後北条氏の年貢比率に関する文章を読んでいたら、何故か『終戦』と『敗戦』について考えていた件(ついでに歴史小説における自分の立ち位置)
歴史IFものを書いています神山と申します。皆様の暇つぶしになれば幸いです。
内容に明らかな事実誤認がある場合はご指摘いただけるとありがたいです。
「のじゃ姫」「へなちょこ信玄」などを書いておられます青山つばささんのエッセイで「後北条の四公六民の嘘を考える」という鋭い考察がありました。
>008『北条氏の年貢は四公六民だ』なんて誰がそんな大ウソを言ったんだ?
>http://ncode.syosetu.com/n1254ef/8/
そこでこの件について私の考えと妄想、そして歴史小説に対する立ち位置を筆の赴くままに書いてみたいと思います。
歴史とカテゴライズされるものは色々あります。文庫本に漫画、研究書に同人誌。私の書いているネット小説や仮想戦史なども、おそらく歴史ものと分類されますし、なろうでも私は歴史物に登録しています。
「では歴史とはそもそもなんなのでしょうか?」
実はこの論法は私が大学の歴史学科で最初に先生から投げかけられたものです。『歴史学』を学ぶうえでのとっかかりとしてはこれほど優れた雛形はないと思いますので、それをパクって、もといオマージュして書いてみます。
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歴史をざっくりと「昔の出来事」とすると、わかったようなわからないような話になります。昔っていつからとか、出来事とはなんだとか。
大辞林によると定義は三つにわけられます
①人間社会が時間の経過とともに移り変わってきた過程と、その中での出来事。またそれをある秩序・観点のもとにまとめた記録・文書
②ある事物が今日まで経過してきた変化の跡
③『歴史学』の略
大学で学ぶ、もしくは研究者の方が携わっておられるのは③ですね。ざっくりいうと①と②を学問的(史料批判)に研究するのが③といえるのかもしれません。今度『歴史学』についても書いてみたいと思いますが、今回は関係ありません。
さて青山さんのエッセイは「貫高制と石高制の違いを踏まえず、なんで江戸時代の石高制を前提としたもので北条の年貢比率を四公六民と断定してるんだよ」(意訳)というものです。詳しくはリンク先をご覧になってください。あえて議論を進めるために乱暴に時代分けしますと、両者はともに土地の価格・価値を決めるための基準ですね。簡単に表現しますと
「貫高制」-土地を収穫物等などをふくめて金銭で評価したもの。戦国時代の終わりまで
「石高制」-土地を米の収穫量を基準に判定したもの。太閤検地で全国の検地をやり江戸時代はこれ
江戸時代でも一部地域では貫高制度を継続して使用していたようで。ウィキでは東国の一部で継続とありますが、おそらくこれは米が取れない土地を判断する基準に使われていたのでしょうね。私は農業の専門家ではありませんが、戦後に品種改良が進むまでは東北の稲作は、文字通り博打のようなものだと聞いたことがあります。寒さと病気に弱い当時の米は、お世辞にも東北の環境にあった作物ではなかったようです。このあたりは明治時代になってからの北海道開拓史を見ると、よりわかりやすいかもしれません。官僚も技術者も農家も、血が滲む思いで改良に取り組んでいます。そのおかげで今では我々は秋になると、全国どこでも稲穂の垂れ下がった光景を見ることができるわけです。江戸時代に何度かあった冷害による飢饉などの悲惨な被害は、幕藩体制とあわせて太閤検地で「米」が土地の全国的な判断基準となったことの弊害と言えるのかもしれません。
閑話休題(さっそく脱線してるし)
さて歴史の日本の内政もの小説でよくある「銭で兵士を雇う」という概念にも関わる問題かもしれませんが、さて皆さん(浜村淳風に)よく考えるとおかしくありませんかね?
