【いざ、迷宮へ】
酒場での騒動を何とか回避し、事なきを得た翌日の事。
『迷宮転移門の前にて集合すべし』という通知を受けたハルは、チェリンと共に迷宮を訪れていた。
「大きいな、近くで見ると」
ハルは、迷宮を覆う壁を見上げた。
緩やかな弧を描く壁は紅緋色の光が覆われており、触れた手をも淡く染めながら揺らめいている。
「確かに大きいけど……探索しきれないほどの大きさには見えないね」
「中は、外見よりずっと広い。まだ、未踏破のとこもたくさん。」
瞬きをして、ハルは聞き覚えのある声に振り返った。
見ると、腐れ縁にも程がある例のふたり組が、こちらにゆっくりと近付いてくる所だった。
「おはよう、新入りさん」
「おはようございます。ユウさん、ラティス……さん?」
チェリンが、書類に記載されていた名前を自信なさげに唱える。
少年は「その読み方で合ってるよ」と微笑んだ。
「……。迷宮の外見が中の広さと違うというのは、どういう訳なんだ、ラティス氏」
「ラティス氏ってのはむず痒いな。普通に呼び捨てにして良いよ。俺も、君たちの事は呼び捨てにする 」
にこりと笑うと、ラティスは迷宮の壁を軽く叩いた。
「迷宮とこの場所は、連続した空間では無いんだよ。ここにある物体は『迷宮そのもの』じゃなくて、迷宮のある空間に接続するための『術式装置』みたいな物って言えば良いのかな」
「つまりは、ある種の転移装置だという事か?」
「そういう事。」
紫の戦闘服に身を包んだユウが、ハル達を見上げて頷いた。
身軽な動作で石柱のひとつに跳躍し、ひょいひょいと連なる石柱の上を移動してのける。
「迷宮は、特殊な空間。この中は星沁密度が通常より濃くて、中に生息する生物は、みんな『魔物化』している。普通の獣とは違って、問答無用で襲って来る事が多いの……油断する、良くない。」
ユウは石柱が途切れているところに来ると、余裕の動きで地面に降り立った。見た目によらず、高い身体能力を有しているようだ。ならず者あがりの冒険者とは違い、何らかの訓練を受けているのだろう。
「このね、門。転移門っていう。ここが、迷宮への入り口。」
少女が指さしたのは、アーチ構造を持つ巨大な門だった。
当然、門の中の岩壁は途切れているのだが、向こう側は揺らぐ光膜で覆われていて、此方からは内側を窺い知ることができない。
「俺が先に入るよ。やり方を見てて」
ラティスが慣れた様子で門に近付き、すっと手を伸ばした。
その指先が、門を覆う光膜に触れた。刹那。
「っ⁈」
閃光と共に、鈴のように澄んだ音が辺りに響き渡る。
あまりの眩しさに閉じてしまった目を開けた時、少年の姿は既に消えていた。
「「……。」」
「簡単でしょ。」
ユウが唇をつり上げた。
「入るには、その光に触るだけ。君たちも、らてぃを真似て入る。」
「……。あ、あぁ 」
唾を飲み込んで、ハルは一歩前に進み出た。
恐る恐る光膜に触れようと手を伸ばし、ふと、門を縁取る石に視線を留める。
滑らかな石の表面には、見覚えのある記号と方陣の羅列がびっしりと刻まれていた。
「どうかした?」
ユウに声をかけられて、ハルは曖昧に首を振った。
「……。いや、何でもない」
呼気を吐き出し、先ほど姿を消した少年を真似て光膜に触れた。
暖かいような、冷たいような、不思議な感覚が腕を這い上っていく。
「っ!」
不意に、地面の感覚が消失した。
水中でたくさんの泡に包まれたような、くすぐったい感覚が意識全体に覆いかぶさる。
──この感覚、どこかで……。
考える事が出来たのは一瞬。
ハッとした次の瞬間には、ハルの身体は重力によって落下していた。
「__っ⁈」
唐突に、昔見た光景を思い出した。
同じ一座にいた軽業師のひとりが、ハルの見ている前で墜落したのだ。高さはさほどでもなかったのだろうが、運悪く首の骨が折れ、助からなかった。
ハルにとっては、あれが、初めて人が死んだのを見た時で……
