【公設市場に行こう】
コツン、と。
脱力したハルの後頭部が、壁に当たってかすかな音を立てた。
「…………」
霞みがかったような頭で、そっと周囲を見回す。
壁は淡いクリーム色がかった白壁で、木製の棚には、木彫りの動物が幾つも並んでいる。
天井からは洒落たガラス細工の器が吊るされており、極彩色の花をつけた蔓が垂れ下がっていた。
ほのかに甘い香りを漂わせるそれを見上げる事に疲れ、ハルは、片方の膝に額を押し当てた。
『契約』を終えたハル達の拠点として指定されたのは、ラフェンタの街が一望できる位置に建てられた【春の仔鹿亭】という宿。
複数人の長期滞在を前提にしたメゾネットの一室をあてがわれたハルは、一人にされた瞬間、魂が抜けたように床に座り込むことしかできなかった。
「何なんだってんだよ、この状況……」
奴隷狩りに遭って。
成り行きで山越えをして。
よく分からない彫像に襲われたと思ったら、突然監視付きの宿屋に移されて。
あまりに、たくさん。一度にたくさんの事が起こりすぎた。
他者の前では警戒が先立ち、冷静さをなんとか保っていたものの、ハルの脳内は処理落ち寸前だった。
(チェリンの、あの能力……。)
遥か古代の、複雑な術様式の粋を集めて建造されたという『迷宮』。
その中に組み込まれた術式を発動させるというのは、非常に稀有な能力なのだろう。
その程度のことは、ハルにだって理解できる。
──だが、迷宮は所詮、古臭い遺跡群だ。
チェリンは『迷宮に大いなる力が眠っている』と言っていたが、それが現代に通用するものであるとは考えにくい。
迷宮が優れた古代技術を以って維持されているという話は知っているが、現代のイウロ帝国は古代では成し得なかった術式をいくらでも生み出しているし、そういった最新技術の軍事利用も当たり前の時代だからだ。
「託されたものを知りたい、か」
つぶやくと、ハルは自身のピアスを外した。
手のひらに乗せたそれを指で転がし、ぼんやりと見つめる。
「無理だな、僕には」
「何が無理なんだい?」
唐突な声に、ハルはギョッと振り返った。
ついでに、反射で握りしめたピアスの針が、指にぐさりと突き刺さる。
「いっ……」
(痛え……っ!)
情けないやら、痛いやら。
一声叫んでスッキリしたい、という気持ちを蹴飛ばして、ハルは不機嫌な表情を取り繕った。
「おい、お前、いつからそこに?」
「入ってきたばかりだよ」
ハルの背後で微笑んでいたのは、ラティスだった。
質素な白いシャツに身を包み、重ね着している青のニットベストには眼鏡をひっかけている。教会や学院に通う学生、といった風体だ。
「君が座り込んでるから、気分でも悪いのかと思ってね」
「……。放っといてくれ、眠いだけだ」
不機嫌なふりをして、ハルはそっぽを向いた。
早く出て行ってくれと心の中で念じるが、ラティスは立ち去ろうとしない。それどころか、ラティスは正面に回り込み、ハルの真ん前に腰を下ろした。
「ねぇ、いま、手を怪我したでしょ?」
「……。何で分かった」
顔に出ていたのだろうか。
恐る恐る訊ねると、ラティスは楽しげに目を細めた。
「星沁の流れが、ほんの少しだけブレたのが視えたんだよ」
ラティスの瞳には、小さな金色の粒が映り込んでいる。
すべての物質の根源である光──星沁の粒が、視えているのだ。
「ほら、手を出して」
「……」
促され、ハルはしぶしぶと手を出した。
静かに微笑んだラティスは、水色の星沁光を指先に纏い、ハルの手に軽く触れる。
光の粒が怪我に溶け込み始めた瞬間、ちぎれた組織が繋がっていく、痒いような、くすぐったいような感覚が手に訪れた。生命力の譲渡。最も高度とされる、星沁術式のひとつだ。
「……。」
