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夢と現の境界迷宮Ⅳ【機巧の子守歌】  作者: Thera
Ep.4【ヴィレッジ商会】
21/23

【裏庭の薬草園】

 

 武器の採寸が、こんなに疲れるものだとは思っていなかった。


「……。」


 疲れた。

 寝たい。布団に帰りたい……。

 そんな負の言葉を脳内で持て余しながら宿に帰り着いたハルは、採寸のあいだ髪を纏めていた紐を無造作に引っ張り解いた。


「さっきは、お疲れ。」


 ぐったりしているハルを見て、ユウは微笑んだ。

 ラティスは黒狼の熱烈な出迎えに対応しており、チェリンはハルの後に次いで無言で部屋に入って来ている。


「あなた達、楽しそうに戦う。見てるこっちも、楽しかった。ところでハル。あなた、すごい力持ちなんだね。」


「生まれつきだ」


 ユウは訝しげな顔をした。


「生まれつき? あれが?」


「あぁ。それ以上でも、それ以下でもない」


 『これ以上その話題を口にするな』とばかりに肩をすくめると、ユウは引き下がった。

 ハルの言葉を疑ってはいるのかもしれないが、それを言及するつもりは無いらしい。


「ふぅん……。まぁ、良いや。これ、見てくれる?」


 ユウは衣の懐に手を入れ、赤い蝋印が押されている羊皮紙を取り出した。

 蝋印に描かれているのは『アンブロシアの花』。冒険者の組合本部が用いている紋章だ。


「これは……。依頼書か?」


「うん。冒険者組合(マスターギルド)、いろんな人からの依頼を取りまとめて、冒険者に紹介する。これも、そのひとつ。依頼内容は、『釣鐘花の採集』」


「つりがねばな?」


【釣鐘花】の存在を知らないのだろう。

 首を傾げるチェリンを振り返り、ハルは簡潔に応えた。


「水辺に生える薬草の一種だ。大陸の南方に位置する水辺なら、どこにでも生える」


「ご名答。でもね、迷宮に生えるものは、よそで採れるものより、ずっと大きい。この街では、低級回復薬の原料として、重宝されてる。今回の依頼はね、この釣鐘花を、一定量採集してきて欲しいってモノなの。」


