【百華の池】
漆黒の髪が翻り、逆手に持った得物で迫りくる魔物の指先を切断した。
『キュアッ⁈』
太い尾を揺らした魔物が怯んだ次の瞬間、強烈な回転蹴りが続けて炸裂する。
魔物を茂みの向こうまで吹っ飛ばすと、黒髪の少年は涼しい顔で石畳に着地した。
「追い払ったぞ。これで良いのか」
慌てて逃げ去っていく魔物を確認すると、ハルは振り返った。
上衣の利き手側を片脱ぎにして、胴着の上から胸当てを付けただけの、ひどく身軽な格好をしている。
『下手な金属鎧、下手な高級武器よりずっと頑丈だ』と太鼓判を押された装備一式をあらかじめ所持していたチェリンと違い、一から装備を作らなければならなかったので、防具の完成までは安価な市販品で間に合わせる事になったのだ。
「キミねえ、あたしにも獲物を残しておいてよ。ひとりで全部倒しちゃうんだから」
ため息交じりで話しかけると、ハルは器用に短剣を回転させながら応えた。
「短剣の方が早く動けるのは当然だろう。本来なら、短剣で牽制した相手を長柄武器で仕留めるものなんだろうが……」
落ちてきた短剣の刃を指先だけで掴み、肩をすくめる。
「こいつは、短剣にしては威力がありすぎるらしい」
淡い水色の刀身を持つ、流麗な短剣。
ラティスから借りているその装備をベルトに戻すと、ハルは道を塞ぐ木の根を悠々と飛び越えた。
南夢幻迷宮は、道だった部分に丁寧な石畳が敷いてある。
敷石が樹根に砕かれている場合はあるが、正しい地図に沿って歩けば迷うことはないし、温度も快適だ。
ラフェンタが四方いちばんの冒険者を有している理由は、この辺りにあるのだろう。
遺跡と絡み合う樹々が美しいが、どこかもの寂しくも感じられる光景を眺めながら歩いていると、ハルが唐突に言った。
「ところで、どうだったんだ?」
「え?」
「昨日の話だ。ユウと遊びに行ったんだろう。楽しめたか」
「あぁ、そういうこと。いろいろあったけど、楽しかったよ」
ハルが、僅かに眉根を寄せた。
「いろいろ? 何かあったのか」
「ううん、別に大したことじゃないの。喧嘩に巻き込まれたとかじゃなくて、ただのナンパだよ」
「ナンパ?」
「そうだよ。わたしが一緒って気付いたら、すぐ逃げてったけど。」
頭上から、楽しげな声が降ってきた。
崩れかけた遺跡の屋根を歩いていたユウが、会話に参加してきたのだ。
「冒険者の女をナンパするなんて、良い度胸。あと三秒遅かったら、チェリン自ら吹っ飛ばしてた。でしょ?」
「あはは、そうかもしれない。ユウの睨みが効いたみたいだから、必要なかったけど」
苦笑を返すと、隣を歩いていたハルが渋面を作った。
「冒険者になるような女は皆、やたらと喧嘩っ早いようだな。それにしても、『触ったら殺す』みたいな雰囲気を前面に出しているお前をナンパしようとするとは、もの好きな連中だ」
「あら。チェリンは、すごく美人だし、デキる女だよ。あなたみたいなお子様には、チェリンの魅力、分からないのかもしれないけど?」
チェリンと間に割り込むようにして、屋根から飛び降りて来るユウ。
『お子様』扱いされたハルは、不機嫌そうに彼女を見下ろした。
「会話に割り込んでくるな。僕は、こいつに言ったんだ」
「なぁに、嫉妬なの? あなた、やっぱり、子供っぽい。」
「はっ、この場の誰よりも小さい奴に言われるとは心外だな」
ぴきっ、と。
ユウの額から小さな音がした。
「身長は関係無い。わたし、あなたより年上だし。」
わざと威圧的な声を出すユウに、ハルははんっと嘲笑って応えた。
「年上の癖に、年下と同等に張り合ってる時点でガキだろう」
「はぁ? もう一度、言ってみなさい。この、エセ女の童。」
びきっ、と。
今度はハルの額から確かな音がした。
「あぁ。そっちがその気なら、何度でも言ってやるね。この精神年齢幼児期のドチビ女」
「チビなの、あなたも同じでしょ。知ってるよ。厚底でごまかしてるけど、実は、チェリンと1セルしか身長差が無いでしょ。」
ハルの歩みが止まった。この一言は効いたらしい。
「……」「……。」
互いの額が接するほどに近付いたふたりが、チェリンの真ん前でガンを飛ばし始めた。
