シュレディンガーの煙草
「あー。畜生切れちまってるじゃねえか。クソウ! おい、ルイス。タバコくれよタバコ。切らしてんだ」
「生憎と、俺もフィリップモリスしか無くてね。良ければどうぞ」
「おいおい、メンソールってのはどういう事だ? あァ?」
「メンソールは嫌いかね、サイラスくん。それに嫌いなら、五本も持っていく必要は無いだろう?」
「あんなのはアマが吸うもんだ。第一、吸った時が良くねえ。金出して煙買ってんのに、メンソールの方が主役に思えるってのはどうなんだ、え? タバコなのにタバコが添え物ってのは尻の収まりが悪いぜ。まったく」
「じゃ、吸わなきゃ良いじゃないか。それで片が付く。世は事も無しだ。そうだろ兄弟」
「いいや違うね。俺がスモーキーサイラスって言われてる以上、切らす訳にはいかねぇ。そうだろ、判ってる。このフィリップモリスはきっちり三箱、確実に三箱にして返してやるよ。安いもんだろ。投資だ、投資だと思えばこんな罵詈雑言、屁でもねえだろ」
「絶対だろうな。返ってこない投資ってのは、ドブにドル札を放り込んで、豚の尻でも拭くより嫌なんだ、俺。絶対なんだろうな」
「このスモーキーサイラス、必ず約束は守るぜ。間違いなくな」
「期待しておくぜ。あばよ」
と言って、俺ことルイス・リッケンバッカーはスモーキーサイラスと分かれた。結局俺はサイラスにメンソールのフィリップモリスを取られたせいで、残すところ一本だけだ。一本てのは良くない。すぐ無くなってしまう。備えあれば憂いなし、がモットーの俺は、その足で自販機を探した。
しかし、こう田舎町だと自販機すら見あたらないものなのか。重力発生装置が錆び付き、気圧安定装置がやけに大きすぎる排気音を鳴らしている以上、人の手が入らなくなって結構な時間が経過しているのだろう。
眼下に見下ろすには新地球。おっと、新月の様なもので、丸い地球がすっきりと見えるという意味だ。
俺がこんな辺境に来たのもワケがある。何でも廃坑に、最近発見された未知の微粒子が大量に沸いてるとかで、機械整備士としてはそこそこ知られてる俺が呼ばれたのである。
その微粒子はとてもつもなくおかしな性質を持っていて、例えばその粒子を満たしたビーカーに、マウスを入れてやるとする。
白いマウスだ。実験によく使われるアイツだ。
すると、マウスはチューチューと鳴き、至って健康そうで、そのビーカーから出してやれば、元気を持て余して回し車を余計に回す程だ。
しかし、ある時、いつもと同じように数分だけ入れ、全然異常が無い事を確認し、ビーカーから出そうとし、ビーカーの穴を覗き込んだ途端、数年は死んでから経ったと思われる白骨化したハムスターを見つけたそうだ。
その後、研究が進む内、その微粒子の特性が漸く白日の下に曝された。
あの微粒子の中で満たされた空間に居る内は、外の世界と何ら変わりはない。いや正確には、外から見ている分には問題はない。
しかし、外の世界と繋がった瞬間、実は中では現実世界の数百倍の速度で時間が流れていた、或いは数百分の一の速度で時間が流れていたか、もしくは全く同じ尺度かという、時間の流れが、現実世界と大きくズレるっていう現象を起こすらしいって事が判った。
どうも、周りから見ててもその変化ってのは全く判らんらしい。
生物時間って物がある。どんな生物も脈拍が打つ回数は同じで、その規定回数を打ち終わった時が寿命だっていうものだ。
ネズミの方がゾウより全然脈を打つ頻度は早い。だから急速に年は取るが、それを違う生物時間を生きている俺達は、急速、としか見ることが出来ない。
同じように、生物時間が異なっている事をどうも、人間ていう不器用な生き物は判別できないらしい。そんな馬鹿な、って話だが、えらい学者がそう唱えた以上、一介の機械整備士が意義を唱えるのは認められない。
話が長くなった。で、俺はその微粒子をギチギチに詰めた容器を、運搬する機械の整備を頼まれたんだ。
そうこうしている内に、俺は自販機を見つけた。ビンゴだ。
「……くそう、売り切れだ」
全然ビンゴじゃなかった。しかもお誂え向きに、残ってるのはラッキーストライク。大当たり、ってワケだ。まったく。
俺はスモーキーサイラスってワケじゃないが、この先タバコも無しにやっていくのは辛い。俺のモットーは備えあれば憂いなしだ。
仕方無い、と見込んで俺は三箱買った。まったく。我ながらモットーに振り回される。
