1.ノクティルカ・ブルー
「おーい、横山君!」
深夜、大学院・薬学総合研究棟Cの3階。
共通機器室のオートロックが閉まったところで、背後から声をかけられた。
俺は薬学研究科の大学院二年生。来月に迫った国際学会発表の為にデータ収集に追い込みをかけていたところだった。
ブラック缶コーヒーを差し出し、声をかけてきた若い女性は純白の白衣が似合った。彼女は長い黒髪を横に流して束ね、前髪をわけておでこを出している。額に汗がうっすらと浮かんでいた。
「ああ、先生! こんばんは」
「真夜中の1時20分に頑張る学生君には、ご褒美をあげないとね。飲んで」
彼女は隣の研究室の美人助教先生で、俺の密かな憧れの人でもある。
先生は俺と同じ共通機器室を頻繁に利用していた。
時間を告げられてしまうと、急に睡魔に襲われる。この時間のコーヒーはありがたい。
「どうも先生、コーヒーありがとうございます!」
いいの。ささやかだけど労いたいから。そう言った彼女は、サンプルの詰め込まれたアイスボックスとノートを抱え両手の塞がっていた俺に気をきかせて、コーヒー缶を白衣のポケットに無理やり突っ込んできた。先生の指が触れた腰のあたりがひやりとした。
「せ、先生こそ、今から観察ですか。終わりましたので、どうぞ」
平静を取り繕いながら質問を投げた俺に、彼女はううん、と首を振る。今日は予定のところまではもう終わり、帰ってもいんだけど……と楽しげに囀った。
「努力家は好きだよ。調子は?」
先生は腕組みをし、背を壁に凭せ掛ける。膝を高く引きあげ、誘うような視線で俺を見据えていて、脈があるのではと勘違いをしそうになる。俺は一瞬言葉に詰まり、しどろもどろになりながら
「標的タンパク質に蛍光タグをつけて、とある腫瘍細胞の経時的血管新生のパターンを見てるんですけど……思うようにいったり、いかなかったりで。局在が特定できなかったり……でも何とかデータをまとめているところです」
実験内容というのは、他の研究室メンバーには曖昧に話すのがお約束だ。ましてや未発表の結果は、口外無用と教授から厳しく言われている。学内といえど、成果を争う競争社会では誰もがライバルである。そういうわけで、他の研究室の研究者とは、実験手法を話す際にも、サンプル名をぼかしたやり取りになる。
「そう。共焦点でなくて多光子レーザーで撮ればいいのに。三次元分解能が弱いでしょう」
痛いところをついてくる。今、撮影している顕微鏡より、多光子励起レーザー顕微鏡で撮影すれば確かに、微細かつ鮮明で深度のある内部構造を観察できるということは知っている。が、時間当たりの機器使用料は高く、学生には贅沢な観察方法だった。
「発現チェックだけなので、コンフォーカルでいいです」
共焦点レーザー顕微鏡の利用料は比較的安く、頻回使用しても教授のお咎めもない。
先生は潤沢に研究費を持ってるんだろうから、いい装置を何時間も連続使用できていいよな。などと指をくわえたくなる。学内で公開されている資料は関係者ならば誰でも閲覧できるので、先生が破格の科研費を持っている、ということは周知の事実だ。
それにしても……何の用だ? と勘繰ってしまう。先生はよその研究室の学生と雑談をしていられるほど暇ではない筈だし、普段の先生は声をかけるのも躊躇してしまうほど多忙そうだし、そうでなかったとしても高嶺の花的オーラを纏っていたからだ。まさか、使いっ走りや実験の手伝いを押し付けられるのでは……いや、それはそれで役得かと、想像を巡らせてしまう。
警戒を強める俺に呆れるように、先生は隙のある笑みを見せた。
「少しは息抜きも必要でしょう? 明日、実験予定や、プライベートの予定は?」
水面下で腹の探り合いをしていたつもりが、先生から本題を切りだしたため、俺は拍子抜けする。
「何もありません、しいていえば髪を切りに……」
実験に専念するためバイトをしていないし、何か予定があると言って見栄を張る必要性も感じなかった。基本的に日曜日以外は朝から晩まで研究室で過ごす、それが大学院生として当然の生活だ。