道中でハルが見せた頼もしさ、迷宮でユウが見せた怜悧さなどは、かけらも見出せない。
どう見たって、ガキの喧嘩だ。
「ちょ、ちょっと二人とも……」
ふたりとも、思ったより子供っぽいなぁなどと考えながらふたりを抑えようとするが、チェリンの声など聞こえていないようだった。
毒舌飛び交う大口論を展開してしまったふたりを前に立ち尽くしていると、事態に気付いたラティスが地図を畳みながら近寄ってきた。
「こらこら、喧嘩しないの」
やんわりと声をかけるも、白熱したふたりは口論に熱中している。
我を忘れているのか、罵声がそれぞれの母国語に切り替わってしまっているようだ。
お互いに『何を言っているのか分からない。
共通語もまともに話せないなんて馬鹿じゃないのか』みたいな事をひたすら言い合っている。
……どんぐりの背比べだ。
「これ、聞いてると思うかい?」
冷静に訊ねられたチェリンは、即座に首を振った。
「聞いてないと思います」
「だよね。チェリン、ちょっとこれを持っていてくれるかい」
言いながら、ラティスはチェリンの手に地図を押し付けてきた。
ごく自然に口論するふたりの頭に手を伸ばし──
「止めようねー?」
──ガッ、と。ふたりの頭を鷲掴みにした。
「喧嘩は良くないよね。それに、ここは迷宮だから、あんまり騒いでると怖ーい魔物も呼んじゃうかもしれないなぁ。どうだい、これでもまだ、喧嘩は良くないモノだと思えないのかい?」
絶対零度の笑みだ。
喧嘩で発せられていたふたりの熱が、急激に凍結した。
「いや、魔物よりも。」「お前の笑顔の方が怖い……」
「あはは、君たちの気のせいじゃないかな?」
頭部を解放されたハルとユウは、低い姿勢のまま顔を見合わせた。
「絶対に気のせいじゃないな」「同感。」
姿勢を戻したハルは、そそくさと元の位置に移動した。
ラティスの視線を避けるようにチェリンの影に移るあたりが、叱られた子犬そっくりだ。微妙にひきつった顔をしている少年を見て、チェリンは頬を緩ませた。
「……。何だよ」
「ううん?厚底長靴の威力って凄いんだなぁ、って思っただけよ」
「……」
何とも言えない顔をするハルにニコリと笑いかけると、チェリンは眼前に伸びていた低木の枝を押し退けた。
倒れた石柱の破片を避け、樹々の途切れた場所に出た、次の瞬間。
「わ……っ?! 」
唐突に開けた視界に、目を奪われるような光景が飛び込んできた。
百華の池に行くまでには、美しいが足場の悪い湿地帯を通らなければならない。事前にそういう話は聞いていたが、実際に目にすると壮観だった。
綿毛のような白い花を咲かせた草の足元を濡らす清水は、澄んだ浅葱色。天を突く枝葉はほどよく陽を遮り、涼しげな風が頬を撫でていく。確かに美しい場所だ。しかし。
「足場が悪いな……」
試すように足を踏み出したハルが、顔をしかめた。
水気を帯びた地面に、くたびれた長靴が深く沈み込んでいる。一番浅い岸辺でこれなのだ。奥まで進んだときに、どこまで沈むのか分かったものじゃない。
「これ、どうやって渡るんですか?」
「リシュナの跡を辿ると確実だよ」
ラティスは、先頭をぴょんぴょんと楽しげに跳ねている黒狼を示した。
「あの子の歩いてる場所を見て、何か気付くことはないかい」
見てごらん、と犬の足跡を指差され、チェリンは目を瞬かせた。
黒狼に踏まれて倒れた草が、ゆっくりと身を起こし始めているのだ。
「同じ草の上だけを、歩いてる……?」
「ご明察」
ラティスは嬉しそうに頷いた。
「あの草はやたらと腰が強くてね。根も深く張っているから、泥に沈む事は少ないんだ。覚えておいて損はないよ」
「覚えておきます」
頷き、濃緑色の草めがけて跳躍する。
すると、根の軋む音とともに、濃緑の草はチェリンの身体を勢い良く押し返した。
「隣の草!そのまま跳べ!」
背後から声をかけられ、慌てて着地。
直後、チェリンの身体は再び空中に放り出された。
「わ、わっ⁈」
「よし、そのままリシュナの方へ!」
どんどん遠ざかるラティスの声を聞きながら、反射に任せて空中を跳ねて行ったチェリンは、最後に。