 言いながら、ユウは羊皮紙の地図を広げた。

 何度も濡れたり汚れたりしたのだろう、使用感のあるそれは、ハル達の持っている物よりも精密に描かれた、南迷宮の地図だった。


「日帰りで行ける採集地点、この【百華の池】がある。ここ、湿地を通るから、不人気。でも、知るひとぞ知る、穴場なの。明日は、ここに向かう。分かった?」


「えぇ」


 チェリンは淡々と頷いた。

 それ以上の会話が続くことはなく、互いの顔を見つめ合ったまま沈黙する。



「「…………。」」



 ──気まずい。

 先ほどまで、あんなにキラキラと目を輝かせていた少女は、頑なな態度を取り戻しつつあるようだった。

 もしかしたら、好奇心に負けてはしゃいだ事を、後悔しているのかもしれない。


「……部屋に閉じこもっていたら、退屈だろう?」


 微妙な沈黙を破るように、ラティスが口を開いた。


「ユウ、チェリン。日が暮れるまでには時間があるから、どこかに遊びに行っておいで。明日の探索計画は俺が立てておくから、心配は要らないよ」


「ほんと? やった!」


 ユウは、ぱぁっと顔を輝かせた。


「チェリン、遊び行こ。何で、ぽかーんてしてるの。」


 ユウに手を取られたチェリンは、困ったような表情になった。


「えっと……良いんですか? あたしに、自由な外出を許しても」


「へーき。全ての責任は、らてぃが取ってくれるよ。ね、らてぃ。」


「遊びに行くだけなのに、俺が報告書書かなきゃいけないような事件をやらかす気なのかい、ユウ? そんな事したら、反省文書かせるからね」


「ぜーっったい、書かない。普通に逃げる。逃げ足には、自信あるもん。」


 べっと舌を出すと、ユウは歌い出しそうなほど上機嫌な声で言った。


「そうだ。チェリン、近くに可愛いお店があるの。あなたの服、買いに行こ。」


「え、でも」


「お金の心配なら、だいじょうぶ。初期装備ってことで、経費使うから。」


()いのそれで⁈」


()()い。じゃ、行ってきまーす。」


「はい、いってらっしゃい」


「ちょっ、ちょっと待っ……⁈」


 慌てるチェリンの声をぶち切って、玄関の扉が閉ざされた。

 急に静かになった部屋に、自分のため息が大きく響く。


「……。元気だな、あいつら」


「君も、勝手に遊びに行って来ていいんだよ。さっきの女子ふたりについて行っても良いけど、さすがにキツイよね。それは」


 ラティスの言葉に、ハルは眉をひそめた。


「女の服飾買いに同行していて、楽しい男とかいるのか?」


「眺めて待ってれば良いんだろうけど……そもそも、女の子向けのお店に入るのが恥ずかしいよね。レースだらけだし、何かキラキラしてるし」


「どこも似たような物らしいな、そういうのは」


 言いながら、ハルは小さなあくびをした。

 ここの所ずっと、眠りが浅かったせいだろう。日中でも眠いし、眠っても休んだ気が全然起きてこない。


「眠そうだね。あんまり眠れてないのかな」


「土地を変えてしばらくは、あまり眠れない事が多い……今回は、いろいろと落ち着かない事もあったしな」


「そっか。じゃあ、君には昼寝に最適な場所を教えてあげるよ。俺についておいで」


 居間に置いてあった本の束を抱え、ラティスは歩き出した。

 その後を、黒狼がテチテチと音を立てながら付いていく。


 予定がある訳でも無いし、わざわざ拒否する必要もないだろう。ハルは彼について部屋を出て、開放的な造りをした廊下に出た。

 ラティスは慣れた動きで宿の裏手にまわり、自家栽培の果樹園を横切る。

 木漏れ日を受けながら進んでいたハルは、木の枝ごしに映り込んだ景色に、目を見開いた。


「……。これは」


 この街特有の、段差のある地形を活かした設計のおかげなのだろう。

 石垣が築かれた果樹園のふちからは、公設市場と港が一望できた。空気は濃厚だが適度に涼しく、空も海も、目が痛くなるほどの濃い青色をしている。


「風通しが良いところだな」


「うん。木陰にいれば直射日光を浴びずに済むから、快適に昼寝できるよ。でも、今はまだ肌寒いからね。今回用があるのはこっち」


 ラティスは、すっと草地の隅を指差した。

 色白の指が示す先には、ちっぽけな建物が佇んでいる。石造りやレンガ造りの家が多いラフェンタでは珍しい、丸太の小屋だった。

 横に井戸と花壇があり、小ぶりな花が咲き乱れている。家の脇に突き出すように組まれた支柱には、ツル性の植物がぶら下がっており、涼しげな潮風に揺られていた。


「何だ、この小屋?」


「元はただの農具入れだったんだけどね。俺とかシオンが趣味でいじりだしたら、興が乗ってきちゃって……あ、シオンっていうのは、この宿に併設された施薬院に務めてる治療師だよ。また紹介するからね。それと、靴はそこで脱いで入って」


 サラッと指摘されたハルは、ぎょっと目を見開いた。


「小屋に入るのに、靴を脱ぐのか?」


「うん。ユウの国の習慣に合わせているんだ。最初は俺も抵抗があったけど、慣れると快適だよ」


 自分の靴を棚に乗せると、ラティスは促すようにハルを見やった。


「……。」


 玄関に突っ立っていても、キリがない。

 少しためらった後、ハルは長靴を足から引き抜いた。ひしゃげた革のかたまりになったそれを棚に押し込むと、ラティスは満足げに微笑んだ。


「適当に座っててくれるかい。いま飲み物をいれるから」


「……。あぁ」


 足の短いテーブルの近くに座って、ハルは周囲を見回した。


 狭いが、清潔な部屋だ。

 大型の家具は、ハルの近くにある低テーブルと、普通の高さのテーブル、それに木製の箪笥のみ。

 ラティスが使っているテーブルの上には、移動式コンロやガラス瓶、蛇口を取り付けた水瓶などが並んでいる。どうやら、台所代わりとして使っているようだ。


「何を作っているんだ?」


薬草蜜煮茶(コーディアル)だよ」


 ラティスは手を止めずに答えた。


「薬草のシロップをお湯割りにしているんだ。すぐできるから、待っててね」


 水瓶から手鍋に移した水を火にかけ、沸騰させる間に、ガラス瓶の中身を磁器の器に少しずつ注いでいく。手際よく動く手をぼんやり眺めていると、どこかで鳥の鳴く声が聴こえた。


