2.オールド・ブルー・ローゼズ
目が覚めたとき、俺は服を着替えることもなくだらしなくベッドに横たわっていた。
起き上がると、ワインの空き瓶が枕もとに転がっていた。
適当につけたテレビが、正午過ぎを告げている。
一人で深酒して寝入って、寝坊したとしか思えなかった。
あーぁ……と、呻き声のような溜息らしきものを上げ、俺は再びベッドにひっくりかえった。
(夢……だったんだな。あれは)
だよな、先生が俺なんか相手にするわけないだろ……と、苦笑が漏れた。ひどいかすれ声だ。
冷静に考えてみればそうだ。どこをどうして元来た道を運転して帰宅したか覚えていないし、先生を家に送った覚えもないし、俺の家の玄関の戸締りはされている。そういうわけで昨晩の出来事は疲労が見せた夢だった……という、もっとも合理的な結論に落ち着くまでに、さほど時間はかからなかった。
(そういえば、このワインどこから出てきた?)
外さずに寝落ちしてしまったコンタクトレンズが眼球に張り付いて、しばし涙目になる。
霞む目をこすりこすり、じっとワインの銘柄を見る。買った記憶こそないものの、自室には後輩や友人が適当にだべって置いて行った酒もあったので、それを飲んだという線もなきにしもあらず。
空き瓶をゴミに出し、アパートのゴミ共同収集場のフェンスを締めながら、どうしても呑み込めない疑問を反芻する。
(部分的には、現実だった?)
先生と海へ行ったのは事実なのか?
それとも、分析室の前で先生と会ったのが、夢――?
先生が末期癌だというのも? どこまで……やはり、全てが?
(もしかして、あの後、前後不覚のままこの部屋に彼女を連れ込んで……)
下着はつけていて、身に覚えは……ないし、体や服にビーチの砂などもついていなかった。
(夢か……はぁ……)
どっと疲労が押し寄せ、同時に気が抜けた。今日は一日、何もする気にならない。
あれは夢だ。
俺は起きて大学に行けば、先生はいつも通り俺になんて目もくれず、忙しそうに論文を読みながら共通機器室で測定をしているんだ……。何もかも、いつも通りなんだ……
どちらにしろ、先生が癌だなんて、後味の悪い夢を見たものだ。
それでもむしょうに、先生に会いたくなった。その日は土曜日だったけれど、ほぼ毎日研究室にいる先生に会うのは容易だろうし、根掘り葉掘りは聞かなくても事実は確認できる。
俺はそう、軽く考えていた――。
その日は先生には会えなかったし、以来、俺は先生を見ていない。
もっとも確からしい可能性を考慮すると、先生が最後に会ったかもしれないのが、俺だということになる。
先生は死んだ。
自宅で自殺、遺書などはなかった。
彼女の葬儀は遺族の強い希望により密葬となったため、大学の教職員すら参列できなかった。自殺の理由や状況等が一切分からず、学生や教職員の間で憶測が憶測を呼んだ。
数カ月して、どこからともなく「先生、病気だったらしいよ」、という噂が流れた。
「何か色々仕事抱えてて、大変そうだったもんな」
「プライベートもないほど研究室にいたし、仕事だけしかなかったのかな」
「才女だったのに、勿体なかった」
「美人薄命というか」
「やりかけの研究どうすんだろ、引き継ぎとか、業績とか」
「教授や准教授が仲良く総取りだろ」
彼女をよく知らない学生が、そんな無責任なことを言った。完全にゴシップ扱いだ。俺はその話題になると、聞き流して加わらなかった。夢の中で最後に会った先生に、顔向けできなくなるような気がしたから……。
先生の霊前に手を合せる機会も失して、大学から先生の籍が消えると、彼女はまるで最初からいなかったのように、それきりになった。先生と俺との関係は、始まってもいなかった。
だから俺は、あの夜のことはすべて夢の中の出来事だと自身に言い聞かせている。
ただ、彼女のキスの甘さと果実の味は妙にリアルで、その感触は何年経っても薄らぐことはなかった。
月日は過ぎ、俺は大学院を修了後、大手製薬会社の研究開発部に所属し、今年ではや社会人十五年目を迎えた。
今や責任あるプロジェクトを任され、仕事もプライベートも軌道に乗った時期だ。社内の地位も上がり部下もふえ、プレゼンテーションに海外を飛び回り、人並みの家庭も得た。そして日々の暮らしと研究に追われ、先生の死も意識の片隅からさえ消えてしまっていた。
転機が訪れたのは、そんな折のことだった。
とある学術報告が、ニュースをにぎわした。
