【ラフェンタ公設市場】
急傾斜の坂を下っていくと、潮風が耳に喧騒を運んでくるようになった。
波の音。海鳥の声。老若男女の話し声に、商人たちの宣伝口上。その騒がしさに魅かれるように、チェリンは歩を速めた。
淡いクリーム色の石畳を足早に抜けて、曲がり角から顔を出すと──
「わぁ……っ!」
──色とりどりの果物、野菜、香辛料。魚介や加工肉類。
虹色の水晶瓶と樽をずらり並べる薬屋、護符や武器を露店の屋根から吊るしている武器屋。
チェリンが今まで見た中で、最大級の市場がそこに広がっていた。
「ラフェンタの公設市場、帝国でも最大級だって言われてる。ここより大きい市場は、帝国の央都『ヴェレーム』の王立市場くらいなんだよ。」
少し誇らしげに言うと、ユウはラティスのケープを片手で掴んだ。
「はぐれないようにね。ひと、多いから。命綱は、ちゃんとここにある。」
「こら、勝手にひとを命綱認定しない」
首が締まらないよう、片手でケープを抑えながら、ラティスは振り返った。
「ユウみたいに貼っついていろとは言わないけど、ちゃんと付いて来て。迷ったら大変だよ」
「……はい 」
頷いて、チェリンは歩き出した。
見慣れぬ野菜や、鮮やかな魚の色。いろんな店先で売られている、料理のにおい。故郷とは趣を異にする、異国の喧騒。
何を見るのも楽しくて、つい前方への注意を怠っていると──
「あっ?! 」
──唐突に、チェリンに向かって子供が体当たりして来た。
とっさに懐を押さえたので、身分証は取られずに済んだのだが……その子供はめげなかった。
「いっただきぃっ! 」
したり顔で子供が掴んで行ったのは、精緻な刺繍が施された布袋──少年がくれた、護符だった。
「このっ⁈」
小生意気な子供のえり首めがけて腕を伸ばすが、子供はひらりとチェリンの手から逃れた。
そのまま、小さな体躯を活かして人ごみの中に紛れ込んでいく。
「待ちなさ……っ!」
駆け出そうとしたチェリンの横を、サッと黒い残像がよぎった。
逃げる子供の倍の速度で人ごみをすり抜け、サッと腕を伸ばして──
「……」
──捕獲。慣れたふうに子供のえり首を掴んで持ち上げているのは、黒髪の少年だった。
「その程度の腕でスリを気取るなよ、クソガキ」
子供の手から護符をむしり取り、ハルは悪戯した仔犬を振るような動作で腕を揺らした。
例の馬鹿力を存分に発揮しているらしく、暴れる子供をしっかりと捕縛している。
「ひ……」
「言い残したい事はあるか?」
鷹のような眼光に貫かれ、子供の目からじわりと涙が滲んだ。
「ごっ、ごっ、ごっ、ごめんなさいぃいぃっ⁈」
「ふん」
鼻を鳴らすと、ハルは子供からパッと手を離した。
地面に尻もちをついた子供は、半べそをかきながらもと来た方向に逃げていく。
「ほら 」
「あっ、ありがと……」
「礼はいい 」
ひょいっと護符を投げ渡すと、ハルは肩をすくめた。
人の流れがない露店の角に移動し、周囲を見回す。
「言われた側から、逸れてしまったな 」
半ば背伸びするような姿勢で周囲を探ると、ハルは嘆息した。
「動かずにいた方が賢明だろう。そこは人ごみに流されるだろうから、こちら側に退け」
ハルの言葉は至極最もだろう。
チェリンが頷き、一歩を踏み出そうとしたとき──
「そらぁ、どいたどいた! 新鮮ピチピチの怪面魚が通るよーーっ⁈」
──唐突に曲がり角から現れた台車に、チェリンは勢いよく弾き飛ばされた。
「痛ったぁ……」
「そら、言わんこっちゃない」
嘆息したハルが、座り込んだチェリンに歩み寄る前に、チェリンの視界がふっと暗くなった。
「だいじょーぶかい、嬢ちゃん」
よく通る、爽やかな男の声。