「はい、どうぞ。熱いから気を付けて」


「礼を言う 」


 差し出された器を受け取って、ハルは慎重に中身を口に含んだ。

 様々な薬草が混ざった、独特の味。その中に、懐かしい風味が紛れているのを感じて、ハルはつぶやいた。


「この味……」


「音楽亭の女将さんに教わった味付けを使ってみたんだ。アーク族の人は、香辛料を使った料理が好きだって聞いてね。君の口に合えば良いんだけど」


「懐かしい味だ。うまい」


 ハルの反応を見て、ラティスがほっとしたような表情になった。


「そっか。なら、良かったよ」


 ハルの向かい側に腰を下ろして、ラティスは自分の蜜煮茶を飲み始めた。

 その近くには黒狼が丸くなり、前足に頭を乗せてくつろいでいる。のんびりとしている黒狼の様子を眺めながら、ハルは蜜煮茶を少しずつ口に含んだ。


 葉擦れの音に紛れて、また鳥が鳴いている。

 小屋の中には、建材になっている木や、独特な薬草のにおいが充満していたが、嫌なにおいではなかった。


「……大丈夫かい」


「え?」


 ぼーっとしていたハルは、唐突な質問に目を瞬かせた。

 目の前に座る少年は、静かにハルの返答を待っている。


「大丈夫って、何がだ」


「いろいろだよ。君は、年齢の割に落ち着いた子みたいだけど……これだけたくさんの事が一度に起きたんだ。混乱しているんじゃないかと思ってね」


「あぁ、そういう事か」


 湯呑みを両手で持ちながら、ハルはため息をついた。


「問題はない。混乱はしていたが、調子を狂わせてくるような人間が唐突に現れたから、逆に冷静になれた」


「チェリンの事だね」


 何気なく応じてから、ラティスは言葉を連ねてきた。


「君にとってあの子は、調子を狂わせてくるような存在なのかい? ハタから見ている分には、落ち着いて接しているように見えるけれど」


「……」


 ハルは押し黙った。

 湯呑みの中に浮かんでいる、乾いた薬草の花をしばらく見つめて、ぽつりと呟く。


「オフェロスの山中で、あいつは、何の躊躇もなく奴隷狩人を殺した」


「……」


「あの時の僕は、ひどく怯えていたから、あいつの事も怖いと思ったし、拒絶しようとした。だが、あいつは、強引に僕の事を助けた。その対応には調子が狂ったが、そのお陰で、自分の状況をある程度冷静に考えられたと思う」


「いまは、どうなんだい」


「どうって、何がだ」


「君から見て、彼女はどうなのかなって事だよ。 君は、俺らよりもあの子と立場が近いからね……君の意見を聞きたいんだ」


「それは……」


 少し考えてから、ハルは言った。


「高い誇りに見合うだけの強さを持っているが、同時に、ひどく臆病で不安定にも見える。僕は……僕には、故郷と呼べるような場所は無いし、あいにくと、一族への帰属意識のような物も持ち合わせてはいない。

 だから、『兄に会いたい』とか『母に託されたものを知りたい』などという言葉を聞いても、理解に苦しむ他ない。自分の為に生きる事はしないのか、と聞きたくなる」


「じゃあ、それを聞かないのはどうしてなんだい」


「あいつが、家族の為に行動を起こす事で、精神の均衡を保っているからだ。それに、僕とあいつは根本の考え方が違う。価値観も真逆に近い。だから……余程の事が無い限り、意見を衝突させる必要は無いと思っている 」


 流れに任せるまま吐き出した言葉が、のどかな空間の音を吸い取った。

 正直な感情を口にしたことで、何かモヤモヤしたものが抜け落ちたような感じがする。少しぬるくなった蜜煮茶を持ったまま黙っていると、ラティスの目が緩やかに細まった。


「そっか。君は、優しい子なんだね」


 ラティスは、いつも以上に穏やかな笑顔をハルに向けてきた。

 最初はぼんやりとその笑顔を眺めていたものの、とある可能性に気付いたハルは、ハッと姿勢を正した。


「おい」「ん?」


「まさかこの茶、自白剤のようなモノを入れてはいないだろうな?」


 言いながら、湯呑みを覗き込んだりにおいを嗅いだりするハルを見て、ラティスは面白がるような表情になった。


「その飲み物に使ってる薬草は、リラックス効果があるヤツだけどね。薬では無いよ?」


「……」


 頬を軽く膨らませたハルに、ラティスは「本当だってば」と苦笑いした。


「君ばかりに喋らせて悪かったね。じゃあ、俺もぶっちゃけ話って奴を君にしてみようかな。ホラ、今ごろユウ達は『女子トーク』をしてる訳だし、俺らも『野郎談義』で対抗するってコトで」


