【裏庭の薬草園】
武器の採寸が、こんなに疲れるものだとは思っていなかった。
「……。」
疲れた。
寝たい。布団に帰りたい……。
そんな負の言葉を脳内で持て余しながら宿に帰り着いたハルは、採寸のあいだ髪を纏めていた紐を無造作に引っ張り解いた。
「さっきは、お疲れ。」
ぐったりしているハルを見て、ユウは微笑んだ。
ラティスは黒狼の熱烈な出迎えに対応しており、チェリンはハルの後に次いで無言で部屋に入って来ている。
「あなた達、楽しそうに戦う。見てるこっちも、楽しかった。ところでハル。あなた、すごい力持ちなんだね。」
「生まれつきだ」
ユウは訝しげな顔をした。
「生まれつき? あれが?」
「あぁ。それ以上でも、それ以下でもない」
『これ以上その話題を口にするな』とばかりに肩をすくめると、ユウは引き下がった。
ハルの言葉を疑ってはいるのかもしれないが、それを言及するつもりは無いらしい。
「ふぅん……。まぁ、良いや。これ、見てくれる?」
ユウは衣の懐に手を入れ、赤い蝋印が押されている羊皮紙を取り出した。
蝋印に描かれているのは『アンブロシアの花』。冒険者の組合本部が用いている紋章だ。
「これは……。依頼書か?」
「うん。冒険者組合、いろんな人からの依頼を取りまとめて、冒険者に紹介する。これも、そのひとつ。依頼内容は、『釣鐘花の採集』」
「つりがねばな?」
【釣鐘花】の存在を知らないのだろう。
首を傾げるチェリンを振り返り、ハルは簡潔に応えた。
「水辺に生える薬草の一種だ。大陸の南方に位置する水辺なら、どこにでも生える」
「ご名答。でもね、迷宮に生えるものは、よそで採れるものより、ずっと大きい。この街では、低級回復薬の原料として、重宝されてる。今回の依頼はね、この釣鐘花を、一定量採集してきて欲しいってモノなの。」
言いながら、ユウは羊皮紙の地図を広げた。
何度も濡れたり汚れたりしたのだろう、使用感のあるそれは、ハル達の持っている物よりも精密に描かれた、南迷宮の地図だった。
「日帰りで行ける採集地点、この【百華の池】がある。ここ、湿地を通るから、不人気。でも、知るひとぞ知る、穴場なの。明日は、ここに向かう。分かった?」
「えぇ」
チェリンは淡々と頷いた。
それ以上の会話が続くことはなく、互いの顔を見つめ合ったまま沈黙する。
「「…………。」」
──気まずい。
先ほどまで、あんなにキラキラと目を輝かせていた少女は、頑なな態度を取り戻しつつあるようだった。
もしかしたら、好奇心に負けてはしゃいだ事を、後悔しているのかもしれない。
「……部屋に閉じこもっていたら、退屈だろう?」
微妙な沈黙を破るように、ラティスが口を開いた。
「ユウ、チェリン。日が暮れるまでには時間があるから、どこかに遊びに行っておいで。明日の探索計画は俺が立てておくから、心配は要らないよ」
「ほんと? やった!」
ユウは、ぱぁっと顔を輝かせた。
「チェリン、遊び行こ。何で、ぽかーんてしてるの。」
ユウに手を取られたチェリンは、困ったような表情になった。
「えっと……良いんですか? あたしに、自由な外出を許しても」
「へーき。全ての責任は、らてぃが取ってくれるよ。ね、らてぃ。」
「遊びに行くだけなのに、俺が報告書書かなきゃいけないような事件をやらかす気なのかい、ユウ? そんな事したら、反省文書かせるからね」
「ぜーっったい、書かない。普通に逃げる。逃げ足には、自信あるもん。」
べっと舌を出すと、ユウは歌い出しそうなほど上機嫌な声で言った。
「そうだ。チェリン、近くに可愛いお店があるの。あなたの服、買いに行こ。」
「え、でも」
「お金の心配なら、だいじょうぶ。初期装備ってことで、経費使うから。」
「良いのそれで⁈」
「良い良い。じゃ、行ってきまーす。」
「はい、いってらっしゃい」
「ちょっ、ちょっと待っ……⁈」
慌てるチェリンの声をぶち切って、玄関の扉が閉ざされた。
急に静かになった部屋に、自分のため息が大きく響く。