「ちょっと、こんな所に! リッケンバッカーさん、すぐ来て下さい!」
息せき切って、全力疾走してきた青いツナギを着た男が、必死の形相で俺に叫んだ。
「何があったんだ? 騒々しい。俺は騒がしいのは好かないタチなんだ。落ち着いて話してくれないか?」
「落ち着いて話してられるなら、誰もこんなに汗まみれになって走って来ないですよ! 大変なんです、スモーキーサイラスが、廃坑に落っこちちゃいました。
「それは一大事だな。すぐ行こう」
この青ツナギが言うには、廃坑で新しく湧き出す所を見つけ出そうとしている内に、スモーキーサイラスは足を踏み外して落っこちたらしい。全く、ツいてない男だ。
「生きてるのか?」
「生きてる、らしいです。通信機から声が漏れてるらしいんで。でも、どうやら完全に出口が塞がれてるらしいんです」
「らしいばっかりだな。何でそんなにはっきり言えないんだ?」
「その……。あの微粒子が取り巻いてる場所なんです。で、その」
「ビンゴ。シュレディンガーの猫。差詰め、シュレディンガーのスモーキーサイラスってワケだ」
「何です、それ」
完全に密閉できて、周りからは見えない箱の中に猫を一匹入れる。箱の中には他に、ラジウム、粒子検出器、さらに青酸ガスの発生装置もだ。もし箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これを検出器が感知して、青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスが出る以上、猫は死ぬ。しかし、アルファ粒子が出なければ検出器は作動せず、猫は生き残る。
この思考実験をシュレディンガーの猫という。趣味の悪い話だ。しかし、実際のところ、スモーキーサイラスはその状況下ってワケだ。
「リッケンバッカーさんはサイラスさんとは?」
「三年ばかし仕事をした仲だな。だが助ける義理はある。良いぜ、助けに行こうじゃないか」
そう言って、五人ばかりの捜索隊が組まれ、サイラスが落盤の向こう側に居るって所までは辿り着いた。問題は、そこからだ。
「おいサイラス、生きてるのか?」
「ルイスか。来てくれたのか」
「ああ、そりゃ来るさ。あんたにゃ義理がある。で、アンタも判ってる通り、ここからが重要だ。サイラスさんよ、俺にちょっと考えがある。アンタ、ラッキーストライクは好きか?」
「嫌いじゃないな。少なくともお前さんに貰ったフィリップモリスのメンソールよりは好きだな」
「そいつは結構。手元には何本ある? タバコだ、タバコ」
「さっきアンタに貰った、フィリップモリスのメンソールが四本だけだぜ。それがどうかしたのか?」
「吸うんだ。声は聞こえんだろ、俺達の声が聞こえる方に顔向けて、吸うんだ。オーケイ、判ったかスモーキーサイラス」
「ちっとも判りやしねえ、そんな事して何になるってんだ!」
「シュレディンガーの猫はニャーニャー鳴こうが喚こうが、アルファ粒子の発生には関与できやしねえ。もし中で青酸ガスの発生装置を破壊すれば、絶対に生還出来るんだ。
ビーカーの中のマウスもそうだ。チューチュー喚いた所で、微粒子には逆らえない。でもスモーキーサイラス、アンタは逆らえるじゃないか」
見ると、メンソールの香りが岩盤の隙間から漏れ出ている。
「アンタはこの瞬間生きてる。タバコが漏れてる以上、アンタはこっちの世界でも生きてるんだ。意味、判るか?」
「判らねえよ!」
「ま、そうだろうな」
だが、メンソールの煙は、岩盤の隙間から漏れ出続けている。
俺は、その煙が出ていない方向に、微細な穴を開けた。人が一人通れるか通れないかってくらいの穴だ。
其処から覗き込んだ時、スモーキーサイラスは涙目でこっちを見た。
「どうして俺にフィリップモリスを?」
「タバコを吸うマウスは居ないだろ? それだけさ」
「俺生きてるぜ、ルイス! しかし、何だって助けに来たんだ?」
「ああ。ラッキーストライクを引き取って貰って、お前さんにフィリップモリスを三箱貰うんだ。安い買い物だろ」
「ああ、でもルイス。俺はラッキーストライクは好きだが、今日からは止めだ」
「何でだ?」
「今日からは、フィリップモリスのメンソールが、俺のラッキーストライクになっちまったのさ」
「やれやれ。好きにしてくれ」
俺は苦笑いをしながら、タバコに火を点けた。
「いけね。ラッキーストライクだ、これ」