「わざわざ銘打つ必要があるのか」


「うん。だって、その方が面白いだろう?」


 ラティスは、空になった湯呑みを卓上に置いた。


「この前の探索で、何となく分かったとは思うんだけど、迷宮には、旅とは違う危険があるんだ。わざわざ魔物が多い場所に行くわけだし、やたらと凝った罠も仕掛けてある。

 盗賊は殆どいないけれど、ある程度の実力が付くと、ギルド間のしがらみからの(いさか)いなんてモノも出てくるから厄介だ……でもね」


 表情をふっと緩めて、ラティスは言葉を継いだ。


「不思議なことに、一度迷宮から出てしまうと、辛かったはずの出来事が、笑い話に変わってしまうんだ。パン食べながら歩いてたら、曲がり角で魔物とぶつかったとか。変なスイッチ踏んだら大岩が転がってきて、慌てて全力逃走したとか。その時は必死だったはずなんだけど……後になってみると、妙に面白くてね」


「……。お前、今までよく死ななかったな」


 うむ、とラティスは腕組みをした。


「そうだね、わりと奇跡の域に達してると思う。頭から人喰い花に喰われた事もあるのに、よく死ななかったよ。まぁ、あの時は川向こう(・・・・)に意識が軽く吹っ飛びかけたんだけどね。お金を持っていなかったから、川の渡し守に『まだ死ぬな』って、送り返されちゃったみたいなんだ」


「お前な……」


 呆れた表情を隠さずにいると、ラティスはハルのその反応すら面白がるように言った。


「でも、こういうのってワクワクしないかい?」


「…………」


 否定できない。

 しかめ面のまま頷くと、ラティスは微笑んだ。

 そして、ふっと細めていた目を開く。

 深い蒼色の瞳に射抜かれて、ハルの動きが自然と止まった。


「……自分で言うのも何だけど、俺もユウも、南の冒険者の中では強い方だ。冒険者相手に戦闘したことは何度もあるけど、今のところは全勝している。でも、迷宮が相手の場合はそうもいかない事が多いんだよ。さっき言ったみたいに怪我もするし、逃げ帰る事だって何度もしてる」


 ラティスは低い声で続けた。


「相手は、こことは違う規則を持つ世界なんだよ。危険を最低限に減らせるように、万全を期して挑む必要は常にある……でも、俺たちが探索を楽しんじゃいけないなんて規則は無いんだ」


