【旅の少女】
誰かが額に触れた感覚で、ハルは目を覚ました。
「あ、目が覚めたんだ」
そんな声と同時に、乗せられていた手がヒョイっと退けられた。火照っていた額を、涼しげな風が撫で去っていく。
「熱は引いたみたい。命拾いしたね」
とがった耳を揺らしながらハルの事を覗き込んでいるのは、赤髪の少女だった。
顔の線が鋭角的で、子鹿を彷彿させるような、大きな琥珀色の瞳がよく目立つ。
「……。お前は、昨日の」
「チェリンよ。チェリン・グエナエル。名前が必要な時は、そう名乗るようにしてるの」
チェリンと名乗った少女は、耳をピコピコと動かしながら笑った。快活な性格の持ち主らしい。ひどく嬉しそうに、顔を綻ばせている。
「水飲むよね。声がかすれてるよ」
そう言ってチェリンが差し出した革袋を、ハルは受け取った。においを嗅いでから、慎重に口に含む。甘くて美味しい、ただの水だった。
「……。礼を言う」
「どういたしまして。ねぇ、キミ、どこから来たの?あんまり見ない肌の色よね。髪の色も」
チェリンは、ハルを見ながら首を傾げた。
自分でも忌避してやまないオリーブ色の肌と黒い髪に、少女が視線を向けているのが分かる。
「そう珍しくも無いだろう。僕は、流浪民だからな」
「流浪……あぁ、アーク民族ってやつね。曲芸とか歌なんかを披露しながら、帝国の辺境を巡ってるって聞いたことがあるわ」
チェリンは、丸い菓子缶を振りながら訊ねた。
「じゃあ、一座でいたところを襲われたの?」
「……。あぁ、そんな所だ」
「ふーん。大変だったのね」
どうでも良さそうに言葉を返しつつ、チェリンは小さな丸薬のようなものを差し出してきた。
においからして、薬湯をしみ込ませた砂糖玉らしい。
「これは 」
「これ、キミにあげる。回復薬を染み込ませてあるから、元気になるはずだよ」
「大丈夫だ 」
首を振ると、ハルは姿勢を正した。自身をくるんでいた外套を横に置き、一礼する。
「名乗っていなかったな。僕の名は、エリハルと言う。先日は、危ない所を助けて貰っ 」
「昨日も聞いたよ、それ」
肩をすくめると、チェリンは砂糖玉を突き出した。
「細かいことは良いの。せっかく助けたのに、ここで死なれちゃ困るのよ。ほら、食べて」
朗らかな口調に圧されたハルは、反射的に手を差し出した。
手の上に転がされた砂糖玉を口に含むと、染み渡るような甘さがボロリと広がる。身体が求めていたのだろう、とても美味しかった。無言で砂糖玉を咀嚼するハルを見ると、少女は微笑んだ。
「エリハルかぁ……キミ、変わった名前をしてるのね。呼びにくいから、ハルって呼んでもいい?」
「あぁ、構わない」
「そう。じゃあハル、キミには、元いた一座に戻る当てはあるの?」
ハルは迷わず首を振った。
「流浪民……。特に芸人一座というものは、一度はぐれた仲間の事は死んだ者とみなす。僕に帰る当てというものは無い」
「じゃあ、これからどうする気なの 」
ハルは肩をすくめた。
「適当な一座に遭遇すればそれに加わるが、それまでは適当な職で食い繋ぐ事になるだろうな」
「そっか……」
チェリンは息をつくと、唐突に訊ねてきた。
「ねぇキミ、あたしと一緒にラフェンタに行かない?」
「ラフェンタというと、あの、帝国の最南端にある公国都市か?」
チェリンは頷いた。
「えぇ。あたしはね、そこに行くために旅をしてるの」
ハルは、目を瞬かせた。
目の前の少女の年齢は、自分とそう変わらないように見える。ちょうど年頃だし、嫁ぎ先などいくらでも見つかりそうな容姿の持ち主でもあった。そんな彼女が、わざわざ山道を越えてまで旅をしている理由を、図りかねたのだ。
「……。」
ハルが無言でいると、チェリンは慌てたように手を振った。
「あっ、別に無理にとは言わないよ? 提案してみただけで、その」
「お前、ひとり旅なのか」
「えっ?」
きょとんとする少女に、ハルは続けた。
「いや……。お前のような少女が単独で旅をしているのは、初めて見るからな。成人はしているのか?」
「してるわよ。もう十五の夏は越えてるわ」
口元を不敵に緩めると、少女は言った。
「とりあえずさ、街に降りるまでは一緒に行こうよ。一文無しのままじゃあ、さすがに辛いよね? 服も、雑巾レベルのボロさだし」
「……。」
否定できない。
ハルは、げっそりと肩を落とした。
「取り敢えず、ナイフを貸してくれないか。髪を切りたい」
チェリンは、ハルの背に流れる黒髪を勿体なさそうに見つめた。
「えー、切っちゃうの? せっかく綺麗なのに」
「長いと邪魔だからな。この髪紐も限界だし」
「ふぅん。まぁ、キミの好みの問題だよね」
少女は長靴からナイフを取り出すと、ハルの後ろに回り込んだ。
「おい?」
「自分じゃどうなってるか見えないでしょ、手伝うよ」
他人の持つナイフが首の近くにあるという事実に、慌てて背後を振り返ろうとするハル。
その動きを、少女の一言が制した。
「あんまり動かない方が良いと思う。 キミ直毛だから、事故るとおかっぱ頭になるよね」
「……。」
これでは不用意に動けない。大人しく前を向くと、チェリンはハルに話しかけてきた。
「ところでキミ、自分の現在地を把握してる?」
「……。いや」
長いあいだ荷馬車に押し込められていたから、場所を把握していない。ハルの発言に、チェリンは小さく頷いた。
「ここはチチェリア山脈の麓に広がってる森の中だよ。オフェロス交易宿場って街の、すぐ近くまで来てる」
「オフェロス……帝国の南西に位置する中で、最大規模の交易宿場街だな。遠回りだが安全な行路を使うか、森を抜けていけば半月ほどでラフェンタ公国都市に着く」
チェリンは、ナイフを動かす手を止めた。
「キミ、詳しいんだね」
「旅暮らしだからな。そういう知識は、いやでも覚える」
「なるほど……」
それきり、少女は無言になった。パラパラと落ちてくる髪を眺めていると、不意に。
「あっ 」
ジョリンという不穏な音と共に、大きめのひとふさが膝に舞い落ちて来た。
「……。おい、お前いま、事故っただろ」
事態を確認しようと伸ばした手を、少女は大慌てではたき落とした。
「なんとかする。なんとか挽回してみせるから、前向いててっ!」
少女の制止を振り切って頭を触ったハルは、自身の現状を理解した。
戦闘もかくやの気迫でナイフを構える少女から頭をかばうと、ガバッと振り返る。
「やめろ、これ以上事態を悪化させてくれるな。後は自分でやるから、鏡を貸してくれっ!」
何とかナイフを奪い取ると、自身の髪に刃を当てる。
小慣れた動きで形を整えていくハルを見て、少女は不満げな表情をしていたが、ハルは敢えて無視を貫き通した。