逃走
法衣の男は血液のついた懲罰棒を放る。
湿っていたそれは累々と蹲る奴隷の中に落ちた。
暴力と欲望によって言う事を聞いていた人まがいの生き物は肉に群がる蜂のように殺到していたのだ。
待てもできない猿に苛立ち、唾を吐き掛ける。
やがて目を釣り上げてスパルニクスを睨み付ける。
「今直ぐに追いかけろ!。下賎な魔物が取引を反故にしてやってもーーーー」
最低だ!法衣の男は嘆く。
信徒に見られれば信仰の危機、あの女の仲間、仕事を受けた以上見られては沽券に関わる。
何より血だらけで野垂れ死なれては、何かしらの事実が残る。
「始めましょう」
「なに?」
「計画をですとも、ですから貴方は、調印をお願いしますよ」
壁に寄りかかったままスパルニクスは微笑む。
法衣の男は怒鳴りつけようとして、スパルニクスの言わんとする事を察する。
有耶無耶にしてしまえ、と
「い、いいだろう」
慌てたように印章を持ち出す男を見る事もなくスパルニクスはその場を後にする。
まずはどこに行ったのか
ーーーーーーー
「ッッッ」
クソ
扉を勢いのままに叩き割るかのように開ける。
必死に扉の封鎖を戻す。
どうすれば?
いや、探聖者にアレらの話が通じているなら頼ることはできない。
ローリーなんか顕著だろう。探聖者の意見は非常に大きい。
アイツらが同じ意見を戴く間柄であることは疑いにくい。
つまり、隠れてやり過ごす。その上で脱出を…
そうだ。あの男、反対から来ていた。
“貴方が案内か”という節のことも言っていたではないか。
私が使うとも思わないだろう。
即決であった。
身を翻して暗い道を突き進んだのだ。
ーーーー
チチ、
ネズミのような魔物だ。
虫のような触覚を持ち、滑空を可能とする羽根を持つ。
知能や実力の程度の差はあれ、スパルニクスには兄弟といえる。
彼の背中をスパルニクスは指でなぞる。
気持ちよさそうに彼は目を細めた。
我らは生きている。この命、この生命を謳歌せずして何するものか。
自我の天佑を喜び。在るべくしてある。ひいてはその栄華を求めるのは当然の成り行き。
しかるべく
命の謳歌のためには他全てを食らう。
特に下等な生き物というのは上下をつけなければ理解しない。
よくもまあ、自己崩壊せず誇れるものだ。
「行きなさい。可愛い兄弟」
チチ
魔物が走った。
スパルニクスはやがて歩み出す。
考え事と、それから裏目を探しているのだ。
始めましょう。だが、少し変えなければならない。
人員の入れ替え、制度の導入、その全てがお釈迦となった。
脱走者となるニンゲンが現れた以上、水面下で静かにというわけには行かない。
被支配者へ知恵のみは与えてはならないのだ。たったカケラだとしても
ーーーー
「つっ……」
息が切れる。肩の熱は既に引いていたが、舌は未だにといったところだった。
肩は既に動く。
いいや、走っている最中はぴくり位しか動かなかったが
どうにも戻っている。
いずれにせよ。私はコレを恐れていないのだ。
それよりも、ここは?
納屋のような場所。
地下を通っていたにしては随分長く移動した何処か別の場所に通じているのかもしれないが
チチ
鼠?
よくみると暗闇に光る目がある。
…襲ってくるなよ。
チチ
鳴き声はどこかへと消えていったが
ここはあの男が来た方向だ。
少なくとも人間大の何かが入れる余地があるはず
「…」
光?
偶々だろうか。鼠の声の近く暗闇に慣れた目を焼く光が差していた。
恐る恐ると手を掛けると隠し扉は開く。
いや、隠し扉というより元々あった壁の後ろに突貫で掘り進めたような強引な形状をしている。
そこは部屋の並ぶ廊下の角であった。
一つ一つは確認していないがどうにも似た間取りだろうか。
広間というよりは個人部屋といった姿をしていて、汚かったり綺麗だったり、家具があったりなかったり
それでも寝具だけは大概2つづつある。合宿所…もとい旅館か何かだろうか?
「、。」
舌の痛みが止んできたなか、部屋の一つから毛色の違う場所である事がわかる。
階段の上にある扉だ。
開けると土間のように地面となっていた。
水場に、調理器具。
調理場か。
ここはあの地下室を知っているものがいる場所だ。
然るべくして敵となるだろう。懐の短剣を確認する。
人気はない。人はいない。
だが、なぜか道具が投げ出すように残っていた。
扉の一つに駆け寄る。
すると、
ギィ
と扉が開いた
「あ、」
「ぁ…」
貴婦人の姿の女が一人立っている。
「あ、あらやだ。別に私は反抗なんて考えていませんのよ。ただ、甘いものとかお菓子とか、本家でしか食べられないものが欲しいなあなんて、おほほ」
何を言って…
「あら?もしかして貴女。物取りか何か?」
「ぃ」
「喋れないの?」
女は欠伸をすると言った
「ここは今、おっかない人達がいるからやめておくと良いわ。私見てないし、頑張りたくないし」
女は身を翻すと扉の外へゆく。
言われずとも出たいんだけど
すると女の開けた場所から、巨大な布の塊のような物体が地面から競り上がってくるのが見える。
異様な風体。ダルマみたいに丸い。
心臓を恐怖で高鳴らせながらも壁に隠れる。
もしかして地下室が他にもあるのか?
