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『彼』が導かれたのは、月明かりの届かない、薄暗い地下にある建物だった。
唯一の光源である装飾ランプは怪しげな赤色で、ぬらぬらと廊下を濡らしている。
むせかえるような甘い香りは、彼の手を引く娼婦が付けている香水のにおいか、あるいは客を惑わせるための麝香のかおりだろうか。
「さぁ、こっちだよ。早くお入りったら」
振り返り、有無を言わせぬ口調で急がせて来る娼婦。
胸元が大きく開いたドレスを身に纏った彼女に、フードを目深に被った彼は苦笑をこぼした。
「そう急かさなくても、心変わりなどしませんよ」
その言葉に、娼婦は紅を塗った唇をつり上げた。
埃の舞う廊下を足早に渡り切り、真っ暗な部屋の中に彼を招き入れる。
寝台に腰かけた彼から金貨袋を受け取り、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「弾むねぇ」
「それは、情報料込みの値段ですからね」
その言葉に、彼の膝に足をかけようとしていた娼婦は動きを止めた。
「情報料?」
「えぇ。この屋敷の近辺で姿を消した冒険者たち……彼らの行方に関する情報です」
被っていたフードを外し、『彼』は口元を歪めた。
娼婦の前に現れたのは、どこか浮世離れした印象を持つ少年の顔だった。
柔らかそうな亜麻色の髪は、水の中にいるように青みがかったつやを放っている。
ちっとも笑っていない深海色の瞳には、動揺した娼婦の姿が映し出されていた。
「貴女ならご存知ですよね、この辺りで頻発している【追いはぎ殺人事件】。低級娼婦街の水路に、装備をはぎ取られた冒険者の死体が投げ捨てられているというものです。俺は、その事件について調べているうちに、今いるこの宿にたどり着いたんですよ。何か、ご存じではないですか?」
その言葉を聞いた娼婦の行動は、早かった。少年の首を片手で掴み、胸元にしのばせていたナイフで斬り裂こうとする。
しかし、そのナイフが少年の血を吸う事は無かった。
『動くな』
少年の手から湧き上がった水色の燐光が、ナイフを振り上げた娼婦に這い上がる。
ひっ、と悲鳴を上げた娼婦は床に転がり落ちた。
口から小さな白い丸薬を吐き出し、怯えたように頭を抱えて奇声をあげる。
「…… 」
無造作に服の埃を払った少年は、ナイフを手折りながら言った。
「終わったよ、ユウ」
その言葉に、ヒュッという小さな風鳴り音が応えた。
次の瞬間、誰もいなかったはずの部屋の隅から、小柄な少女が姿を現す。
竜胆色のマフラーを揺らしながら寝台に歩み寄ってきた少女は、床で身悶える娼婦を一瞥して言った。
「このひと、口の中に媚薬を含ませてた。これを使って、冒険者の動き、鈍らせて、殺してた。そうでしょ、らてぃ。」
「うん、そのようだね」
少女がテキパキと娼婦を縛り終えると、寝台に腰掛けていた少年は、犬のような伸びをした。
「追いはぎ殺人容疑者は現行犯で捕まえたし、今回の任務は一旦落着だね、たぶん。後はこの人を本部に引き渡せば、久しぶりの休暇になると思うよ……やったね」
溜まっていた宿題がようやく片付いた、というような楽しげな笑顔を浮かべる少年。
その笑顔を向けられた当人は、ムスッと頬を膨らませた。
「どうしたんだい、ユウ。ふくれっ面して」
「……。」
「えと……嬉しくないの?」
戸惑い、微かに首をかしげる少年。
少女はそんな彼に歩み寄り、肩や腕をポカポカと殴り始めた。
「あ痛っ⁈ 殴るなって、急に何するんだよ」
「らてぃ、女の人とイチャイチャするの、良くない。不潔っ。」
「ふ、不潔って……俺を餌にして引っ張り出すって提案をしたのはお前だろ? 作戦通りの事をやったし、別にイチャついてないし、俺が蹴られる要素は無いんじゃ」
「その気になれば、すぐ術式を発動できたでしょ。あんなギリギリまで手を出さないなんて、良くない。不潔っ。」
リスのように頬を膨らませる少女に、少年は困ったような声で言った。
「現行犯で捕まえないと、尋問で粘られるかもしれないじゃないか。相手はムキマッチョの冒険者を屠りまくった頭脳犯なんだ、こっちだってヒヤヒヤしっ放しだったよ」
「そうは見えなかった。どーせ、内心ではニヤニヤしてたんでしょ。」
「いやいやいや。若い女の人ならともかく、殺人鬼って分かってるおばはんに言い寄られてニヤニヤできる男って、そういない気がするけど」
「じゃ、若いオンナなら良かったわけ。」
「そうだねー、あと十歳若かったら違ったかもって冗談だよっ⁈」
そんな会話を織り交ぜながら、その場に似つかわしくない、無邪気なやり取りが繰り広げられる。
そんな中、ふたりの足元に転がっていた娼婦が甲高い悲鳴を上げた。錯乱したような顔で、虚空に向かってうわ言をつぶやき続けている。
「……少し、派手にやり過ぎたみたいだな」
顔をしかめると、少年は娼婦に手を伸ばした。
その手から水色の燐光がこぼれ落ち、娼婦のうめき声を小さいものにしていく。
「取りあえず、この人は監獄区域にぶち込んじゃおうか。あとの世話は、そっちの担当がしてくれるだろうしね。それでいい、らてぃ?」
娼婦を縛っていた少女は、相棒を振り返って目を細めた。青い目の相棒はユウに応えず、ベッドに腰かけたまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「……らてぃ?」
「あぁ、ごめんね。ちょっと考え事しててさ」
「考え事?」
「大したことじゃないから、気にしなくていいよ……報告は明日でいいよな。今日はもう疲れたし」
ぐーっと伸びをする相棒を見て、ユウは嘆息した。この相棒が言葉をはぐらかす時は、何があっても話してくれない。その事を知っていたからだ。
「はやく、地上に出る。ここは、空気がよどんでる。良くない。」
「そうだね……今夜は新月か」
音もなく立ち上がり、少年はフードを被り直した。
真っ暗な窓の景色を一瞥し、深く嘆息する。
「あーあ。仕事上がりの夜くらい、月明かりに当たってのんびりしたかったなぁ……」