「ね、じゃあこれから一緒に行かない? いいでしょう?」
留め込んでいた白衣のダブルボタンをおもむろに片手で外しながら、先生は俺を誘う。白衣の下には、黒のノースリーブワンピースを着ていた。俺は目のやり場に困った。
「今からって……どこにですか?」
土曜日の、午前1時。人を付き合わせる常識的な時間ではない。しかし遠慮は、この時間にこの場所にいるという仲間意識によって融かされる。
そしてその誘いが何を意味しているのかを、俺はじわりと妄想していた。この先には告白か、それに類するものがあればいい。先生は年上の美人だし、少し風変りでも理知的で俺は以前から惹かれていた。彼女にとってひと夏の思い出、ただそれだけだったとしても、誘いを断る理由はない。
「いいですよ。サンプルしまって、帰り支度してきます。車、俺が出しますよ」
俺は勉めて冷静な声調を装いながら、言われるがままだった。先生を構内駐車場の隅に停車していた自分の車に案内する。洗車しておいてよかった、と他愛もないことを考えた。
深夜の国道にエンジン音を控えめに響かせ、遠い海岸線へ向けて走り出した。
月のない夜の海は、昼間とは違った表情をみせる。
エンジンを切りドアを開け放てば、膚に張り付くような蒸し暑さが車内に流れ込んでくる。
「このへんにしましょうか」
海岸に降りて砂浜を踏みしめる、ノースリーブのワンピース一枚の先生。その先生をいやらしい視線で見つめブラックコーヒーをカラカラの喉に流し込む俺はといえば、いかに夜が明けるまでに彼女と絡み合う展開をつくるか、という画策で頭を一杯にしていた。
さあ、これからどうしようか。
熱帯夜の暑気に浮かされ、理性はよそに置いていっそ砂浜で求めあいましょう、などと馬鹿なことを言えたらどんなに楽だろうか。
彼女は教官で、俺は学生。立場を弁えて、先生のリードに任せるのがいい、そう考えた。
もはや、俺の視界に夜の海の昏い色彩は入ってこない。
「どうして、君ときたと思う? ここに」
そんな俺の内心を見透かすかのように、先生は唐突に、意地悪な質問を投げる。
「きたかったからじゃないですか、俺と」
何しろ誘ったのは先生だ、大人の女性の……小粋なデートの演出のひとつやふたつは用意してくれていると期待したい。できれば、この後の段どりも考えていてくれると有難いんだけど……などと不埒なことばかり考える。先生と、今夜だけでもいいから男女の関係になりたい。先生の一夜の気まぐれかもしれないのだ、もう一度このチャンスがあるとは思えない。
俺の頭の中は盛りのついたサルのように、ソレだけしか考えられなかった。そういえばもう随分と彼女もいない、研究のみの禁欲生活を送っていたことを思い出した。
潮騒音の中、やけに通る先生の一声が、俺のふわふわとした煩悩を打ち砕いた。
「それは残念、はずれよ」
先生は海原に向かい、歩きはじめた。俺はゆったりと距離をとりながらあとを追う。先生は裸足になると波打ち際で立ち止まり、俺に背を向けたまま切りだした。
「わたし、もうすぐ死ぬの。少しの間、誰かと時間を共有したかった」
予想だにしなかった答えが返ってきた。
「え……死ぬって?」
俺は言い返せなかった。死ぬという意味を、何か先生にとって比喩的なことなのか、他の意味を持つのか……。俺は先生という個人の死にまで思い至らず、愚かにもそんな程度に軽く受け止めていた。
「何、言ってるんですか。そんなこと」
それはどういう意味なのか、という質問を飲み込んだ俺に、先生は、
「君は優しいから、誘ったのよ」
「優しい、ですか?」
俺の性格を詳しく知るほど、先生と接点があった覚えはないのだが。
まあ、社交辞令か、とあまりその意味を深くは考えなかった。
「君は優しいの。わたしには分かる」
先生は、まるで無垢な少女のように頷いた。彼女には彼女なりの計算もあるのかもしれないが、この後どんな展開を経て先生と一夜を共にするかをばかり考えていた俺は、ひどく後ろめたくなる。