「ふう、スパルニクスの女、あー紀律伯の娘よ。ちょうど良い。お前、若い娘が一人脱走した。場所がわかれば」
「ああ、そういう」
スッと背筋に嫌な気配を感じる。
紀律伯の娘は数秒も迷わなかった。
「そこです」
「なに?」
クソ女っ
内心で吐き捨てると、入ってきた扉に駆け寄る。
柔らかいものを壁に叩きつけるような音をして瓦礫が飛んでくる。
かっ飛んできた瓦礫が背中を強打して転ぶことになった。
「けほっ」
息を吸い込む。いつのまにか私の声は呻き声じゃなくなりつつあるのか。
だがそんな事はどうだっていい。
何?
重い足音をさせて布の塊のような男が厨房に入り込んでくる。
人の頭ほどの太さのある長いものーーー舌?が頭部に吸い込まれていく。
はらりと、頭部を覆う布が落ちる。
中からは巨大なイボガエルのような顔と口に吸い込まれていく舌が見えた。
四つ足巨大なイボガエル
魔物?
「ふう。忠告をしておこう。抵抗するな。抵抗しなければ一撃で頸椎を破壊して殺してやる」
言い終えるとイボガエルは再び口を開ける。
飛んでくる。
察した全身の皮膚が怖気立つのと同時に
身体を投げ出した。
次に何かされる前にやる事は分かりきっていた。入ってきた厨房へと逃げ出したのだ。
びたん、と音を立てて壁が壊れているのを見る。
直線での加速はどうにも逃げられるとは言えない。狭く一直線の廊下では非常に脅威だ。
だが、知っている限りこの廊下は直線でありイボガエルから逃げるには適さない。
ためらうまもなく知らない道へ踏み出す。
何処か部屋に入ってなんとかやり過ごすしかない。
しかし困ったことに扉はほとんどがなく脇に一つあるだけであった。
あそこだけしかない。
びたん
そんな音を聞いたと思ったら顔を打ちつけて横転する羽目になった。
足に滑りとしたものが張り付いている。
振り返ると巨大ガエルは廊下が狭いのか窮屈そうに入り込んでいる。
離れれば、助かる。
気付くと体の判断はそうかからない。
靴を脱ぎ捨てたのだ。
つんのめってそのまま倒れるように扉を開ける。
広い。大広間というか。
おそらくはここで食事会のようなことが行われていたのだろう。
ダッシュ
邪魔になったもう片方の靴も履き捨てる。そのまま正面の扉を破らんばかりに開け放つ。
更に先には大業な扉ーーー玄関だ。
ゴールを見つけた奏者のように私は走った。狂気、あるいは狂喜だ。
化け物から逃れられるのだ。
飛び出した先には兵士が待ち受けていた。
まるで死体のように脱力した鎖帷子の兵士、よく見ると装備は雑然としている。
何かが崩れる音を聞いて私は振り返った。
カエルの舌がもう近くに見えていたのだ。
再び向き直っても兵士は直立して動いていなかった。
まさか。作り物?
不気味さを感じながらも横を通り始める。
真横を通り抜けても威嚇の一つしない。正気の抜けた顔と焦点の合わない死んだ目をしている。そうだ。昔、こんな作り物について聞いたことがある。霊廟を守る陶器の兵士。それにしては人間に近いが案外本当に作り物なのか。
「ふうふう。ええい、さっさと捕えよ!」
カエルの声が響く。
一体誰に?
気にしている余裕なんてなかった。
だからこそ、人形の虚な眼球と目が合った。
気のせいだ。
目が動いている。
作り物の兵士たちは両手を上げ捕まえようと襲いかかってきた。
反射的にだろうか。
それともまるで数日間動かしていないように緩慢な動きだったからだろうか。
股をくぐり抜けることができたのだ。
死に物狂いで闇雲に這い走り跳ねる。
幸運な事に逃げ出す事には成功した。
だが、代償か裏手に抜ける。
いいや、もしやこちらが正面なのだろうか。
芝生のような生い茂る樹木の中に飛び込み、そして勿論枝葉で身体が傷つく。
這って逃げた。
枝葉の中を、ずっと進みいつのまにか知っている通りに出たのだ。
変な感じ?
