのは内大臣の元警察官僚である湯浅倉平(在任1936-40)でした。宮内大臣からの繰り上がりで、謹厳実直な非政治的な官僚ではありましたが、政治的な存在には到底なりえない人物でした。それでも阿部、米内、第2次近衛と死に物狂いで常侍輔弼の重責を担い、西園寺の死の数ヶ月前に、重責に押しつぶされるような形で死去しました。



 西園寺の死(1940)により、名実ともに首相奏薦権を独占することになったのが、最後の内大臣である木戸きど幸一こういち侯爵(1889-1977)(在任1940-45)です。維新の三傑とされる木戸孝允の孫(正確には違いますが、まあそんなものです)で、昭和の○ーピーこと近衛文麿公爵(1891-45)の親友で同じ京都帝国大学卒業という秀才です。ただ近衛と違うのは木戸は卒業後に農商務省に入り、内大臣府に移るまで15年以上、貴族院議員の傍らで官僚生活を送ります。この行政経験の差が、どこか地に足のついていない政治しか出来ない近衛と彼との差でした。


 思想的には革新華族ともあだ名され、恩師の河上肇の影響もあり明らかに社会主義に好意的でした。近衛の引き立てで内大臣府に移り、2・26事件では事態収拾に奔走。第1次近衛内閣で文部大臣、初代厚生大臣、平沼内閣で内務大臣を歴任したのち、内大臣に就任します。


 彼は親ドイツであり三国同盟にも賛成派。つまり宮中における伝統的な親英米派と明らかに一線を隔していましたし、近衛新党運動にも携わるなど明らかに社会主義的傾向がありました。にもかかわらず内大臣となれたのは、他に適任者がいなかった(時期が違いますが民政党の若槻元首相が候補者となったりしたほどです)のと、天皇個人の信任。すなわち政治心情や信念を差し置いても、天皇個人の忠実な代理人として振る舞い、そしてここが大事なのですが、組織を統制できる能力があったからです。このわかりにくさは東京裁判でも論争の中心になりました。


 第3次近衛内閣辞職後、天皇に忠実であり御前会議の撤回をするなら陸軍大臣しかいないと、東条英機を奏薦。東条内閣の下で日本は第2次世界大戦に本格参戦しました。東条は確かに天皇に忠実ではありましたが、優秀な官僚でも政治家ではありませんでした。戦局の悪化にともない盛り上がる反東条運動に、表向きは距離を保ちつつ最終局面でのる政治的なしたたかさを見せます。その後、GHQ占領期もふくめて小磯・鈴木・東久邇・幣原と奏薦に関わり、内大臣府廃止に伴い失職。そして「天皇の秘書官」は東京裁判の被告となりました。


 東京裁判における木戸の態度は、広田元首相の潔さと比べて自己弁護に終始し、かつての同胞を売るものとして評判はよくありませんでした。終身禁固の判決を受けますが、1955年に釈放。隠遁生活を送りました。近衛元首相自決を聞き「近衛は弱いね」ともらされたという昭和天皇は、木戸が傘寿の時(1966)に賜杖を下賜されます。あくまで私個人の推測の域を出ませんが、阿南陸相自決の対応(鈴木首相との腹芸説もありますが、私個人は否定的です。かといって絶対に違うと否定するだけの材料もありませんが)や、辛らつな近衛評と比べると、難しい時期に自らの代理人として振舞った重臣への配慮が窺える気がします。


 三条実美個人のためのポストは、大日本帝国の誕生から滅亡までを宮中から見届けることになったわけですね。設立当初の思惑と、最終的に到達した政治的な重要性がこれほどまでに乖離した例も珍しいのではないでしょうか。


 長文お付き合いいただきありがとうございました。次は「-徳川家康は征夷大将軍である-」でお会いしましょう。


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