「いざ死ぬとなると、色々と見えてくるものがあってね」
「それ……信じられません……先生が亡くなる、だなんて」
気まずさを打ち消したくて、俺は彼女がそれを否定してくれることを密かに期待した。俺は、余命幾ばくとない女性をその場の流れで抱くようなクズにはなりたくない。そういう思いが過ったのは、おそらく保身のためだろう……。
「死ぬのはホントなんだよ」
先生の声が沈み、表情が曇る。俺の手を取って、彼女の首すじに触れさせた。固い、存在感のあるしこりがあった。腫瘤だ……それ以上の追及も、気休めの言葉もいらなかった。
俺なんかより先生が一番、分かっている。
「膵臓がん末期、多発転移してる。こんな仕事してるんだもの、自分の体の、いえ、細胞の状態だって分かるのだし」
先生は知っている。
自らの一部であった細胞の、どの部分に変異が起き、どのように秩序を失っていったかを。
先生は知っている。
細胞の振る舞いを、その性質を、転移のしやすさを……。
俺よりも、あるいは医者よりもずっと、分子レベルで熟知している。
知ってはいても、それらの知識は先生を救わない。むしろミクロな事実からマクロな現象を正しく認識することは、先生により明白に死を突きつける。
「わたしは死ぬの」
もう一度、先生は吐息とともに、60兆個の彼女の細胞の一つ一つに、言い聞かせるようそう言った。
俺は二度ならず三度までもそう言わせてしまったことを、痛いほどに申し訳なく思ったが、どんな相槌も不似合だ。
そうとなると、今の俺には先生を慰めることは到底できない。先生は独身だ。若くて美人の先生のことだから、浮いた噂も幾多あった。なのに、さして親しくもない俺に先生がこんな話をするのは何故だろう、その貴重な時間を、俺と費やしていいのか……と、そんなことを考えていた。
「わたしが去り、あなたがこの先も生きてゆくこの世界は、よくはならなかった」
俺はじっと、固唾をのみ彼女の言葉に耳を傾けた。
「貧困、飢餓、差別、そして結局戦争もなくならなかったし……資源も枯渇間近、環境も悪化の一途を辿って……それでも人口は際限なく増え続けている。多くの問題を抱え、どこへ行けばよいのかも分からないまま、わたしたちははびこるわ」
先生は再び俺を背に、一歩ずつ素足で砂浜を踏みしめ、一定の歩調でゆったりと前を往く。
「72億人が、こんなふうに昏い、道なき闇の中を彷徨い歩きながら」
しだいに、先生の声には冷静さと情熱が混在しはじめる。
彼女は、怒りを押し殺していたのかもしれない。
「だからね。わたしがこの世界からいなくなったあと」
先生は足を止め、ふいに真面目な顔つきで俺を振り返った。長髪がさらさらと絹糸のように潮風に靡く。そんな彼女の姿を、心の底から綺麗だ、と俺は思った。
「この世界に生きる人々が、もう少しだけ優しく、そして賢くなれたら……そう願ってやまないの」
俺は唖然とした。何を言い出すんだ、この人は……と。
先生の言葉は理想論であり、まったくの独善というものだ。地に足のついていない言葉、せいぜい小学生までが口にしそうな短絡的な発想で、宗教にも近い。
とても科学者の発想とは思えないが、時に女性はこのように雰囲気だけの実体のない言葉を好む、……というのは俺の偏見だが、分別のある大人である先生が口にするとは信じられなかった。つまり、死と対面することは、それだけ精神をすり潰されるようなプロセスなのか、と俺は解釈した。
「ねえ横山君」
「は、はい……」
「科学はもっと、人を幸せにできると思わない? わたしはずっと、そう信じてきたの」
その言葉は、先生なりの純粋な思いに突き動かされ口から出たもののようだった。そして彼女は内なる理想を懐き、今日という日までを生きてきたと言った――。
「できると思います……でも、幸せの定義は人それぞれではないでしょうか」
俺は無難に答えるにとどめたつもりだが、彼女の質問からは逃げた。末期がんだと言っている彼女の孤独を結晶化させたような、喘ぐような告白を、感情の吐露を、一体誰が無碍にできる?