未知の一本鎖RNAウイルスが、世界同時多発的に、高度な多様性をもって世界中の異なる地域に住む人々から次々と同定されたというのだ。
驚くべきことにそれは既に世界中の大多数の人間の体細胞(somatic cells)に感染し、ここ数十年のうちに静かに流行し、流行後は持続感染していた。ウイルスの病原性は低く感染価は高いのだが臨床症状が殆ど現れず、ウイルスゲノムがごく微量であったため発見が遅れたのだ。この珍しいウイルスの危険性は特に指摘されなかったし、実験環境下では生体内(in vivo)でも試験管環境内(in vitro)ですらも増殖させることができなかった。
発見の第一報からわずか数カ月後。
全地球規模で激変が生じた。
この、暫定的には病原性はないとみなされていたRNAウイルスに感染したヒトの体細胞は、一斉に腫瘍細胞へ悪性転化を誘導しはじめたのだ。
もはや最悪の展開だった。
感染者は全身に腫瘤を生じ炎症反応を誘導、更に全身転移を繰り返し、腹水、胸水が貯留、癌性腹膜炎などを併発し、またたく間に亡くなるという転帰がみられた。
そのウイルスは、あたかもタイマーが仕掛けられていたかのように同時的に活性化され、未分化の、異常に増殖能力の高い、非常に悪性度の高いがんのようにふるまった。
ウイルスは国家を、大陸を、海洋を越えて人々を飲み込み、驚くべき拡散規模で世界中を未曾有に恐怖に陥しいれた。
阿鼻叫喚のパニックの中、感染の拡大と発症を十分にくい止めることは出来なくなり、WHOは非常事態宣言を発令する。
全人類の知性に、デッドライン付きの挑戦状が叩き付けられている。
このウイルスは変異を起こしやすく、多くのバリアントがあり、分析も追いつかない。しかしさまざまな経歴を持つ人間が亡くなった中で、蓄積されたデータから、悪性転化を誘導された人間は紛争地域で有意に多く見られる、ということが明るみに出た。
性差もあった。男性が、女性の3倍程度発症率が高かった。
また、小児ではほぼ発症しない。
最初は人種依存的なものかとみられたが、人種を問わず治安の悪い地域でも発症率が高かったし、重犯罪者、素行不良者は特に発症リスクを高めたというのは、刑務所での罹患率が異常に高かったからだ。
特定の組織や集団を狙ったテロだ、あるいは極秘開発中の生物兵器ではないか――どちらにしろ、その感染様式の特異性から、自然発生的にによって生じたウイルスではなく、人が故意に造りだした、実験室で作製されたウイルスベクターなのではないかと誰もが疑った。
各国でウイルスベクターの開発者捜しが始まった頃、このウイルスは人間の攻撃性や悪意に反応するのでは、と、誰もが漠然と考え始めた。
その話はインターネットや世論を通じ、大きなうねりとなって世界中に拡散していった。
……そして彼らは、各々が胸に手を当て、自身の過去と罪に向き合うに至ったのだ。
果たして自分は、よい人間なのか、裁かれるべき人間なのか――。
各国研究機関でも、その分野で著名な研究者が数多くこのベクターによって病死し、研究室運営が立ち行かなくなったケースも生じていた。
専門家が不足し、猫の手も借りたい政府の要請を受け、俺の会社にも嬉しくないお鉢が回ってきた。俺の研究グループはそれまでの全てのプロジェクトを止め、未知の腫瘍ウイルスの克服に取り組むことになった。上司や同僚たちが次々と感染し倒れてゆくなか、もはや時間との闘いとなった。
今日も俺は研究室でほとんど全容の見えない……ゲノムデータバンクによって公表された腫瘍ウイルスのゲノムデータを取り寄せる。ノイズのような遺伝子発現解析結果をかき集め、解析ソフトに放り込み、パラメータを変え、切り貼りをして再配列、その悪意に満ち満ちた全容を俯瞰しながら。連日の解析をもってしても、真相は分からない。俺と部下は白旗を上げそうになっていた。しかし、敗北は許されないのだ。
「まったく、何なんだこれは……バリアントがありすぎだ。一人一人で、感染状態が違う」
「困りましたね……報告されているコアとなるユニットはいくつかありますが、必須の構造ではなく、全貌が見えてきません」
俺がデスク下に大きく足を投げ出したと同時に、部下も頭を抱えた。手持無沙汰にコーヒーをあおり、スナックをつまむ。ストレスから、胃の痛みを覚えて久しかった。
「でも……人が造ったのだとしたら、出来過ぎていないか」
