傷跡と安息の地
「ルイジアナ、お前は本日をもって前線から退く」
帝国軍総帥、ヴァルハルトの声が、やけに遠く聞こえた。私の名はルイジアナ。かつては帝国最強の女傑と讃えられた。敵兵からは「傷跡の聖女」と恐れられたものだ。
しかし、今の私は違う。顔の左半分を覆う、あの忌まわしい傷跡。それは、三日前の激戦で、魔族の放った呪われた炎魔術によるものだった。深さ自体は治癒魔術でどうにかなったが、醜く引きつれたケロイド状の跡が残ってしまった。
「総帥……私は、まだ戦えます」
思わず声を絞り出す。私の生きる意味は、戦場にしかなかった。戦い、勝利し、帝国を守る。それだけが私の存在価値だった。
「馬鹿を言え。お前の顔がどうなっているか、鏡を見てみろ。その姿では、兵士たちの士気にかかわる。それに……」
ヴァルハルトは口ごもり、私から目を逸らした。私には彼の言いたいことが痛いほど理解できた。醜い。見るに堪えない。化け物じみた傷跡。
私は自分の頬にそっと触れる。熱を持った、硬い皮膚。もう二度と元には戻らない。
「お前に与える新たな任務がある。帝都に戻り、ロキサーニ公爵家の人間を護衛せよ」
「公爵……ですか。なぜ私のような者が」
護衛は、前線で戦うことに比べれば、格下の任務だ。しかも、顔にこんな傷を負った私が、貴族の、それも公爵の護衛など。貴族は、美しさや品格を重んじる。この傷は、彼らの目を汚すだろう。
「ロキサーニ公爵は、現宰相の弟にあたる人物だ。魔術と内政においては天賦の才を持つが、武術に関してはからっきし。それに加え、最近、彼を狙う不穏な動きがある。お前の実力は疑いようがない。人目を避けたいお前には、ちょうどいいだろう」
彼が、私に配慮してくれたのか。いや、そうではない。ただ、私の存在を前線から遠ざけたいだけだ。
「承知いたしました。任務、確かに拝命いたします」
私は敬礼し、この戦場に別れを告げた。私の戦場は、もうここにはない。これからは、帝都の華やかな貴族社会の片隅で、ただ静かに、誰かの盾となるだけの存在になるのだ。
帝都は、戦場とは比べ物にならないほどの賑わいと華やかさに満ちていた。貴族たちの邸宅が立ち並ぶ区画は、まるで別世界。石畳の道、手入れの行き届いた庭園、そして、優雅な衣装に身を包んだ人々。
ロキサーニ公爵邸は、その中でも一際荘厳な佇まいだった。門をくぐり、執事に案内されて応接室に通される。
そして、そこにいたのが、私の護衛対象となるロキサーニ公爵、彼だった。
ロキサーニ公爵。その名を初めて聞いたとき、私は勝手に、いかにも貴族然とした傲慢な男を想像していた。
だが、目の前に現れたあなたは、私の予想を裏切った。
整った顔立ち。亜麻色の髪は光を受けて輝き、知性を湛えた翡翠の瞳は、穏やかで優しい光を放っている。年齢は、私とさほど変わらないか、少し上に見える。何よりも、その立ち居振る舞いは優雅で、まるで絵画から抜け出してきたようだった。
「あなたが、ルイジアナ・フォックス殿ですね。遠路はるばる、このロキサーニ邸までようこそ」
公爵は立ち上がり、静かに、そして丁寧に私に頭を下げた。貴族が、私のような一介の軍人に、ここまで恭しい態度をとるのは珍しい。
「ご挨拶申し上げます。ルイジアナと申します。本日より、公爵様の護衛任務にあたります」
私は軍隊式の敬礼をした。意識的に、顔の左半分を隠すように、右側を公爵に向けた。
「堅苦しいことは無しにしましょう。私はロキサーニと申します。あなたのことを、ルイジアナと呼ばせていただいても?」
「はい。構いません」
彼の優しい声が、私の心臓を微かに揺らした。その時、公爵様は、私の右側から、ゆっくりと左側へと回り込んだ。
「さて、ルイジアナ。私は、あなたの顔の傷跡を見ても、少しも恐ろしいとは思いません」
彼の声は、静かだった。隠し続けていた、私の傷。その醜さを目の当たりにしても、彼の表情は微動だにしなかった。
「その、傷は……」
私が口ごもると、公爵はさらに一歩近づき、私の傷跡をじっと見つめた。その瞳には、嫌悪も、憐憫も、好奇心も、何もなかった。ただ、純粋な、何かを見つめるような光だけがあった。
「それは、あなたが命を懸けて帝国を守った証です。その呪われた炎魔術の跡は、あなたの勇気と、あなたが背負ったものの重さを物語っている。私にとっては、星屑のように尊いものです」
公爵は、そっと、本当にそっと、私の顔の傷跡に触れようと、細く白い指を伸ばした。反射的に、私はその手から顔を引いた。
「っ……汚れています、公爵様」
「汚れてなどいない。美しい、ルイジアナ。私が、心からそう思うのです」
彼の指先は、空中で止まったまま、私を見つめていた。その瞳は、あまりにも真剣で、あまりにも正直だった。
私は混乱した。戦場で「化け物」と呼ばれても、動じなかった。でも、今、彼の言葉と眼差しに、私の心は激しく動揺している。
この人は、何を言っているのだろう? 嘲笑しているのか? 憐れんでいるのか?
「……おかしなことを仰いますね、公爵様」
私は、無理に笑みを作って言った。その笑みは、きっと引きつれていたに違いない。
あなたは、私の動揺を見抜いたように、すっと手を引いた。
「信じられないでしょうね。無理もありません。ですが、私の言葉は偽りではありません。あなたの強さと、あなたが背負った全てに、私は敬意を払います」
彼は、静かに椅子に戻り、私に座るよう促した。
「さあ、ルイジアナ。まずは、この邸でのあなたの役割と、私の生活について説明しましょう。あなたの安息の地が、ここロキサーニ邸になることを、心から願っています」
安息の地。
私には、そんなものが存在するなんて、想像もしていなかった。戦場でしか生きられなかった女に、安息など許されるのだろうか。
そして、この公爵様は、なぜ私を、私の傷を、これほどまでに真っ直ぐに見つめるのだろうか。
私の、帝都での、そして彼の護衛としての、新たな生活が始まった。それは、戦場よりも、ずっと私の心を乱すものになる予感がした。