走馬燈もどきから解放された時、ハルの背中が柔らかいものに受け止められた。
穏やかに軽減された重力によって地面にずり落ち、座り込んだ状態でため息をつく。
「大丈夫かい?」
頭上からかけられた声に、ハルは無言で頷いた。
苔むした石畳に手をつき、顔を上げると──目の前に、鮮血色の瞳を持つ獣の鼻面が聳え立っていた。
「うわぁっ⁈」
素で驚きの声をあげたハルに、目の前の動物も『ギャンッ⁈』と顔をのけぞらせた。
慌てて腰の片手半剣を抜こうとするが、割り入ってきたラティスが慌ててハルを遮る。
「お、落ち着いてエリハル!この子は俺が飼ってるんだ!」
「……。そうなのか?」
ハルが手を止めたのを見て、ラティスはほっとしたような表情を見せた。
「君を襲うような事はしない。さっき、君の身体を受け止めたのもその子だからね」
巨大な黒犬は、ラティスの声に同意するようにピコピコと耳を動かした。
嬉しそうに揺れている長い尾は、闇夜そのものが形を取ったかのようだ。
「さっきはいなかったよな、この犬……犬?」
「オオカミだよ」
「へぇ」
言いつつ、しめった狼の鼻面をおしのけ、ハルが立ち上がろうとした時だった。
「──っ!」
リン、と鈴を鳴らしたような音がして、空中に赤髪の少女が出現した。
「きゃあっ⁈」
ハル同様、自らの置かれている状況に気付いた少女は悲鳴を上げた。短槍を抱きしめ、深緑色の肩布をたなびかせながら落下してくる。
地面に片膝をついた状態のハル、その真上に──
「ちょっ……。」
──墜落。
「ふぎゅっ」と、つぶれた悲鳴をあげる少女に激突され、背中を強打する。
「ご、ごめんハルっ!」
「……。お前、意外と重いな」
正直な感想を言うや否や、拳骨が飛んで来た。難なく押さえ込み、息を荒げる少女を睨み付ける。
「何をする。本当の事を言っただけだろう」
「あっ、あたしの体重そこまで無いわよっ! 重さの原因、だいたい筋肉だしっ!」
「筋肉だとしても、重いんじゃないか」
「そういうコト言ってんじゃなくてーっ!」
臨戦状態の大角野牛のように、ふーふーと息を荒げる少女。
その勢いに圧倒され、中途半端な姿勢で停止していると、湿ったモノが頬に押し付けられてきた。黒狼の鼻面だ。
「ほらほら、遊んでると魔物が来た時に対処できないよ」
傍目から見ていたラティスに苦笑され、チェリンはハルを殴る勢いを弱めた。
「いしょ。」
間髪入れずに、今度は竜胆色マフラーを巻いたユウが空中に出現する。
『風よ。』
妙な反響を伴う声でユウが唱えると、少女の周囲を淡いすみれ色の燐光が包んだ。
無様な落下を見せたハルたちとは違い、安定の動きで地面に降り立つ。
「ふたりとも、さっそく怪我してない。だいじょぶ?」
燐光を霧散させながら歩み寄ってきた少女に、ハルは訊ねた。
「あぁ。ところで、今のは『星沁術』か」
「うん。わたしは視えないけど、術式、少し使える。今のは、自分の『星沁』を風に換えて、落ちるの相殺した。」
ユウは指を一本立てると、そこにすみれ色の光を纏わせた。
「わたし達が生命力を変換して生み出す、『星沁』。これは、詠唱や式句を媒介にする事によって、『意思を具現化する』ためのチカラ。」
言いながら、指先に小さなつむじ風をつくるユウ。
彼女が指を弾くと、つむじ風はヒュンッと音を立てて消滅した。
「このチカラの出どころは、わたし達の世界より上位の精神世界だと言われてる。わたし達は、その世界に接続する事によって、物理法則を逸脱した現象を起こせるようになる。」
長ったらしい上に今更すぎる常識の説明に、ハルは顔をしかめた。
「つまり、何だ?」
「迷宮の中は、わたし達の住む世界より、精神世界……『星幽界』に近い。だから、迷宮に棲む魔物は、日常的に星沁力を強化している。迷宮外で見る魔物の同種でも、普通より強い。気を付けないといけない。」
「まぁ、続きの説明は歩きながらしようか。まずは任務の話だ」
