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文学

バイオリン弾きのおじさん

作者: 純白米

「ねえ、おじさん。何を弾いているの?」

「バイオリンさ。」

「へぇー。とっても素敵な音だね。」


 夕方のある公園での、少女と小太りのおじさんとの最初の会話である。

少女はその公園の近所に住んでいた。学校が終わったあとに、毎日友達とその公園で遊ぶことが、少女の日課であった。少女はとても明るく活発で、クラスの人気者だった。

小太りのおじさんが、その公園に来るのは久しぶりだった。少女を含めた子ども達が元気に遊んでいる中で、小太りのおじさんは、少し離れたベンチに座った。そして、持っていたバイオリンを弾き始めたのであった。


 バイオリンを弾きながら思い出すのは、自分がちょうど少女と同じ年齢ぐらいのときの記憶であった。小太りのおじさんが少年だった頃、彼には好きな人がいた。同じクラスの女の子だった。少年は、最後まで秘めた想いを伝えることができずに、大人になるにつれてその子とは疎遠になってしまった。今はもう、最後にどんな会話をしたのかも思い出せない。でも、鮮明に覚えている出来事が一つあった。少年はその時、父のすすめでバイオリンを習っていた。家で練習をしようとすると、母が近所迷惑になると嫌がったので、近くの公園で練習をするのが日課になっていた。ある日、いつものように公園で練習をしていると、偶然好きだった女の子がその公園を通りかかった。女の子はバイオリンを弾く少年に気付き、こう言った。


「バイオリン、弾けるんだぁ。すごいなぁ。素敵な音だね。」


きっと、女の子は何の気なしに言ったであろうその言葉が、少年にはたまらなく嬉しかったのだ。その言葉を聞いたときに見えていた光景や聞こえていた音、吹く風の気持ちよさや公園のにおいなどを、何十年たった今でも、すべて覚えているほどに。だから、バイオリンは手放せなかった。職を失い、家を失っても。


小太りのおじさんは、時代の煽りを受け、急に職を失ってしまっていた。新しい職を探しはしたが、良い仕事に巡り合えず、満足な収入は得られなかった。そのうち、生活に苦しくなって家具を売り、遂には家までも売ってしまった。

 家族はいなかった。結婚はしておらず、親はどちらもすでに亡くなっていた。兄弟もいなかった。若い頃の友人や、前の職場での友人がいるにはいたが、困ったときに頼るほど仲の良い友人はいなかった。久しぶりの公園にはたくさんの人がいたが、知り合いは誰もいなかった。世界中で自分が独りぼっちに思えた。最後に残ったのは、バイオリンだけだった。


死んでしまおうと思った。誰に、何を与えるわけでもなく、この世界に自分が独りでいたところで、誰も何も変わらないじゃないか。自分1人がいなくなっても、何も問題ないじゃないか。小太りのおじさんは、日々そんなことを考えていた。すべてがどうでもよかった。だが、最後にもう一度だけ、バイオリンが弾きたかった。好きだった人との大切な思い出である、バイオリンを。


 公園で少女に声をかけられたとき、小太りのおじさんは羨ましいなと思った。少女には、たくさんの友達がいたのだ。その中には、少女のことを好きな男の子がいるかもしれないし、反対に少女が好きな男の子だっているかもしれない。少女に、帰る家はあるだろう。ということは、家族もいるだろう。兄弟はいるのだろうか。明るい子だから、きっと将来良い人と結ばれて、結婚するのだろう。きっと、昔好きだった女の子も、今やそうなっているのだろう。そんな誰かとの関わりが、小太りのおじさんにとってはとても羨ましいものだったのである。


 翌日、少女が公園に行った時、ベンチに小太りのおじさんの姿はなかった。

「本当に、昨日はここでバイオリンを弾いていたの?」

「そうだよ。とっても素敵な音だったから、ママにも聞いてもらいたかったのになぁ…。」

「あなたがバイオリンを習いたいというなんて、よっぽど素敵な音だったのね。」

「うん。上手だったなぁ。優しくて、暖かい音なんだけど…寂しそうにも聴こえるんだ。」


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