そうだ。人が走り回っている。
大荷物を持った市民だ。
何か起こっているのだろうか。
兵士がいない?海からくる?
一体…?
「う…」
屈んだまま芝生から小突かれたようにツンのめる。
まさか
「まあ、こんな所に、もう!どこに行っていたんですか!」
真横で激しい声がする。
「ろ、」
芝生の中、聞き覚えのある声。というかローリーの声がする。
「そうだ。いま大変なんです。ほら早く逃げますよ」
違和感を感じて口の中に触れる。
舌だ。
切られたはずの舌が戻っている。
いや、いまだに感覚は無い。
「もう、本当に舟墓の町なんてメじゃ無いくらいの劣勢ですわ」
劣勢?
ふと、頭上に影がよぎる。
針のような鳥の姿
くわあ。くわあ。と声がする。
「もう戦争だなんて、こうなると旅人にできる事はありません。おかしな攻撃に晒される前に早く逃げ出さないと」
ーーー
合流しなくてはと飛び出すローリーを追いかける
「よかったの。さがしにきて」
未だ痺れた舌で聞く。
「もちろんです!。一緒に買い物だってした仲ですもの!」
ちらりとローリーは短剣のつかを見せる。獅子の描かれた短剣だ。
ちょっとだけ、呆気に取られた。そうだね。確かにそうだ。
と言うかそれ、受け取ったんだ。
「ね。ローリー」
「何です」「ありがとう」「どういたしまして!」
心が少し暖かくなる。ああ、良い子だな。正直、探聖者と共に陥れる気じゃないかと思っていたなんて言えないけど
「ああ、あそこです」
あそこって
ローリーは一つの家を指差す。
あの地下室のあった家だ。
「…どうしました?」
血の匂いを感じる。
「いや、だいじょう…」
「ああ、探聖者様!」
玄関の影から現れた男にローリーは相変わらず不安になるような狂喜をする。
とはいえ、地下室の件もある。
いつもの骸骨のような風貌、この際はもう安心するほどだ。
その安心はすぐに不安へと変わる。
いつものように探聖者はローリーを無視すると私に向きなおり
「ええ、ご無事でしたか。『神よ』」
「『神よ』だと?」
隣に法衣を着た男、禿げた男。
地下室の危険な男がいた。ああ、同じコミュニティに所属していたんだった。
「貴様、聖女様を神と言ったか。異端者め」
探聖者は微笑むと悲しそうに言った。
「貴方にはわからないでしょう。ですが彼女こそ神です」
「黙れ!お前は気に入らんかったんだ。大体、ガキどもなぞ現れなかったぞ」
「そうかもしれないと」
「知らんわ!ええい殺れ、スパルニクス」
「やれやれですな」
最後ににやにやと笑いながらも控えていた男が笑う。
すると、探聖者がスパルニクスに気をとれ動き出そうとする直前、なぜか再度振り向いた法衣の男が両手で締め上げ出した。
決起迫った顔、青ざめた顔。今さっき命令を出したようには見えない。
不意打ち…?
「なんてことを!」
蛮行にローリーが悲鳴を上げる。
それを放置してスパルニクスは割り込んだ。今度はローリーに
「よくぞ。連れてきてくれました可愛い子羊よ。全く手間取らせてくれる。ただの次いで、だというのに」
「だ、誰ですか」
戸惑うローリーに大仰に蜘蛛のように手広げると言ってのけた。
「これはこれは私めは聖女教の同盟者ですよ」
「へ?探聖者様の」
「ええですからね。その人殺してくださいね」
「は?」
腹部に痛みを感じる。
舌を切られた時も、肩を破壊した時も、痛みを堪えられた。
でも、今回は何よりも痛い。そう“痛い”。
ローリーの手が赤獅子の短剣が腹を貫いている。
「なん…で」
呆然とローリーは短剣を握っていた。
『無力だな』
身体が崩れる。
顔の真横に礼服を着た人の足が見えた。
見上げれば、礼服を着た巨躯の何かが私を嘲っている。
顔を見ると息が止まった。獅子、捕食者だ。
嘲るような獅子の顔、手にはワインを持ち見下してる。
幻覚?
「ううっ」
獅子はワインを叩きつけるように掛けた。
いつもより、いいや確かにはっきり聞こえてしまう。
『無力よなぁ。間抜け、今一度誘おう。その身を差し出せ。無力と別れを告げるがいい』
「い」
これは、殺せないものだ。
心のどこかがそう告げる。恐怖心、食うと食われる関係、凌駕し押さえ込んでいたとして、それは反発がなくなったことを意味しない。
獅子が私のそばにしゃがむ。
『尤も、もう同意は要らぬ』
獅子の顔を持つ者の指が顔面に食い込む。顔面の正中線から引き裂かれてぎりぎりと痛みと音を立てて割れていく。
わ、私は
私は真っ二つになった。