治療されている間、ハルは、目の前で術式に専念している少年の容姿をそっと見やった。
妙な青みがかった亜麻色の髪に、深い蒼の瞳。どこか浮世離れしたその容姿は、北方の民の外見と、特徴の多くが一致している。
「お前、北方の民の血を引いているのか?」
訊ねると、ラティスは穏やかに息をついた。
視界に踊っている光を遮るように、ツイードに掛けていた眼鏡で顔を覆う。
「そうだよ。だから、暑いのは苦手でね。夏のラフェンタにいると、ドロドロに溶けそうになるんだ」
おどけたように笑い、ラティスはパッとハルから手を離した。
深くえぐれていた傷の痕跡は、綺麗に消失している。緑石のピアスも、シミひとつ無い状態で掌に転がっていた。
手を握ったり閉じたりしてみるが、痛みも無い。完全に治癒しているようだ。
「……。礼を言う」
「どういたしまして。ところでエリハル。君、何か要り用の物は無いのかい。いちおうね、それを聞きに来たんだけど」
「いや、特に無い」
というより、定住の経験が無いので必要な物がイマイチ分からない。
ハルが首を振ると、ラティスは「そっかぁ 」と首を傾けた。
「じゃあ、買い物に行こうか」
「…………。は?」
ハルは目を瞬かせた。
穏やかな少年の顔をまじまじと見つめ直すが、彼はただニコニコとしている。
──ニコニコとしている。
「お前、何て言った?」
「そうだ、買い物に行こう!……って、言ったよ」
腹が立つほど清々しい笑みだ。
ハルは、思わず眉をひん曲げた。
「一連の会話の流れに、そうなる要素は無かったように思えるんだが」
「いやぁ、君の使ってた片手剣は傷んでるみたいだからね。ちゃんとした物に買い換えた方が良いと思ってさ。
それと、南迷宮は樹木の密度が高いから、間合いの大きな武器では不自由する事がある。君もチェリンも、小回りの効く副装備が必要なんだよね」
「……」
「という訳で今日、公設市場で君とチェリンの武器購入と整備を済ませようと思うんだ。採寸が必要無い装備品は、君が採寸してる間に俺が揃えておく……現時点で、何か聞きたい事はあるかい?」
何だろう。パンを注文したのに、大蟻の丸焼きが出てきた時のような気分とでも言えば良いのだろうか。
ひと息の間に説明を押し込まれたハルは、白け顔を作って言った。
「お前、鈍重人間ってよく言われないか」
「言われるね。でも、合わせる必要がある時には、ちゃんと合わせているよ」
ラティスはハルに手を差し出し、立つように促した。
「行こうか。チェリンの方は、ユウが呼びに行ってる」
「……。必要な物は」
「ギルド登録の時に受け取ったカードがあるだろ。あれだけあれば良いよ」
「了解した」
差し出された手を無視して、ハルは自力で立ち上がった。
最低限の貴重品を懐の小物入れに押し込み、帯を締め直す。
「手持ちの服は、それだけ?」
「もう一着、予備がある」
「うーん……そっかぁ」
ラティスは、考えるように顎に手をやった。
ハルが手を無視した事に、気を悪くした様子は無いようだ。
「新しい服も、あった方が良いかもね。日用品も、少しずつ揃えていこう」
のんびりとした、だが無駄のない動きで歩くラティスの後について、自室とメゾネットの扉をくぐる。
一階のフロントでチェリン達を見つけたハルは、ユウと会話している人物を見て、首を傾げた。
車椅子に乗った青年だ。
藍色がかった黒髪に、焦げ茶色の目をしている。穏やかな笑みを浮かべる青年に、ユウは、膝を曲げた状態で会話に応じていた。その表情は、兄に甘える妹のそれに良く似ている。
「アルト兄さん!」
隣にいたラティスが、唐突に声を上げた。
兄さんだぁ? と目を剥くハルには構わず、ひらひらと手を振っている。
「おや、ラティス」