 パッと口調を改め、ラティスは明るい調子で言った。


「いろいろ複雑な事情が絡んでいるとはいえ、せっかくこの南迷宮都市(ラフェンタ)に来たんだ。君にも、迷宮探索を楽しんで欲しいな」


「……。まぁ、善処はするとしよう」


「うん、ひとまずはそれで良いよ。新米さんに急に『楽しめ!』なんて言うのも、けっこう酷なことだと思うからね」


「思ってるなら言うなよ」


「言わないと何も始まらないからね。ほら、言うだけなら無料(タダ)だしさ」


 言いながら、ラティスはごそごそと箪笥を漁り始めた。

 布類が詰まった開きから畳んだ毛布を取り出し、ハルに向けて放ってくる。


「はい、君の分の毛布。その辺にあるクッションを枕代わりに使って良いからね」


「……。え?」


「昼寝に最適な場所を教えるって言ったろ? ここ、静かだし寝心地も良いんだ」


「……。冗談だと思ってたぞ」


 毛布を手に唖然としていると、ラティスは真面目な表情を取り繕って言った。


「睡眠の質は戦闘力にも影響する。万全を期して挑まないとね」


 持参した本やコンパス、手帳を広げながら、ラティスは続けた。


「というワケだから、寝てて良いよ。俺は明日の計画を立ててるから」


「……。はぁ」


 曖昧な姿勢のまま停止していると、ラティスの側にいた黒狼が歩み寄ってきた。

 ハルの頬に鼻づらをこすり付けてから、ハルの腿のあたりに背を付けて丸くなる。穏やかに上下する背中を眺めていると、自制していた眠気が全身を緩やかに圧し始めた。


「……。あまりに寝こけているようであれば、起こしてくれ」


「うん。晩ご飯までには起こすよ」


 ラティスの返答に頷き、ハルは黒狼に沿うようにして横になった。

 またさえずり始めた鳥の声と、万年筆が、絶え間なく動く音が淡々と響いている。


「……。」


 その音をぼんやりと聞いているうちに、ハルの意識は、自然と夢の中に沈み込んでいった。



◆◆◆



 これは、いつの記憶なんだろうか。

 安いだけが取り柄の、ちっぽけな貸し部屋の中。

 ボサボサの茶髪を背で束ねた男が、ハルに背を向けた状態で何かを書き連ねている。ベッドの上からその様子を眺めるのに飽きていたハルは、男の大きな背中によじ登りながら言った。


『父さん。さっきから、なにやってんの?』


『仕事さ、仕事』『ふぅん?』


 肩越しに、男の手元に広げられている羊皮紙の群れを覗き込む。

 びっしりとイウロ文字が連ねられているその中に、歯車のような物を運ぶ鷹が描かれた紋様を見つけ、ハルは言った。


『このタカの絵、きれいだね。おれ、これ好きだよ』


『これは、私が考えた意匠なのだよ。お前が気に入ってくれたなら、私も嬉しい』


 そう言って、男は嬉しそうに笑った。

 首にしがみ付くハルの頭を撫でてから、万年筆を動かす作業を再開する。最初に書いていた羊皮紙を使い終わり、次の羊皮紙に進んだとき。そこに現れた絵を見て、ハルは目を瞬かせた。


『ねぇ、こっちの絵はなに? 鳥がいっぱいいるやつ』


『これか? これはな、古い遺跡にあった壁画の写しだ。お前や母さんの、遠い遠い祖先に当たる人が描いた物なんだよ』


 言いながら、男はハルが見やすいように羊皮紙を持ち上げた。

 長い尾を持つ鳥を、地上から見上げる人々の絵だ。悲しむように背を丸める人、その人を慰めるように肩を抱く人もいれば、祈るように手を持ち上げている人もいる。


『ふぅん……。あ、父さん』


 ハルは、鳥の絵のひとつを指差した。

 まだ小さい幼鳥に見えるその鳥の絵には、他の鳥とは異なる部分がある。翼が、片方しか描かれていないのだ。


『この鳥、翼がひとつしかないよ』


『あぁ……。その鳥は、最初から翼が片方しかないんだ』


『なんで? 鳥は、翼がもげると死んじゃうって、母さんが言ってたよ。それに、片方だけじゃ、そもそも空飛べないじゃん』


 ハルの言葉に、男は笑った。


『ははは、そうだな。この絵を描いた人は、きっとうっかりしていたんだろう』


 羊皮紙を机の隅に押しのけて、男は立ち上がった。骨をポキポキと鳴らす男を見上げて、ハルは訊ねる。


『今日の仕事、もうおしまい?』


『あぁ。父さんは勉強のし過ぎで疲れてしまった。どうだいエリ、母さんには内緒で、市場まで甘い物を買いに行こうじゃないか』


 『甘い物を買う』と聞いて、ハルはパッと飛び上がった。


『行く!』


『よし決まりだ。エリ、お前は何が食べたい?』


『おれ、フィクが食べたい。あの、シナモンとはちみつがかかってるヤツ』


『フィク? あぁ、あの棒状のお菓子だね。分かった、買ってあげよう』


『やりぃ!』


 ニカっと笑って、ハルは男の手に抱き付いた。

 ぶら下がるようにして歩いても、男の歩みはビクともしない。ハルと違って色白のその手は大きくて、がっしりとしていた。


 ああ、これは本当に、いつの記憶なんだろう。

 思い出せないまま立ち尽くしていると、景色は薄れ真っ白に、そして黒に染まっていく。



♢♢♢

 


「…………」


 目を覚ますと、日は既に傾きかけた時間だった。

 小さいが、綺麗に整頓された小部屋。亜麻色の髪をした少年が、ハルに背を向けた状態で何かを書き連ねている。


「目が覚めたみたいだね。何か良い夢は見れた?」


「いや、見なかったな……見たとしても、忘れてしまった」


 瞼を擦りながら、エリハルは起き上がった。

 はちみつ色の夕焼けに、鳥が飛んでいるが見える。夕焼けが徐々に紫に移ろい、日が沈み、闇に染まる。ラティスに再度声を掛けられるまで、エリハルはぼんやりと空を眺めつづけていた。


 

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