「……。元気だな、あいつら」
「君も、勝手に遊びに行って来ていいんだよ。さっきの女子ふたりについて行っても良いけど、さすがにキツイよね。それは」
ラティスの言葉に、ハルは眉をひそめた。
「女の服飾買いに同行していて、楽しい男とかいるのか?」
「眺めて待ってれば良いんだろうけど……そもそも、女の子向けのお店に入るのが恥ずかしいよね。レースだらけだし、何かキラキラしてるし」
「どこも似たような物らしいな、そういうのは」
言いながら、ハルは小さなあくびをした。
ここの所ずっと、眠りが浅かったせいだろう。日中でも眠いし、眠っても休んだ気が全然起きてこない。
「眠そうだね。あんまり眠れてないのかな」
「土地を変えてしばらくは、あまり眠れない事が多い……今回は、いろいろと落ち着かない事もあったしな」
「そっか。じゃあ、君には昼寝に最適な場所を教えてあげるよ。俺についておいで」
居間に置いてあった本の束を抱え、ラティスは歩き出した。
その後を、黒狼がテチテチと音を立てながら付いていく。
予定がある訳でも無いし、わざわざ拒否する必要もないだろう。ハルは彼について部屋を出て、開放的な造りをした廊下に出た。
ラティスは慣れた動きで宿の裏手にまわり、自家栽培の果樹園を横切る。
木漏れ日を受けながら進んでいたハルは、木の枝ごしに映り込んだ景色に、目を見開いた。
「……。これは」
この街特有の、段差のある地形を活かした設計のおかげなのだろう。
石垣が築かれた果樹園のふちからは、公設市場と港が一望できた。空気は濃厚だが適度に涼しく、空も海も、目が痛くなるほどの濃い青色をしている。
「風通しが良いところだな」
「うん。木陰にいれば直射日光を浴びずに済むから、快適に昼寝できるよ。でも、今はまだ肌寒いからね。今回用があるのはこっち」
ラティスは、すっと草地の隅を指差した。
色白の指が示す先には、ちっぽけな建物が佇んでいる。石造りやレンガ造りの家が多いラフェンタでは珍しい、丸太の小屋だった。
横に井戸と花壇があり、小ぶりな花が咲き乱れている。家の脇に突き出すように組まれた支柱には、ツル性の植物がぶら下がっており、涼しげな潮風に揺られていた。
「何だ、この小屋?」
「元はただの農具入れだったんだけどね。俺とかシオンが趣味でいじりだしたら、興が乗ってきちゃって……あ、シオンっていうのは、この宿に併設された施薬院に務めてる治療師だよ。また紹介するからね。それと、靴はそこで脱いで入って」
サラッと指摘されたハルは、ぎょっと目を見開いた。
「小屋に入るのに、靴を脱ぐのか?」
「うん。ユウの国の習慣に合わせているんだ。最初は俺も抵抗があったけど、慣れると快適だよ」
自分の靴を棚に乗せると、ラティスは促すようにハルを見やった。
「……。」
玄関に突っ立っていても、キリがない。
少しためらった後、ハルは長靴を足から引き抜いた。ひしゃげた革のかたまりになったそれを棚に押し込むと、ラティスは満足げに微笑んだ。
「適当に座っててくれるかい。いま飲み物をいれるから」
「……。あぁ」
足の短いテーブルの近くに座って、ハルは周囲を見回した。
狭いが、清潔な部屋だ。
大型の家具は、ハルの近くにある低テーブルと、普通の高さのテーブル、それに木製の箪笥のみ。
ラティスが使っているテーブルの上には、移動式コンロやガラス瓶、蛇口を取り付けた水瓶などが並んでいる。どうやら、台所代わりとして使っているようだ。
「何を作っているんだ?」
「薬草蜜煮茶だよ」
ラティスは手を止めずに答えた。
「薬草のシロップをお湯割りにしているんだ。すぐできるから、待っててね」
水瓶から手鍋に移した水を火にかけ、沸騰させる間に、ガラス瓶の中身を磁器の器に少しずつ注いでいく。手際よく動く手をぼんやり眺めていると、どこかで鳥の鳴く声が聴こえた。
「はい、どうぞ。熱いから気を付けて」
「礼を言う 」
