【とある廃墟にて】
衛生管理のなってない研究所だ。
足元に散乱するガラスの破片に悪態をつきながら、彼女は周囲を見回した。
前方には長い通路が伸びており、両側に円柱状の水槽が連なっている。水槽の大半は空で、女性の金髪をぼんやりと映しているが、底の方にはゼラチン状の物質がこびりついて、汚れていた。
「……本ッ当に、悪趣味な事してたみたいね」
水槽にいくつも繋がったチューブ、そこに書かれた文字を読んで、彼女は目を細めた。
空になった水槽を離れ、様々な実験器具の置かれた机の上に視線を移す。
引き出しは空。実験結果を記録していたはずの資料は全く残されていない。ほこりの積もった本棚の中に、数冊の学術書が並んでいるだけだ。
あちこちに飛び散った赤黒い染みに触れないようにしながら、彼女はその中の一冊を手に取ろうとして……動きを止めた。
「これは……」
少し考えてから、右端の本に触れようとしていた手を中央の背表紙に移す。つぎに左端、そしてその隣。正しい順番で本が押し込まれた棚は、『カチ』と小さな音を立てた。
それと同時に本棚の壁板がずれ、中から小箱が現れる。女性が箱を開けようとした、その時……
「博位っ!」
部屋の中に飛び込んでくる青年。女性はとっさに小箱をしまうと、金髪の尾を翻した。
「どうしたの」
「ローザ、達が、襲撃されました! 連中、ここに、火を放った上に、『アレ』を……」
「アレ?」
息を切らす青年に怪訝そうに訊ねた、直後──
「伏せなさい!」
──博位と呼ばれた女性は、青年の頭を鷲掴みにした。強制的に青年の身を屈ませたその瞬間、壁を崩して飛び出してきた影が、虚空を穿った。
「このゾンビ野郎……せめて窓から入りなさいよ!」
悪態をつきつつ、女性は飛び込んできた影に向かって銃口を向けた。
放たれる銃弾、這い寄る影に穿たれる穴。その穴から飛び出してきた電撃は、長い爪を持つ『ソレ』を焼き焦がす。
『ァ……アア……』
しかし動きが止まらない。全身を黒焦げにしながらうめき、這い寄ってくる人影。
そして、その背後の廊下からも、同じうめき声の合唱が響き始めた。
「ひ、ひィ……⁈」
「ぼさっとするな、走りなさい!」
撤退が最善と判断した女性は、青年の背を押し走り出した。
あちこちの壁を突き破って襲いかかってくる影たちを光の障壁で阻みながら、戦闘音が聞こえる方へと進む。やがて──
「紫玖さん!」
──数人で戦いながら撤退する仲間を見つけ、彼女は彼らの背後に迫る影たちを一掃した。
「博位……良かった、ご無事でしたか!」
女性の声に、笠を被った男性がホッとしたように応える。
女性は『紫玖』と呼んだ男性に駆け寄ると、淡々と問うた。
「そっちの損害は」
「不意打ちで、ローザがやられました。まだ息はありますが、早く処置しなければ命が危ない」
彼らが会話をする余裕を産んだのは、風だった。男性を中心に発生する風の影響で、影たちが近づけないのだ。
「……了解。最初に通った廊下まで後退するわよ。私の術式で天井を落として、連中を押し潰すわ」
「そうですね。それしか手はなさそうです」
風の壁に阻まれ、身が削れても突撃をかけてくる朽ちた腕を、短刀で斬り落とす。
その作業を延々とこなす男性の顎から、数滴の雫が滴り落ちた。
「外には、私達が飛び出すのを待ち構えてる連中がいるはず。貴方には、そっちの対処を頼むわ」
「承りました」
全力の疾走の中で行われる、冷静な会話。追い付くのがやっとな青年は、ふたりの発言に悲鳴じみた声を上げた。
「ですが、それだとここにある証拠物が!」
「ゾンビに噛み殺されるよりマシでしょ!」
女性は噛み付くように叫ぶと、踵を回した。
逃げ場のない一直線の廊下の暗がりで、無数の足が絡まりながら寄ってくるのが見える。
「ようやく見つけた手がかりを……自らの手で、ぶっ壊すハメになるとはね」
乾いた笑みを浮かべながら、女性は小銃を掲げた。
歯車が加速する音と共に、黄金色の光が発現し、銃口に収束する。
「あんた達は、史上最悪のクソ野郎よ……!」
悪態と同時に、発砲。
屋根を貫いた閃光は直後、夜空を爆炎で彩った。
♢♢♢
森に隠された屋敷が、爆炎と共に崩れ去る。
その景色を一望できる丘の上では、白銀の髪を揺らす子供が歌を口ずさんでいた。
「……」
それは歌詞のない歌。子守歌のような、やさしく穏やかな響きを持つ旋律だった。
伴奏のない独唱は、燃え盛る建物に取り残された人々を憐れむ鎮魂歌のように天に昇る。
「絶対にネズミを取り逃がすな。炎に巻かれた連中は、川を目指すだろう。河岸を見張り、発見し次第……」
歌を口ずさむ子供の背後では、複数の男たちが忙しなく動いていた。全員が目深にフードを被っており、その口元だけが覗いている。
森全体に広がり始めた炎の熱気と、響く銃声。木々が悲鳴を上げながら倒れる音と、獣の鳴き声が入り混じり、反響する。
そんな地獄のような光景を見下ろしながら、フードの男は恍惚とした笑みを浮かべた。
「奴らを始末した後は……計画の通りに、事を進めればいい。我々にはそれができる。そう、できるのだ!」
両手を広げ、一歩前へ。
燃え盛る森を抱くようにして、男は声を張り上げた。
「命ある我らの手で叶えよう! そして見届けよう! 今は亡き朋友たちが見たかったであろう景色……その、奇跡の瞬間を!」
男の言葉に、付き従う人々は両手を持ち上げ、熱狂の声で応える。男たちの熱狂の渦は、炎の熱気や戦闘音に混ざって加速し続けた。そんな中……
歌詞のない歌は、ただ淡々と満天の星空に満たされ続けていた。