「そうね。でも、皆が思い描く幸福のために、今から何をすべきかはもう考えてある」
「皆の幸せ、ですか……」
研究一筋でがむしゃらに走り続けた先生の業績は、同分野で周囲を見渡しても群を抜いていた。新規治療薬の数々の特許も持っていたし、著名な科学雑誌にもいくつも論文が掲載されて、若手ながら学会でも名が通っている。まさに将来を嘱望された研究者、その彼女は出世欲のためでなく、人類社会の幸福と発展のために人生を捧げてきたのだと、こんな場所で打ち明けられた。
「それを、わたしの人生の最後の仕事にするわ。君にはその手伝いをしてほしい」
ただの意思表明であったとしても、先生の言葉は俺を黙らせるだけの、黒を白に塗りかえるだけの強さを持っていた。その強さに気圧され、また、先生への日頃からの尊敬の念もあって、俺は彼女に意見することはできなかった。
先生と較べると、俺はなんと卑小な人間だろう。人間としての器の小ささが際立った。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、先生はちょこんとその場にかがみこんで、浜辺で貝殻を拾い集めた。
強い闘志を秘めた彼女は、志半ばにして逝くというのに。
集めた貝殻を握り締めたまま、先生はテトラポットを登り埠頭の先へと歩みを進める。
突き当りで、拳の中に握りこんだ貝殻を俺に見せた。大粒で、重そうなものをばかりを集めている。
「見ていて」
彼女は腕を大きく振り抜き、拳を緩やかにほどく。
貝殻を海中へぱあっと投げ放った。
大小のそれらは放物線を描き、真っ青な蛍光を迸らせ、水紋が咲いた。
幾重にも重なる、光の滴のような同心円。俺は吸い込まれるように魅入られ、息を飲む。
「夜光虫が、いるんですね」
「そうよ、……でも君は、わたしが今投げるまで分からなかったでしょう」
前知識があったので多少想定はできたけれども、実物を目にすれば驚きは生じる。ちなみにこの夜光虫は、昼間ではしばしば赤潮として観測され、この青の美しさは昼間には見られない。昼間は価値の分からない、人知れず放たれる輝きだ。
「そうですね。肉眼でこれほどきれいな蛍光の青色は初めて見ました」
俺は先生を賞賛した。夜光虫は、外部からの物理的刺激などで冷たい発光、つまりバイオルミネッセンスを起こす。波の上での刺激の連続的伝播がシアンの波紋を形作る。
「気に入ってくれてよかった。このブルーが好きで、よくここに来るの」
「また、一緒に来ましょう。必ず」
先生があまり思い詰めないように、俺は明るく誘った。
「そうね……また来たい」
真昼の熱のぬるみはじめた埠頭の上に二人、距離を詰めて腰を掛けると、電燈が二つの影絵をつくる。やがて時が経ち星座は傾き、先生は俺の肩に寄り添い影は一つになった。
先生から、ほのかな香りがした。それは紛れもなく、壊死した癌を体内に持つ、患者のにおいだった。先生はこんなに綺麗なのに……と、切なくなった。
俺はもう、先生に触れようとは思わなかった。傷つけたくなかった。
「俺に手伝ってほしいことって、何でしょう、俺にできることですか?」
彼女の肩を支え、ただただ寄り添っていた。
「それはね。その時が来たら……さっきみたいに光らせて欲しいの」
「一体何を、いつやればいいんですか」
彼女は嬉しそうに微笑むと、俺の耳元で囁いて告げた。その時が来たら分かる、思い出すから、と。
「……忘れませんよ、俺は」
雰囲気にのまれて、俺は安請け合いをしてしまった。弱り切った先生にとって、今、この場で役に立つ存在になりたかった。
「ねえ、しよう?」
彼女は熱っぽく囁くと、俺の返事を許さないまま手を差し伸べて首すじをなぞり、俺の唇に柔らかくキスを落とした。
いけない、この人を抱いては。
でも……あれこれ考える間もなく、そこで俺の理性は吹っ飛んだ。もういいか、彼女が望んでいることなんだ……という諦念と共に、衝動に任せ柔らかな胸をまさぐりながら、誘われるままに舌を絡ませた。先生のキスは甘く、芳醇な果実に似た味がした。しかし先生の身体は痩せ、折れそうなほどに儚くて、病身だということには変わりなく、抱擁するとそれがよく分かった。
何度も何度も、俺たちは求めあい、キスをかわした。先生は彼女の生きた証を、俺の身体に刻み付けているかのようだった。
「好きよ、横山君」
「俺も……」
先生の孤独が癒されて、俺が少しでも役に立てるなら、先生の言葉が嘘でも真実でも構わない。ぐるぐると考えながら俺の意識はやがて蕩けて、潮の音は遠ざかる。恍惚のうちに意識は混濁し沈んだ。
寄せては返す波打ち際。
夜光虫の青蛍光は水面に映る天の川のように、細やかな輝きを映じ続けていた。