差し出された器を受け取って、ハルは慎重に中身を口に含んだ。
様々な薬草が混ざった、独特の味。その中に、懐かしい風味が紛れているのを感じて、ハルはつぶやいた。
「この味……」
「音楽亭の女将さんに教わった味付けを使ってみたんだ。アーク族の人は、香辛料を使った料理が好きだって聞いてね。君の口に合えば良いんだけど」
「懐かしい味だ。うまい」
ハルの反応を見て、ラティスがほっとしたような表情になった。
「そっか。なら、良かったよ」
ハルの向かい側に腰を下ろして、ラティスは自分の蜜煮茶を飲み始めた。
その近くには黒狼が丸くなり、前足に頭を乗せてくつろいでいる。のんびりとしている黒狼の様子を眺めながら、ハルは蜜煮茶を少しずつ口に含んだ。
葉擦れの音に紛れて、また鳥が鳴いている。
小屋の中には、建材になっている木や、独特な薬草のにおいが充満していたが、嫌なにおいではなかった。
「……大丈夫かい」
「え?」
ぼーっとしていたハルは、唐突な質問に目を瞬かせた。
目の前に座る少年は、静かにハルの返答を待っている。
「大丈夫って、何がだ」
「いろいろだよ。君は、年齢の割に落ち着いた子みたいだけど……これだけたくさんの事が一度に起きたんだ。混乱しているんじゃないかと思ってね」
「あぁ、そういう事か」
湯呑みを両手で持ちながら、ハルはため息をついた。
「問題はない。混乱はしていたが、調子を狂わせてくるような人間が唐突に現れたから、逆に冷静になれた」
「チェリンの事だね」
何気なく応じてから、ラティスは言葉を連ねてきた。
「君にとってあの子は、調子を狂わせてくるような存在なのかい? ハタから見ている分には、落ち着いて接しているように見えるけれど」
「……」
ハルは押し黙った。
湯呑みの中に浮かんでいる、乾いた薬草の花をしばらく見つめて、ぽつりと呟く。
「オフェロスの山中で、あいつは、何の躊躇もなく奴隷狩人を殺した」
「……」
「あの時の僕は、ひどく怯えていたから、あいつの事も怖いと思ったし、拒絶しようとした。だが、あいつは、強引に僕の事を助けた。その対応には調子が狂ったが、そのお陰で、自分の状況をある程度冷静に考えられたと思う」
「いまは、どうなんだい」
「どうって、何がだ」
「君から見て、彼女はどうなのかなって事だよ。 君は、俺らよりもあの子と立場が近いからね……君の意見を聞きたいんだ」
「それは……」
少し考えてから、ハルは言った。
「高い誇りに見合うだけの強さを持っているが、同時に、ひどく臆病で不安定にも見える。僕は……僕には、故郷と呼べるような場所は無いし、あいにくと、一族への帰属意識のような物も持ち合わせてはいない。
だから、『兄に会いたい』とか『母に託されたものを知りたい』などという言葉を聞いても、理解に苦しむ他ない。自分の為に生きる事はしないのか、と聞きたくなる」
「じゃあ、それを聞かないのはどうしてなんだい」
「あいつが、家族の為に行動を起こす事で、精神の均衡を保っているからだ。それに、僕とあいつは根本の考え方が違う。価値観も真逆に近い。だから……余程の事が無い限り、意見を衝突させる必要は無いと思っている 」
流れに任せるまま吐き出した言葉が、のどかな空間の音を吸い取った。
正直な感情を口にしたことで、何かモヤモヤしたものが抜け落ちたような感じがする。少しぬるくなった蜜煮茶を持ったまま黙っていると、ラティスの目が緩やかに細まった。
「そっか。君は、優しい子なんだね」
ラティスは、いつも以上に穏やかな笑顔をハルに向けてきた。
最初はぼんやりとその笑顔を眺めていたものの、とある可能性に気付いたハルは、ハッと姿勢を正した。
「おい」「ん?」
「まさかこの茶、自白剤のようなモノを入れてはいないだろうな?」
言いながら、湯呑みを覗き込んだりにおいを嗅いだりするハルを見て、ラティスは面白がるような表情になった。
「その飲み物に使ってる薬草は、リラックス効果があるヤツだけどね。薬では無いよ?」