地面に手をついた状態で顔を上げると、ツナギを着たイウロ人の青年が、こちらを見下ろしていた。
「はい、大丈夫です」
「見た所、ここに来るのは初めてみてぇだな。仲間とはぐれたか?」
「えっと」
チェリンが何かを言う前に、黒髪の少年がすっと二人の間に割り入った。
目を丸くする青年から庇うように、チェリンを後方のくぼみに押しやろうとする。
「おぉ? どーしたよ、坊や」
「近寄るな。臭い」
「へ? オレのどこが臭いの⁈」
鼻に皺を寄せながら、ハルは唸った。
「お前からはナンパ男の臭いがする」
警戒心むき出しのハルをまじまじと見ると、青年はニカッと笑みを作った。
「お前さん、面白いな」
チェリンはあっけに取られた。
公衆の面前で変態認定されたというのに、青年の笑顔はあくまで爽やかだったからだ。
青年は自分の胸を軽く叩くと、ニカッと笑って言った。
「お前さんの意気に免じて嬢ちゃんには手ェ出さないでおくから安心しな、しょーねん」
驚いたように言うと、青年はぬっと腕を持ち上げた。
身構えるハルの頭に右手を置き、その髪をクシャクシャにかき混ぜる。
「……。」
ハルは、無言で行動を停止している。
その何とも言えない表情から、目の前の青年の対応に困っているのが傍目にも理解できた。
「えーっと……貴方の言う通りなんです」
チェリンは、躊躇いながら口を開いた。
「あたし達、同行してた人たちと逸れちゃって」
「まぁ、『如何にも』って感じがしたぜ」
ハルの頭から手を離すと、青年は腰に手をやりながら言った。
「んで? 同行者っつーのは、どんな感じの連中なんだ?」
「えっと……」
チェリンがふたり組の容姿を説明しようとした時、ハルが何かに気付いたように顔を上げた。
眉をしかめた表情から、ギョッとしたような表情に急転換したハルにつられ、チェリンと青年が少年の視線を追おうとした瞬間──
「天誅っ。」「ごふっ⁈」
──竜胆色を帯びた小柄な影に飛び蹴りを喰らい、青年は勢いよく地面に叩きつけられた。
「え? ちょ、えぇっ⁈」
頭部から煙を上げている青年の前であたふたしていると、地面に降り立った少女が鼻を鳴らした。
「抹殺完了。」
唖然とするふたりの前でそう宣ったのは、超然と構えたユウだった。
少し遅れて来たラティスは、青年のそばに屈み込み、回復術式で治療──
「あー、まだ生きてる」
──はせずに、その辺に転がっていた乾燥ワカメの茎で、青年の頭部を突っつき始めた。
「ゆ、ユウさん? ラティスさん?」
「殺気がやばいな」
「そりゃあそうだよ」
ラティスはニコッと微笑んだ。
「こいつはね、年下の女の子なら誰にでも手を出そうとする、淫乱な奴なんだ。それに該当する子が仲間にいるんだから、警戒するのは当然でしょ? 君らが無事で、本当に良かったよ」
黒い笑みを湛えた相棒に頷いて、ユウは淡々と言葉を継いだ。
「それに、わたし達が知らないだけで、年下なら何にでも手を出すかもだから。とにかく、こいつは要注意人物。目が合ったら潰す、くらいの勢いで丁度いいんだよ。」
げしっと背中を蹴られた青年は、「おー、痛ェ 」などとほざきながら身を起こした。
「とんだ友人紹介もあったもんだなぁ。ユウ、ラティス」
「いや事実だろ」「うん事実だし。」
同時に言い放たれて、青年は大げさにガクッと腕を地面についた。
「まったくよぉ。お前等んなかでのオレの認識ってどうなってるワケ? 高機能人型サンドバッグとか言うんじゃねーぞ」
青年の言葉に、冒険者たちは顔を見合わせると。
「あー、鍛治ヲタク?」
「サボり魔。」
「まれに見る色ボケ」
「ロリコン。」
「クソイケメン 」
「残念イケメン。」
「あ、あと」