車椅子を器用に回して、青年は微笑んだ。
笑い方はラティスそっくりだが、顔は全く似ていない。
「聞いたよ。この子達と、買い物に行くんだってね。どこまで行くんだい?」
「商業地区まで行く。夕方には、帰るよ。」
「そうなのかい。気を付けて行っておいで」
ポフポフ、と青年に頭を撫でられたユウは、気持ちよさそうに目を細めた。
飼い主の膝で、日向ぼっこをしている猫のような表情だ。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。今日は新鮮な魚をたくさん仕入れたからね、夕飯には間に合うように帰っておいで」
「はぁい。」
青年に手を振り返して、ユウはこちらに歩み寄ってきた。
そのまま四人で宿を出て、綺麗に整備された街路を歩き始める。
「……あの、ラティスさん」
ふいに、チェリンが口を開いた。
「さっきのひとは、その……?」
「アルト・クリアウォーター。俺の兄で、あの宿の経営者の一人だよ」
「外見は、あまり似ているように見えなかったが」
ハルの言葉に、ラティスは肩をすくめた。
「まぁ、兄は兄でも養兄……育ての親だからね。血の繋がりは無いんだよ」
少年の言葉に、ハルとチェリンは顔を見合わせた。
なんと言葉を返せば良いのか分からず、曖昧な表情を維持していると──
「雰囲気とか笑いかた、そっくりだけどね。」
──両手に包みを持ったユウが、ふたりの間に割り込んできた。
「あぁ、おかえり」「ん。」
微笑むラティスに、ユウは包みの一つを手渡した。
新聞紙で包まれているそれは、薄焼きの生地に様々な具を巻き込んだ、帝国南部の名物料理『パジェ 』だ。
「いつの間に買ってきたの⁈」
驚くチェリンに、ユウはずいっとパジェを突き出した。
「今だよ。はい、あなた達の分」
「あ、ありがと……」「礼を言う」
受け取ったパジェを見て、ハルは瞬きした。
具として中に包まれているのは、照り焼きにされた白身魚と香草、それに新鮮な葉野菜が何種類か。
携帯食として持ち歩く、干し肉を入れたパジェを見慣れていると、別の料理を見ているようだった。
「随分と豪華なパジェだな」
「ぱじぇって言うの、この食べ物?」
「小麦の粉を練った生地に、いろんな具を挟む。歩きながら食べれるから、便利。甘いモノ入れた、デザードパジェなんかも、おすすめ。」
ちょっとだけ笑うと、ユウは街路の塀にひらりと飛び乗った。
「今から行く、公設市場。港沿いにあるの。いろんな物が売ってて、楽しいよ。」
「落ちないでね、ユウ」
それだけ言うと、ラティスは自分のパジェを攻略する事に専念し始めた。
出来立てなのだろう、パジェからは湯気が立っており、胃袋を刺激する匂いを漂わせている。
「……。」
空腹に負けてかじり付くと、香ばしくて甘い白身魚が、口の中でほろりと崩れた。
港町だけに魚介類が豊富なのだろう、とても美味しかった。
「おいしい?」
「あぁ。うまい 」
「そう。なら良かった。」
塀の上から笑いかけられて、ハルは肩をすくめた。
さっさと自分のパジェを平らげ、隣で沈黙する少女に視線を向ける。
「食べないのか」
「ふぇっ⁈」
チェリンは、驚いた仔鹿のように肩を跳ねさせた。
「食べないなら、僕が食うぞ」
「食べるよ。食べるんだけど……」
「けど、何だ」
「えっと…… これが民間食なの、凄いなぁって思ってたの。この料理、すごい豪華だからさ」
そう言って、チェリンはパジェに、ごく控えめにかじり付く。
もぐもぐとパジェを咀嚼する少女を見、ふたり組は顔を見合わせて笑った。
「ラフェンタは交易都市だからね、魚介の他にも食材が豊富なんだ。これから行く公設市場もいろんなものを置いてるから、きっと楽しいはずだよ」