ウイルスのどこかに遺伝子発現スイッチ、もしくは発現タイマーが仕掛けられてる……そう考えると、精巧にウイルスに擬装した、ウイルスベクターと見ることができる構成ではあった。ある種の腫瘍に特徴的なDNA再編成を利用し、各種シーカー遺伝子群、マーカーを発現するようにコンストラクトが組まれていると考えれば無理やり納得できないでもない。どこかのラボから組換えサンプルが漏れたのではないかという疑惑は既に、同業者を中心にじわじわと広まりつつあったが、オーダーメイド式で造られたのかと錯覚するほどに、ひとりひとりの患者で感染状態が違う。
確かにウイルスゲノムにあまりにも人為的な介入の痕跡が多く(たとえば多くの制限酵素サイトを利用した形跡があるし、相同組換えサイトに似たサイトも散見される)、感染の確立が速く最適化され、ジャンクも少なく、無駄がなさすぎる。しかも、通常、腫瘍ウイルスが誘発するがん細胞は免疫応答によって排除されるものだが、このウイルスはうまく免疫系を回避しつつ、増殖力を維持している。
人が造ったものならば、そのウイルスに手を加えるのも簡単だ。具体的には、同じ方法でウイルスの増殖を抑える阻害剤や拮抗剤をデザインし、患者に投与すればいい。
だが、もう殆どの人間がこれに感染し、ウイルスは細胞の中で機を覗い、染色体中に組み込まれつつある。そして、発症は前がん病変のない(発がんの兆候のない)正常細胞が、腫瘍化への中間体を経ずに突然同時多発的にがん化するデノボ(de novo)、と呼ばれる病変である。これが、一度がん化すると成長が速く、手におえないのだ。
これを人が造ったとするなら、造った人間は相当な切れ者だ。
俺の体内からもウイルスは検出されたが、幸いまだ腫瘍化を誘導していない。
それでも、発病するのは時間の問題で、俺の命は風前の灯火だ。
俺もまた体内に爆弾を抱えつつ、一筋の光を求めていた。
月の出ない昏い海を、あてどもなく泳ぎ続けているかのように。
*
それは、そんな日々が続いていたある日曜日のことだった。
俺は休暇で、徹夜続きの体を休めることにしたものの、それでも何かをせずにはいられず、家で論文やデータを片手にゴロゴロと過ごしていた。
そんな俺宛に小包が届いた。豪雨とともに、珍しい代物がやってきた。
「タイムカプセル小包?」
受け取った経験がなかったため、尋ねかえした。まったくといって心当たりがない。
「そうです、横山 修一さんご本人ですよね。あなた宛てに、間違いありません。ああ、これは16年前からのお届けですね、住所が御実家でよかった」
ずぶぬれの郵便配達員は、配達伝票を見て頷いた。この日に届けてくれ、という注文があったらしい。この世界的アウトブレイクのさなか、郵便が届くというのも、さすが日本の勤勉さというか、本当に有難いことだ。
「そうですか……」
何度思い起こしても差出人に、覚えはなかった。恐らく名前はフェイクだ。取引先にそんな人がいたっけか、と気を取り直し、まあいいかと小包を開けにかかった。
中から出てきたのは、厳重にシールされた、ジップ付きの保存容器。プリザーブドフラワーと思われるブルーローズの花束だった。三重ほどに包装してある。こんなにご丁寧に密封してあるのは湿気を嫌ってのことか、と俺はその時は何気なく思った。
「あら、あなた。そんな立派な花束、誰から?」
途方に暮れていた俺を見つけた妻が疑わしげに覗き込むが、やましい覚えもなければ、差出人に記憶にもないのだ。妻が数えたところによると40本ほどが、レースのリボンで束ねられている。
小包の底から、封筒入りのメッセージカードが出てきた。
【一日早いけど40歳の誕生日おめでとう、お元気ですか?】
当たり障りのない内容が書かれていた。
印刷されていて、筆跡は分からない。
「これ、誰なの? 本当は浮気相手なんじゃないの?」
冗談めかして妻は尋ねるが、目元は笑っていない。事と次第によっては、妻の容赦ない追及が始まりそうだ。
「そんなバカなことがあるかい、16年前からの小包なんだぞ。俺がまだ学生だった頃だ」
「……そう言われれば、そうね」
俺はメッセージカードの裏に何がしかのアドレスが記載されていることに気付き、こっそりとカードをポケットに忍ばせた。
「変なこともあるものね」
妻と子が寝付いてから、俺はリビングで一人こっそりとモバイルを立ち上げ、メッセージカード裏のアドレスにアクセスを試みた。驚くべきことに、16年前のアドレスは有効だった。アクセス後、すぐに映像が自動で再生されはじめて、俺は慌てて音量を下げた。懐かしくなるほど古い形式のファイルだ、しかも2Dだ。いかにも過去からのメッセージらしい。
