静かなる脅威と、初めての嫉妬
公爵邸での日々は、表面的には平穏そのものだった。しかし、私の第六感――戦場で幾度となく私を救ってきた直感――は、静かなる脅威が公爵様に迫っていることを告げていた。
ある日の夜。公爵様は書斎で、古代魔術に関する難解な書物を読んでいた。私は、その傍で、部屋の隅の暗がりに身を潜めていた。
「ルイジアナ、そこにいるのはわかっていますよ」
彼は、本から顔を上げずに言った。
「あなたには、驚かされます。私があなたの存在を完全に忘れているとでも思ったのでしょうか」
「職務ですので」
私は、ただそう答えた。
「あなたの存在は、もはや私の生活の一部です。安心感を与えてくれる、かけがえのないものですよ」
公爵様は、そう言って、優しく微笑んだ。私は、その言葉に、また胸がざわつくのを感じた。
その時だった。
書斎の窓ガラスに、小さな石がぶつかる音がした。
カツン、と、非常に微かな音。
「公爵様、お下がりください!」
私は即座に反応し、書斎のランプの灯りを消した。同時に、公爵様の腕を掴み、彼を壁際に押しやる。
「何が起きたのですか、ルイジアナ」
彼は、驚きながらも、私の指示に従った。
「弓矢です。それも、ただの矢ではありません。魔力の残滓を感じます。狙いは、公爵様、あなたです」
窓ガラスにぶつかったのは、石ではなく、魔力を込めた小粒の鉛玉だった。音を立てずにガラスを破り、公爵様を狙う、暗殺用の魔道具。
私が公爵様を壁際に押しやった直後、ガラスが音もなく砕け散り、複数の鉛玉が、先ほどまで彼が座っていた椅子に突き刺さった。
私は、咄嗟に護衛用の短剣を抜き、窓の外の暗闇を睨む。
「今です! 逃げました」
「……あなたは、いつも一瞬で判断を下す。本当に、素晴らしい反応速度ですね」
公爵様は、暗闇の中で、私の腕をそっと握った。
「怖くはありませんでしたか、公爵様」
「いいえ。あなたが傍にいたので」
彼の言葉は、まるで魔法のように、私の緊張を解きほぐした。
翌日、私は警備体制の強化と、犯人の捜索に乗り出した。執事や他の使用人たちに、公爵様の生活パターンを変えるよう指示を出し、私も警戒を強めた。
犯人の正体は、掴めない。だが、その手口から見て、暗殺を生業とするプロ集団の手によるものと推測できた。
そして、その日の夕刻。公爵邸に、一人の訪問者が現れた。
宰相の命で、公爵様の警備状況を視察に来たという、宮廷騎士団の団長、シュナ。
彼は、私よりも背が高く、引き締まった体躯を持つ、銀髪の美しい男だった。私を見るなり、シュナは、明らかに不快な表情を浮かべた。
「この者が、ロキサーニ公爵の護衛だと? 宰相殿も、どうかしている。その、顔の傷を隠しもせず、公爵様の傍に侍るなど、公爵家の品位を著しく損なうではないか」
シュナは、私にだけ聞こえる声で、侮蔑を込めて言った。私が最も言われたくない言葉だった。
「団長殿、彼女は帝国最強の女傑です。その実力は、あなたの騎士団全員をもってしても敵うまい。私の命の恩人でもあるルイジアナを、侮辱するのはやめていただきたい」
公爵様が、静かに、だが強い口調で彼を諌めた。彼は、私のために、騎士団の団長を相手に、堂々と反論してくれたのだ。
シュナは、公爵様を見つめ、優雅な笑みを浮かべた。
「公爵様。私の言いたいことは、実力のことではありません。公爵様には、公爵様に相応しい、美しく、優雅な女性が傍にいるべきだ、ということです」
そう言って、シュナは、私を一瞥した後、公爵様に向き直った。
「この度の暗殺未遂。公爵様の警備は、騎士団が引き継ぎます。ご心配なく。あなたのような、脆弱な女に、公爵様の命を任せてはおけません」
シュナの言葉は、私への侮辱だったが、それ以上に、公爵様への執着めいたものを感じた。彼は、公爵様を、まるで自分の所有物のように扱っている。
「断る。私の護衛は、ルイジアナにしか任せない」
公爵様は、迷いなく言った。その毅然とした態度に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
しかし、シュナは諦めなかった。
「公爵様。この者では、公爵様に相応しい社交の場への随伴もできないでしょう。その醜い傷は、公爵様の評判に傷をつける」
「評判など、どうでもいい」
公爵様は、私の傷跡をそっと撫でようと、手を伸ばしかけた。
その時、私の中に、今まで感じたことのない感情が沸き上がった。
それは、嫉妬だった。
シュナが、公爵様を、私から引き離そうとしていることへの、強い拒絶感。
私は、自分が公爵様を愛していることに、まだ気づいていなかった。しかし、この瞬間、彼を失いたくないという、強い、強い感情が、私の心を占めていた。
「団長殿。公爵様の命令です。お引き取りください。もし、公爵様を狙う輩が現れた場合、私の剣は、容赦なくあなたを敵と見なすでしょう」
私の剣から発せられる闘気は、常人では耐えられないほどの殺気を帯びていた。シュナの顔が、一瞬、引きつった。
「……承知いたしました。ですが、公爵様。私が、いつでもあなたの傍にいられるよう、手配いたします」
シュナは、敗北を認め、深々と礼をして去っていった。
公爵様は、私の顔を見上げ、その翡翠の瞳を細めた。
「ルイジアナ。あなたは、私のために、あんなにも怒ってくれたのですね」
「……職務、ですから」
私は、そう答えるのが精一杯だった。本当は、職務ではない。彼を、誰にも渡したくない。その感情が、私を突き動かしたのだ。
「あなたの怒りは、私にとって、最高の賛辞だ。ありがとう、ルイジアナ」
公爵様は、私の手を握り、そっと口付けた。
私は、何も言えなかった。その夜、私は、自分の感情の激しさに、戸惑っていた。戦場では、敵しかいなかった。愛する人など、いなかった。
初めて抱いた、この熱い感情は、私をどこへ連れて行くのだろうか。