兵農分離を勧めた織田政権の後継者たる豊臣秀吉の、土地の評価基準が「銭」から「米」へと変わっているんです。普通は銭で兵士を雇うようになるなら土地も自然と「米じゃなくて銭で評価しようぜ!」になるのではないかと。さてこれをやりだすと「そもそも銭とは、貨幣とはなんぞや?」という、まためんどくさい話になるので(後日やりたいと思いますけど)、また乱暴に定義しますと
「長く続いた乱世と弱体化した中央政府、中国の貿易禁止(管理貿易体制)によって信用のある銭が長く作られなかったので、銭を基本とした貫高制の維持が難しかった」
「米なら日本人は誰でも食べるので価値判断の基準としてわかりやすい。ひとりの人間がこれだけ米食べると計算して兵役をかけやすい」
いろんな文章や小説などを読みあさって私の今のところの見解がこれです。ちょうと室町初期に元を追って成立した明(1368-1644)が比較的安定して成長していたこともあり、室町時代はなんだかんだで貨幣経済が全国に普及した時代とも言えるのかもしれません。太閤秀吉は全国統一を優先し、土地の判断基準を最も手っ取り早いもの、つまり米に統一しました。当然といえば当然で全国の金山や銀山を支配したとはいえ、信用力のある日本独自の貨幣を潤沢に作れていたわけでもないのに、突然「土地を金銭で評価する」となれば、デフレになるのかインフレになるのかちょっと想像つきませんが、混乱することは必死だったでしょう。徳川幕府も豊臣家は滅ぼしたものの、通貨の統一には消極的で「江戸は金使い、大坂は銀使い」という「一国二通貨制度」なる奇怪にして複雑な制度が続きました。金本位制度かつ銀本位制、よくこれで成り立ったなと思いますが、これも一種のガラパゴスなんでしょうかね。
カンのいい方はすでにお気づきでしょうが、明治の維新政府は、土地の判断基準を再び「銭」にしました。いわゆる地租改正ですね。これは豊作も不作も関係なく一定の租税を強いられるがゆえに事実上の大増税(近代化政策の財源となりました)となり日本全国で反対の反政府運動が吹き荒れます。自由民権運動もそうした中で勢力を拡大し、武装闘争がすべて失敗した後に体制内改革を目指す民党(今の政党政治につながる)が生まれたことを考えると、「土地」「貨幣」「税金」の3つは歴史を考える上で欠かせないキーワードともいえます。
閑話休題(2回目)
さて青山さんのコラムの感想欄で、実際の北条氏の制度の実情を分析したうえで「江戸時代に北条旧臣だった人の書いた本が元ネタだろう」という指摘がありました。また青山さんも「江戸時代に享保の改革(暴れん坊将軍の時代ですね)に五公五民に増税されたため、徳川の前の北条は良かったというぼやきが『北条は四公六民だった』説につながったのではないか」と書かれています。
これは私は(根拠はないですが)共に正しいと思いました。
税金の負担感というものは結局は人それぞれです。月の手取り15万の人の1万円と年収1000万の人の1万円は違うとおもいますが、私は後者の感覚は想像できません。これだけ情報ツールの発達した同時代に生きている人の間でもそうなのです。では当時は?
代官所や村を取りまとめる庄屋からの正式な通達、村の寄り合いや近所との噂話、伝聞。親からの読み聞かせ。書物による知識。冠婚葬祭や祭りなどにおける僧侶や神主などによる講話。今私が思いつくのを並べてみましたが、精々がこんなものです。江戸時代の関東の農民にとって「今の自分の税負担の感覚」をそもそも理論的に比較できたとは思えません(今でもそうかもしれませんが)
「いま増税された!昔はよかったのに…」という体験していないのに体験したかのような懐古主義。こう書くと批判的に受け取られるかもしれませんが、少なくとも北条旧臣のいうそれが受け入れられる土壌があったのは確かなのでしょう。そうでなければこれほど無自覚に「四公六民」伝説が今にいたるまで伝わることはなかったでしょう。
さて最初に『嘘』をついたという北条旧臣はともかく、これを受け入れた農民は『嘘』をついたことになるのでしょうか?今の不満や苦しさを「昔はよかった」にすり替える。厳しく言えばそうなりますが、この弱さを(あるいは強さを)、今に生きる私たちが責められるでしょうか。