夜の海のような映像に繋がった。遠景には見慣れた橋が見える。
潮騒音がやけに鮮明に録音されている。
画面が暗いので、俺は昏さに目がなじむよう、無意識に画面に近づく。
【久しぶりね、横山君。元気かしら?】
何もかも見透かすような第一声に、ぎくりと、俺の心臓の鼓動は跳ね上がった。
若い女の映像が再生された。
【気分がすぐれない?】
ぽつんと灯された電灯の明かりに浮かび上がった、黒のワンピースと黒いベールをつけた女。群青色のバラの花束をこちらに差し向けて、あやしく微笑んでいた。その異様な佇まいは、視覚に恐怖を押し付けてくる。
「先……生……?」
俺は彼女が曽我先生だと気付くまで、暫くの時間を要した。何しろ彼女は、あの日見たままの姿だったから。そして俺は彼女を死者として記憶を整理した後だったから。
夢の続きに、繋がったような気がした。
【わたしのこと、覚えている?】
「何で、今……あなたが」
【”正体不明のウイルス”が世界中に蔓延しているでしょう? ふふ、ちょうどその頃合いだと思ってね】
「なんてこと……言うんですか」
それは、現在進行形で世界中を大パニックに陥れている腫瘍ウイルスベクターのことなのか。先生がやったのか……! 今は亡き先生が……俺は崖から突き落されたような衝撃に襲われた。
「まさか、先生が。嘘だと言ってください」
【そう、わたしが、わたしのいない未来に向けて送り出したものよ】
死者から明かされる絶望的な言葉の数々。それらを受け止めるための、心の準備が整わない。認めたくない、彼女がこの世にいないだなんて。俺は混乱する頭を冷やすべく、無意識に一度接続を切ろうとしていた。しかし先生は俺が絶望しきったタイミングを見計らい、からかうかのように薄く微笑んで
【ひどい顔をしているね。約束、思い出した?】
そう、訊ねたんだ。やはり彼女は俺を見ているかのよう。その瞳は穏やかで、優しい三日月を描いていた。しかし、俺の眼には狂気を孕んだ笑みにしか見えず、おぞましさに総毛立った。
【忘れていた時のために、もう一度伝えておくわ】
俺が返事をしてもしなくても、彼女は俺と会話をしているかのように訥々と話を進めてゆく。彼女は、既にいない。消え去った過去からアクセスをしている。
話は一方通行で、もうこの世にはいないのだと強く印象付けられた。
その存在は、幽霊そのものだ。
【その時が来たら、光らせてほしい、それが約束だったの】
先生は黒いベールを滑らせ、落した。風にさらわれて、闇に溶けて消えた。
「その時」が、今だということなのだろう。
そうだった、あれが夢でなければ、俺は彼女と約束を交わしたことになっていた。
まさか今になって「約束」を突きつけられるなどと露とも知らず、口約束で済まなくなったことを後悔した。こちらからの意思疎通が不可能になった以上、無かったことには、おそらくできない!
俺の脳の血流がざあ、と音をたてて引いてゆく。
それでも鮮やかにフラッシュバックする、澄み渡る青い蛍光の色彩。
一面に広がる夜光虫の波紋の幻想。
鏡面を波立たせ、拡散してゆく彼女のそれらの残渣。
認めざるを得なかった、彼女の肉体は滅んでも、遺志はまだ生きているということを。
夢の続きが、現実世界にリンクした。
「何を、はじめようとしているんだ……先生。もう、もうやめてください」
カメラはズームアウトする……彼女の足元には、一人の男が横たわっている……。
彼女はゆっくりと、男の耳元で、いたずらっぽく彼に問いかけた。
【ねぇ、横山くん。青い薔薇の香りはどうだった?】
いい気な顔をしていびきをかいているその青年は、16年前の、俺だ――。
俺は彼女の言葉の意味を理解し、椅子から転げ落ちて震えた。
――ゆるやかに動き出した彼女の計画は、止まらない。
【世界は生まれ変わるわ】
そして、先生の口から発音は聞き取れなかったけれど、最後にこう動いたと思う。
ハッピー・バースディ。
俺が呆然としている間に、通信は切れた。
はっと我に返り、映像を記録しようともう一度アドレスにアクセスしたが、もう二度と映像は再生されなかった。ある思いが俺の中で頭をもたげた。
あの夜のキスは現実で、信じられない重みを持っていた。
先生の遺した最期の仕事を、俺たちはいままさに見届けているさなかだ。
そして俺は、彼女から最も近い距離にいる――。