「……」
頬を軽く膨らませたハルに、ラティスは「本当だってば」と苦笑いした。
「君ばかりに喋らせて悪かったね。じゃあ、俺もぶっちゃけ話って奴を君にしてみようかな。ホラ、今ごろユウ達は『女子トーク』をしてる訳だし、俺らも『野郎談義』で対抗するってコトで」
「わざわざ銘打つ必要があるのか」
「うん。だって、その方が面白いだろう?」
ラティスは、空になった湯呑みを卓上に置いた。
「この前の探索で、何となく分かったとは思うんだけど、迷宮には、旅とは違う危険があるんだ。わざわざ魔物が多い場所に行くわけだし、やたらと凝った罠も仕掛けてある。
盗賊は殆どいないけれど、ある程度の実力が付くと、ギルド間のしがらみからの諍いなんてモノも出てくるから厄介だ……でもね」
表情をふっと緩めて、ラティスは言葉を継いだ。
「不思議なことに、一度迷宮から出てしまうと、辛かったはずの出来事が、笑い話に変わってしまうんだ。パン食べながら歩いてたら、曲がり角で魔物とぶつかったとか。変なスイッチ踏んだら大岩が転がってきて、慌てて全力逃走したとか。その時は必死だったはずなんだけど……後になってみると、妙に面白くてね」
「……。お前、今までよく死ななかったな」
うむ、とラティスは腕組みをした。
「そうだね、わりと奇跡の域に達してると思う。頭から人喰い花に喰われた事もあるのに、よく死ななかったよ。まぁ、あの時は川向こうに意識が軽く吹っ飛びかけたんだけどね。お金を持っていなかったから、川の渡し守に『まだ死ぬな』って、送り返されちゃったみたいなんだ」
「お前な……」
呆れた表情を隠さずにいると、ラティスはハルのその反応すら面白がるように言った。
「でも、こういうのってワクワクしないかい?」
「…………」
否定できない。
しかめ面のまま頷くと、ラティスは微笑んだ。
そして、ふっと細めていた目を開く。
深い蒼色の瞳に射抜かれて、ハルの動きが自然と止まった。
「……自分で言うのも何だけど、俺もユウも、南の冒険者の中では強い方だ。冒険者相手に戦闘したことは何度もあるけど、今のところは全勝している。でも、迷宮が相手の場合はそうもいかない事が多いんだよ。さっき言ったみたいに怪我もするし、逃げ帰る事だって何度もしてる」
ラティスは低い声で続けた。
「相手は、こことは違う規則を持つ世界なんだよ。危険を最低限に減らせるように、万全を期して挑む必要は常にある……でも、俺たちが探索を楽しんじゃいけないなんて規則は無いんだ」
パッと口調を改め、ラティスは明るい調子で言った。
「いろいろ複雑な事情が絡んでいるとはいえ、せっかくこの南迷宮都市に来たんだ。君にも、迷宮探索を楽しんで欲しいな」
「……。まぁ、善処はするとしよう」
「うん、ひとまずはそれで良いよ。新米さんに急に『楽しめ!』なんて言うのも、けっこう酷なことだと思うからね」
「思ってるなら言うなよ」
「言わないと何も始まらないからね。ほら、言うだけなら無料だしさ」
言いながら、ラティスはごそごそと箪笥を漁り始めた。
布類が詰まった開きから畳んだ毛布を取り出し、ハルに向けて放ってくる。
「はい、君の分の毛布。その辺にあるクッションを枕代わりに使って良いからね」
「……。え?」
「昼寝に最適な場所を教えるって言ったろ? ここ、静かだし寝心地も良いんだ」
「……。冗談だと思ってたぞ」
毛布を手に唖然としていると、ラティスは真面目な表情を取り繕って言った。
「睡眠の質は戦闘力にも影響する。万全を期して挑まないとね」
持参した本やコンパス、手帳を広げながら、ラティスは続けた。
「というワケだから、寝てて良いよ。俺は明日の計画を立ててるから」
「……。はぁ」
曖昧な姿勢のまま停止していると、ラティスの側にいた黒狼が歩み寄ってきた。
ハルの頬に鼻づらをこすり付けてから、ハルの腿のあたりに背を付けて丸くなる。穏やかに上下する背中を眺めていると、自制していた眠気が全身を緩やかに圧し始めた。