「「殴殺バカ」」
戦闘もかくやという素晴らしい連携具合を見せながら、青年の悪口をつらつらと羅列する。
開いた口が塞がらないチェリン達には構わず、青年はファサッと前髪を横に払った。
「色ボケとは失礼な。オレは年下の女性全てに愛を注ぐ博愛主義者なーんだぞーぅ」
背後に飛び散る紅薔薇、キラリと輝く白い歯並び。
イケメンの代名詞である特殊効果の数々を片手ではたき落として、ラティスは青年を睨み付けた。
「それを世間一般ではロリコンと言うんだよね。いい加減黙ろうかクズ野郎」
普段の物腰からは想像できない、凍り付いたような言葉を吐くと、ラティスはチェリンたちの方を振り返った。
「取り敢えず、紹介だけしておくね」
ラティスは、そこの生ゴミ何とかしてよ、というような乱雑な仕草で青年を指さした。
「こいつはルーク・ハイブリッジ。武具・防具を取り扱う【ヴィレッジ商会】の鍛治師なんだ。見た目はただの変態チャラ男だけど、腕は一流だよ」
「口が悪うございますよラティスくん。そんな毒舌っ子に育てた覚えはありませんっ」
「こっちはあいにくと、お前に育てられた覚えがないね」
「そんな事言ってぇ、素直じゃねぇなラティスくん」
「そろそろ本気で黙ってくれないかな? 凍らせるよ」
ぴしゃりと言い放つと、ラティスはルークの肩を強めに小突いた。
その動作は、チェリン達が彼らの親しい友人関係を察するのに十分な説得力を有している。
「んで? 今日はどしたの」
「この子たちの武器を見に来たんだ。こっちの子は、主装備から全部見直し」
「へぇ……」
無言のハルを、ルークは静視した。
熟練の商人が品定めをする時のような、鋭い視線がハルを射抜く。
「細いけど、よく鍛えられてるな。両腕の筋肉のバランスも良い……両手剣士だな」
「あぁ 」
ハルは、素直に頷いた。
「剣の丈は? 普通の両手剣か、それとも」
「両刃大剣らしいよ。その子が使うの」
「ふぅん……よし、付いて来いよ。オレの工房に案内してやる」
「お前の出店には行かないのか、ルーク?」
訊ねたラティスに、ルークはひらひらと手を振った。
「ここの出店にゃ、そいつの丈に合う両刃大剣は置いてねーよ。全部デカすぎる」
「なにげに、チビって言ったね。」
ユウのツッコミに、ルークはひょいっと肩を竦めた。
「両刃大剣ってのは、大人の男が扱うような武器だからよ。その辺のガキだったら、持ち上げるだけで脱臼モンの代物だ。だが……」
ルークは、ハルを見て唇をつり上げた。
「そのガキが本当に両刃大剣を使いこなせるってんなら、一から作っちまった方が楽ってもんだ」
無言のハルを試すように笑うと、鍛治師の青年は言った。
「お前達、名前は何つーの?」
「あ、あたしはチェリン・グエナエルです」
「チェリンか。可愛い名前じゃねーの。そっちの黒髪の坊やは?」
『坊や』と呼ばれたハルは、あからさまに顔をしかめながら言った。
「エリハル・オードランだ。坊や呼ばわりは止めろ、既に成人している」
「……」
仏頂面をする少年を、青年はまじまじと凝視した。
やがてハルが困惑したような表情になっても、青年は眉をひそめ続けている。
「ルーク?」「どうかしたの、ルーク。」
ラティスとユウが声をかけると、青年は夢から覚めた時のような瞬きをした。
「んいや、何でもねーわ。さっさと行こうぜ、逸れるんじゃねーぞ」
ニカッと笑い、鍛治師は歩き出した。
戸惑ったようにラティスを見上げるハルを一瞬だけ見て、前に向き直る。
「オードラン……」
喧騒の中をキビキビと進む青年は、至近距離にいるチェリンがかろうじて聞き取れるような無声音で、呟いた。
「いや……まさか、な」