朝の日の出に起きて夜の日の入りまで働き続け、病気や怪我の保証はなく、夏は文字通り暑く冬は文字通り寒い。自然災害にはなすすべもなくすべてを失い、それでもなお先祖代々の土地を耕して後世へとつないでいく。何も知らない哀れな農民とか気の毒だとか、そういうことをいいたいのではありません。どんな職種や身分の人であろうとも、毎日を懸命に生きて次世代にバトンをつないできたからこそ、今の私たちがあるのです。
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ようやくタイトルにつながるわけですが、そんなことをつらつらと考えていて私は祖母との会話を思い出しました。祖母は今年で90になり、WW2には女学生でした。祖母の父は兵役中に体を壊して亡くなり、母子家庭で苦労したそうです。この手の苦労話も戦時中にはよくあったことなのかもしれません。もっと悲惨な経験をした家族もいたでしょう。しかしそれを比較することが主題ではありません。祖母はノンポリでほとんど戦争中のことも今の政治についても語りませんが、たまたましゃべっている中で「終戦」と「敗戦」について話題になりました。
当時確か大学生だった私は「言葉は正しく扱うべき」という考えから「敗戦」と言っていました。終戦という言葉が敗戦のすり替え、負けたという事実を受け入れずに目を背けているように当時の私には思えたのですね。そして祖母は「終戦」という言葉を使っていました。その理由をそれとなく聞くと
「ようやく終わったなあと。ただそれだけだったからね」
「終わったとおもったから『終戦』」。淡々と何の気負いもなくそう祖母は語りました。一日一日を積み重ねて、一日たりとも投げ出すこともあきらめることもせずに生き続けてきた人の言葉の重み。ただ自分がそう感じたからこの言葉を使っている。正直、書物だけを読むことに熱心で、それを鼻にかけていた私は打ちのめされました。言葉の正しさにこだわる我が身の矮小さがあさましくすら思いました。以来私は「正しい」という言葉を使うことに慎重になったと思います。
なにやらここまでだと青山さんを批判しているように受け取られる方もいらっしゃるかもしれませんが、私が言いたいのはそうではありません。青山さんは真摯に歴史を題材とする小説に取り組み(再度書き出したからこそわかりますが、あれだけの文章を熱意を維持して、しかも同時進行で複数のものを書き続けられるのは凄いとしか言い様がありません)、テンプレ的な人物像や歴史的な知識、そして観念を調べもせずにそのまま書く事を批判されています。この姿勢は学問をするにしても研究として取り組むにしても欠かすことのできない「正しい批判」だと思います。
そして「北条の四公六民はよかったなあ」という『嘘』を、目の前の増税という現実を乗り切るために受け入れたことは、これは誤解を恐れずに言えば、当時の農民にとっては「必要な嘘」だったと私は思うわけです。最初に言い出したネタ本の著者の意図はともかく。その著者としても自らの出自に誇りを持ちたいがゆえの嘘だったのかもしれません。
あれも正しい、これも一理あると八方美人のような内容になってしまいましたが、歴史には「正しい歴史」も「正しい歴史観」も存在しないのですね。ただそれを解釈する主体たる自分があるだけです。私は大学時代これを叩き込まれました。最もその解釈が他者にも受け入れられるとは限りませんし、自分以外誰も賛同することのない見解など何の意味もありません。
これは小説にも通じるところがあると思います。正しい小説なんかないのですから、各自が好きに書けばいいんだと思います。ただし評価されるかどうかはわかりませんし、批判されることも甘んじて受け入れなければなりません。
一度逃げ出して戻ってきた作者兼読者としての立場から言わせていただくなら、もっと肩の力をぬいて気楽に書けばいいし、気楽に読めばいいんだと思います。「歴史的事実」から自由な立場になれるIFものを書いているなら、いろんな見解の小説があってもOKだと思うんですよね。私も作品中で堂々と嘘書いたりしてます。無論、歴史を歴史としてそのまま書こうという作品を否定するわけではありません。むしろそちらのほうが王道ですよね本来は。小説に上下があるとは考えませんが、どうなるかわからないぜ!のIFよりも題材としては難しいと思います。
話があちこちに飛んでしまいましたが、今回はこの辺で失礼いたします。
次は(仮)「一揆!一揆!!一揆!!!」「おい馬鹿止めろ」でお会いしましょう。
青山つばささん、リンク許可をいただきありがとうございました。