「……。あまりに寝こけているようであれば、起こしてくれ」
「うん。晩ご飯までには起こすよ」
ラティスの返答に頷き、ハルは黒狼に沿うようにして横になった。
またさえずり始めた鳥の声と、万年筆が、絶え間なく動く音が淡々と響いている。
「……。」
その音をぼんやりと聞いているうちに、ハルの意識は、自然と夢の中に沈み込んでいった。
◆◆◆
これは、いつの記憶なんだろうか。
安いだけが取り柄の、ちっぽけな貸し部屋の中。
ボサボサの茶髪を背で束ねた男が、ハルに背を向けた状態で何かを書き連ねている。ベッドの上からその様子を眺めるのに飽きていたハルは、男の大きな背中によじ登りながら言った。
『父さん。さっきから、なにやってんの?』
『仕事さ、仕事』『ふぅん?』
肩越しに、男の手元に広げられている羊皮紙の群れを覗き込む。
びっしりとイウロ文字が連ねられているその中に、歯車のような物を運ぶ鷹が描かれた紋様を見つけ、ハルは言った。
『このタカの絵、きれいだね。おれ、これ好きだよ』
『これは、私が考えた意匠なのだよ。お前が気に入ってくれたなら、私も嬉しい』
そう言って、男は嬉しそうに笑った。
首にしがみ付くハルの頭を撫でてから、万年筆を動かす作業を再開する。最初に書いていた羊皮紙を使い終わり、次の羊皮紙に進んだとき。そこに現れた絵を見て、ハルは目を瞬かせた。
『ねぇ、こっちの絵はなに? 鳥がいっぱいいるやつ』
『これか? これはな、古い遺跡にあった壁画の写しだ。お前や母さんの、遠い遠い祖先に当たる人が描いた物なんだよ』
言いながら、男はハルが見やすいように羊皮紙を持ち上げた。
長い尾を持つ鳥を、地上から見上げる人々の絵だ。悲しむように背を丸める人、その人を慰めるように肩を抱く人もいれば、祈るように手を持ち上げている人もいる。
『ふぅん……。あ、父さん』
ハルは、鳥の絵のひとつを指差した。
まだ小さい幼鳥に見えるその鳥の絵には、他の鳥とは異なる部分がある。翼が、片方しか描かれていないのだ。
『この鳥、翼がひとつしかないよ』
『あぁ……。その鳥は、最初から翼が片方しかないんだ』
『なんで? 鳥は、翼がもげると死んじゃうって、母さんが言ってたよ。それに、片方だけじゃ、そもそも空飛べないじゃん』
ハルの言葉に、男は笑った。
『ははは、そうだな。この絵を描いた人は、きっとうっかりしていたんだろう』
羊皮紙を机の隅に押しのけて、男は立ち上がった。骨をポキポキと鳴らす男を見上げて、ハルは訊ねる。
『今日の仕事、もうおしまい?』
『あぁ。父さんは勉強のし過ぎで疲れてしまった。どうだいエリ、母さんには内緒で、市場まで甘い物を買いに行こうじゃないか』
『甘い物を買う』と聞いて、ハルはパッと飛び上がった。
『行く!』
『よし決まりだ。エリ、お前は何が食べたい?』
『おれ、フィクが食べたい。あの、シナモンとはちみつがかかってるヤツ』
『フィク? あぁ、あの棒状のお菓子だね。分かった、買ってあげよう』
『やりぃ!』
ニカっと笑って、ハルは男の手に抱き付いた。
ぶら下がるようにして歩いても、男の歩みはビクともしない。ハルと違って色白のその手は大きくて、がっしりとしていた。
ああ、これは本当に、いつの記憶なんだろう。
思い出せないまま立ち尽くしていると、景色は薄れ真っ白に、そして黒に染まっていく。
♢♢♢
「…………」
目を覚ますと、日は既に傾きかけた時間だった。
小さいが、綺麗に整頓された小部屋。亜麻色の髪をした少年が、ハルに背を向けた状態で何かを書き連ねている。
「目が覚めたみたいだね。何か良い夢は見れた?」
「いや、見なかったな……見たとしても、忘れてしまった」
瞼を擦りながら、エリハルは起き上がった。
はちみつ色の夕焼けに、鳥が飛んでいるが見える。夕焼けが徐々に紫に移ろい、日が沈み、闇に染まる。ラティスに再度声を掛けられるまで、エリハルはぼんやりと空を眺めつづけていた。