脇に鼻面を突っ込んで甘える黒狼をひと撫ですると、ラティスはふたりの視界を遮らない位置に移動した。
「さっそくだけど、周りを見てくれる?」
その言葉に、ハル達は改めて周囲を見回した。
極彩色の花が咲き乱れる、見通しの良い森だ。樹木はひとつひとつが恐ろしく巨大で、崩れかかった石像や建造物に根を絡ませている。
一見するとただの森林遺跡のようだが、ここが迷宮なのだとはっきり分かる事がひとつあった。空が、淡い紅色を帯びて揺らめいているのだ。
「ここが、迷宮と外を繋ぐ唯一の出入口だ。俺たち迷宮冒険者は、ここから探索を開始する。探索範囲によっては野営することもあるけど、今回は日帰りで済ますつもりだよ」
レッグポーチを漁り始めるラティスに代わり、今度はユウが言葉を継いだ。
「迷宮は、街と違って冷え込むこともあるけど……あなた達は、大丈夫そう。やっぱり旅慣れしてる子の方が、基礎はできてる。」
ほぼ旅装備のままのふたりを見て、ユウは満足げに頷いた。
日差しはきついが、道の両脇を流れる水路のおかげだろう、体感温度はさほどでも無かった。木陰にいると、少し肌寒いくらいだ。
「前置きが長くなっちゃったけど、任務の説明、するね。あなた達には、これから渡す地図を使って、指定された場所まで行って貰う。そこで薬草、採取して、わたし達に渡せば、任務完了。力量の判定をして、冒険者組合に正式登録できる……らてぃ。」
少女に目配せされた少年は、手に持っていたものをハル達に差し出してきた。
「はい、どうぞ。南迷宮冒険者用の地図が入った、初心者用の攻略本だよ」
受け取ったそれは、堅革の表紙が付いた手帳だった。
表紙の裏には折りたたまれた地形図、中のページには、罠の解除法や魔物の生態について説明しているらしい文字がびっしりと羅列されている。
「……。僕は、ほとんど文字が読めないんだが」
ページをめくりながらハルが唸ると、ラティスが微笑んだ。
「今回は、地図が読めれば大丈夫だよ。魔物の知識は、一朝一夕で身に付くものじゃないしね」
「大丈夫だよハル。あたし、少し読めるから」
同じくページをめくっていたチェリンに言われ、ハルは頷いた。
手帳の中身を解読することは後回しにして、取りあえず地図を広げる。色や挿絵を付けて分かりやすくした、丁寧な地図だった。
「向かうのは、c-5地点にある【百華の滝】だよ。分からないことがあったら何でも聞いてくれて構わないけど、なるべく自力でたどり着いてみてくれ」
「……。分かった」
頷き、ハルは道に沿って歩き出した。
地図にある通り、太い道には苔むした石畳が敷かれている。目印になる木や石碑を覚えながら淡々と進んでいると、隣にいたチェリンが「きゃあっ⁈」と、悲鳴をあげて飛びのいた。
「どうした」
「そ、そこの花が」
そう言ってチェリンが指さした先には、スミレのような花が群生している。
この花がどうかしたかと訊ねる前に──その花が、一斉にブルブルと震えはじめた。
「ふたりとも、二歩下がって」
落ち着き払った少年の声に、ハル達は素直に従った。
一歩、二歩と花から距離を取ると、揺れていた花が静まり返る。
「……。なんだ、この花」
「人喰い花の幼生。まだ大した力はない。でも、噛まれると、ちょっと痛い。」
『キーッ』と、甲高い悲鳴をあげる花をぽいぽい茂みに放り込むユウを眺めながら、ラティスが言った。
「迷宮だと、予想のつかない所から襲われる事もあるからね。普通は、地図を読む人を前衛の人が守りながら歩くんだ。君たちみたいに少人数だとそれが出来ないから、地図を読むときにも注意を怠らないようにね」
ラティスはにこにことしている。
人喰い花の存在に気付いていながら、わざと忠告しなかったのだろう。
「む……。」
大事には至らなかったものの、探索早々から不意打ちを受けかけたふたりは、顔を見合わせた。