「へぶゅっ!」
黒狼がきっちりお座りしている硬い草地の上に、見事に投げ出された。
「いっ痛ぁ……」
顔面から地面に突っ込んだチェリンが顔を押さえていると、黒狼がペロリとチェリンの頬を舐めた。
「ありがと、リシュナ」
やたらと長く太い尾を盛大に振り回す黒狼の鼻面を押しのけると、チェリンは立ち上がった。
「派手に突っ込んだね。」
ガサッと梢が音を立て、チェリンの目の前に竜胆色マフラーを巻いた少女が降り立った。
笑いをこらえているのか、口端が微かにつり上がっている。
「あの草、あんなに跳ねるなら教えてくれたって良いじゃない」
「ごめん、ごめん。」
ユウは、小さく吹き出した。
「あの『ぴょんぴょん草』は、予備知識なしで体験したほうが、楽しいと思って。」
「あたしっていうか、あたしの顔面が楽しいことになっちゃったよ」
「だから、ごめんてば。」
「むぅ……」
けらけらと笑う少女を眼前に、思わず頬を膨らませる。
そんなチェリンの様子を見て、ユウは楽しげに向こう岸を指差した。
「ほら、ハルも渡るよ。」
ラティスに話しかけ、頷く黒髪の少年。
彼は淡々と湿地を見回すと、一足飛びに離れた場所の『ぴょんぴょん草』に着地した。
「えっ」「すごっ。」
目をまん丸くする少女たちの眼前で、二つ目の『ぴょんぴょん草』をバネに跳躍。
勢いよく空中に躍り出たハルは、湿地に張り出た大木の枝を掴むと。
「……。よし」
何食わぬ顔で、湿地帯を突破した。
「うーん。あいかわらず、ぶっ飛んだ運動神経。」
唸るユウに、ハルは平然と答えた。
「軽業は、わりと効率よく稼げるからな。魔物相手の自衛手段としても通用するし、最初に叩き込まれる」
旅芸人としての技術だ、と続けた少年の言葉に、チェリンは首をかしげた。
「あれ? 力自慢と軽業って、普通相容れないモノじゃないのかなぁ……」
「知らん」
肩をすくめるハルを見て、ユウが思い付いたように顔を上げた。
「ハルって、あれやれるの?」
ハルは眉をひそめた。
「あれ?」
「仮面して、円月輪持って、演武するやつ。お祭りの時に、アークの芸人一座がやってるの、見たことある。」
ユウの説明を聞くと、ハルはあぁ、と納得したように頷いた。
「天翔の舞の事か」
「あまかけ?」
「特別な祝い事の時に踊る神楽だ」
短く応えた少年に、ユウが期待の眼差しを向けた。
「できるの?」
「やらないからな、絶対」
「じゃあ、できるんだ。」
ハルはがんとして首を振った。
「出来るが、やらない」「けち。」
「何を言われたって、やらない物はやらないさ」
「石頭。脳筋。」
吐き捨てるような少女の言葉に、緑目の少年は、すっと目を細めた。
「聞き捨てならないな」
竜胆色マフラーの少女に顔を近付け、冷然と睨みつけるハル。
「なら、どうするっていうの。」
そんなハルを挑発するように、唇を歪めるユウ。
「「…………」」
両者の間で、激しい火花がバチバチと弾け始めた。
『またか』と、チェリンが額を押さえていると、追い付いてきたラティスが、ふたりの間に割って入った。
「目的地はすぐそこなんだ、騒いでちゃ危ないよ。ユウ、この先はどうなってる?」
「……ん。」
すねたように唇を尖らせたまま、ユウは空中を舞っていた式神を指に止まらせた。
「静か。だけど、たまごは沢山あるみたい。」
「卵って、魔物の?」
訊ねたチェリンに、ユウは頷いた。
「うん。でっかいカエルのたまご。」
「カエ……」
動きを止めるチェリンの傍らで、ラティスはため息をついた。
「あいつらの皮膚には麻痺毒があるんだ。触っただけで効果が出るし、やわな布防具も焼いてしまう。厄介な相手だよ」
ラティスの言葉に、ユウが頷いた。
「直接の接触はきけん。星沁を付与した攻撃なら、毒液を弾ける。攻撃するときは、星沁付与。わかった?」
淡々と説明する先輩冒険者に対して、チェリンとハルは神妙に頷いた。
「承知した」「分かったわ」
ユウは口元を緩めると、マフラーを翻して歩き出した。
「行こう。百華の池は、すぐそこだよ。」