どうやら、迷宮探索に伴う危険というのは、旅の危険とはひと味違うモノらしい。
♢♢♢
地図を読み、魔物と交戦し、どう考えても勝てない相手は隠れてやり過ごし、また地図を読み……という行動を繰り返しながら進んで、二刻ほど経った頃だったろうか。
「わぁ!」
ハルと交代で前衛を担当していたチェリンが、一足先に歓声をあげた。彼女の視線の先にあるのは、遺跡に寄り添うように轟く滝だった。
「着いたね。ここが、【華水の滝】だよ。」
ぴょんと飛びだしたユウは、滝壺のほとりに設置された竹管の方に歩いて行った。
滝の上部から池のほとりまでを繋いだそれからは、澄んだ清水が絶えず零れている。
「ここね、泊りがけで来る冒険者の、休息場所でもあるの。滝壺で水浴びしたりもするから、気の利いた人が、飲み水補給機付けた。」
「へぇ……。」
近づけば近づくほど、轟音と共に顔にかかる水しぶきの量も増していく。
滝つぼを覗き込むと、怖いほど澄んだ瑠璃色の水に、色鮮やかな花々がいくつも浮かんでいるのが見えた。
【華水の滝】の名は、この華やかな花たちが由来なのだろう。
「ここ、綺麗だから、わたしは好き。でも今回の本題は、こっち。」
そう言ってユウが指差したのは、茂みから突き出た、砕けた石柱の破片だった。黄色い花が生い茂る草地を覗き込むと、砕けた白い翼が目に映る。
そのまま視線を上げると、人間にしては巨大すぎる影が視界に飛び込んできた。ギョッとして身構えるが、その影はぴくりとも動かない。
「……?」
改めて見上げたそれは、白亜の石を削ってつくられた彫像だった。
残った片翼を虚空に広げ、目を伏せ祈る、悲しげな女性を模っている。
「驚いた。よく出来てるな」
「うん。名前は大仰ちゃん。」
「……。は?」
思わず間抜けな声を上げてしまったハルに、ユウは肩をすくめて見せた。
「なんか動きが大仰だから。」
そう言って彫像から視線を外すと、少女は群生して咲いている黄色い花を指差した。
「ここの薬花、質がいい。薬花はここで採取する。でも、その前に三十分休憩。声かけるまでは、休んでていいよ。」
そう言うと、ユウは彫像から少し離れた石柱にちょこんと腰掛けた。
「……? 」
適当な休憩場所を見繕ろうとして、周囲を見回したハルは、チェリンが彫像の真下にしゃがみ込むのを見て足を止めた。
「その像、何か気になることでもあるのか? 」
赤髪の少女は、彫像の足元に埋め込まれた石板を丁寧に指でなぞった。
「ココーラ・ゲーティバラ 」
「コ……。何だって?」
「ココーラって女神の像なんだよ。冥界を飛び回って、死者を監視するの」
そう言って、少女は顔をあげた。
薄紅色に染まった青空を見上げ、微かな声でつぶやく。
「ここ、本当に迷宮なんだな……」
深いため息をつくと、少女は再び石板に目を落とす。
つられて石板を見下ろしたハルは、眉をひそめた。
──天刻文字。
鋭角的な線を連ねて描く、古代の神聖文字だ。日常生活ではまず目にしないそれが丁寧に刻み込まれた石板に、ハルが顔を寄せようとした、その時。
「“時は満ちた。目覚めよ” 」
同じように石板を見ていた少女が、ぽつりと呟いた。
「読めるのか、お前」
返事をしない少女に視線を向けたハルは、ギョッと目を見開いた。
少女の瞳の色が、変わっている。
濃い琥珀色をしていたはずの瞳が、赤みを帯びた金褐色に変化しているのだ。
「おい、お前」
『時は満ちた。目覚めよ、白き翼。呼び醒ませ、紅の翼……』
どこか虚ろな表情で言葉を紡ぐ、チェリンの身体が。
次に、彼女が触れている彫像そのものが薄紅色の星沁光を纏うのを見て、ハルは戦慄した。
(術式が、発動している……?)
術式に明るくないハルは、何が起きているのか分からずに、動きを止める。
「エリハル、やめさせろ!」
行動に迷った彼を貫いたのは、冷静さをかなぐり捨てた術師の声だった。
「結界が展開されてる。閉じ込められるぞ!」




