3話
現実だと思い込んでいた出来事がただのリアルな夢だった、という場合は往々にしてある。
眠い目を擦りながら起床し、朝食を食べて、支度を済ませ、ドアを開けて家を出た瞬間。
そこで本当に目を覚まし、今までのプロセス全てが夢の中だったと知ると同時に遅刻が確定したという経験も一度や二度のことではない。
得てして理想に縋ってしまいがちな我々が強く生きていくためには、適度に現実を疑うことも必要だと思う。
要はあまりにも都合のいい出来事が発生した際、眠りから覚めても泣かないように何らかの策を講じるべきなのだ。その結果。
「夢じゃない……」
あらかじめ枕元に仕込んでおいた『Don't Believe the Truth』と走り書きされた紙を眺めて、俺はようやく昨日の告白を現実だと断定するのだった。
「マジか……いや嘘かもしれないけど」
寝起きでぼやけた脳内でもお構いなく、将来に対する不安はいやにクリアに思考を貫通してくる。
これから望月先輩とどう接すればとか、むしろ極力望月先輩と出会わないように行動するにはだとか、とにかく例を挙げ出せばキリがない。
雑念を捨てるように紙を丸めてゴミ箱に放り投げ、ぶつぶつ言いながら部屋を出る。まだなんとなく覚束ない視界で捉えたスマホの画面には、“6:28”と表された現在時刻、もうほとんど触っていないソシャゲの通知、充電に接続されていなかったせいで実行されなかったアップデートの通知、そして、
「『返事、いつでも待ってるよ』……ぇ?」
────心臓が止まるような真緑のアイコンと共に表示された、交換した覚えのない名前。
寝ている間に、どうやら俺の現実は勝手にアップデートされていたらしい。
◇◇◇◇◇
「なんか眠たそうだな。どしたよ、雨野」
「んぉ……」
なんやかんやで昼休みになり、クラスメイトの“こばゆー”こと小林 悠真が菓子パンとココア味のプロテインを片手にやってきた。
そのまま空いていた隣の席にどかっと座ると、生徒会役員を前にして堂々とスマホをいじり始める。ゴリゴリの校則違反だが、わざわざそれをチクったりするつもりもない。
「……昨日はモンスターが近くにいて眠れなくてさ」
「嘘つけよ スティーブみたいな言い訳すんなお前」
「いやマジで。普通に湧き潰ししてなかったもん家」
「えぐ あんま賃貸で経験値トラップ作んなよ」
冗談はさておき、実際昨夜はあまり眠れなかった。
それも勿論望月先輩に関しての懊悩によるものだった。
一晩経って冷静になってから考えると、いくら動揺していたとはいえ、あの対応は先輩に対してすごく失礼なものだったような気がしてならない。
というかそもそも告白された事自体が初めてなのに、いきなり嘘告白とか疑うのは人間としてどうなんだろうか……と、授業中もそういった悲観の沼に肩まで浸かっていてまるで集中できなかった。
だが俺はもう迷わない。この猜疑心は、俺の天邪鬼は、自らを守るために発達した筋骨隆々の皮肉だ。決して恥ずべき事ではない。
一夜かけて様々な可能性を考慮したところで、結局現実的に考えれば最悪のケースを想定して動いた方がいい案件ではあるのだ。
「まー、なんか悩みあんならメシ食いながらでも聞くぞ? その代わり卵焼き一切れくれ」
「……いや大丈夫、ありがとな。きんぴらを一束あげようね」
「いらな ほぼ全部だろその表現」
こいつになら相談してもいいのだろうか、と一瞬よぎった思考をすぐに振り払う。
決して悪い奴ではないのだが、彼はたしか望月先輩のファンクラブにガッツリ入っていたはずだ。告白されたなんて言ったら、それが嘘でもきっと悲しむだろう。彼とはまだ友達でいたい。
そんな事を考えながら、鞄から弁当を取り出したその時。
「────雨野くん、いる?」
騒がしい教室の中でも、際立って耳に届く澄んだ声。
それは決して俺にだけ備わった感覚でもなかったようで、大半の生徒が思わず会話を止め、彼女の立つ出入り口の方へ視線を向けている。
「は、はい!」
こばゆーに片手で“ごめん”を表明しつつ、早足で望月先輩のもとへ向かう。焦りすぎて弁当も持ってきてしまった。
別学年である彼女がこの教室を訪れたのは多分これが初めてのことだ。一体何事だろうか。
推測するに、恐らく生徒会に関する連絡である可能性が高いが……わざわざここまでやってきたということは、もしかして告白の返事を追及しにきたり……?
Damn! 今朝のLIMEをきちんと返しておくべきだったか。知らんタイ人の訳分からんスタンプなんか送るべきじゃなかった。
そんなどうでもいい勘繰りはさておき、相まみえた先輩は集めた衆目さえ意に介さず、普段通り堂々とした、というよりは飄々とした微笑みを浮かべて待っていた。
「やっほー、急にごめんね?」
「全然大丈夫です。……それで、なんかあったんですか?」
「あぁえっと、なにかあった訳じゃないんだけど」
そう言って、後ろ手を組んでいた彼女は可愛らしいハンドバッグの様なものを控えめに掲げる。
「……お昼ごはん、良ければ一緒にどうかな」
瞬間、背後で賑やかさを取り戻しつつあった教室が今一度静寂に包まれたのを知覚する。そして振り返らずとも、今度は教室中の視線が俺の背中に集まっているのが分かる。
「……えっ?」
「嘘だろ」
「おい雨野……?」
怨嗟混じりのざわめきの直後、主に女子たちのきゃあきゃあという黄色い声が耳に突き刺さった。
周囲の煽てるような反応も気にせず、先輩は静かに俺の目を見つめたまま、返答を待っている様子。
(……な、何を考えてる?)
周囲の反応とは打って変わって、俺は脳裏で膨らんだ絶望的観測と警戒心により、青ざめた表情のまま立ち尽くす事しかできなかった。
この誘いを額面通りに受け取っていいはずがない。何か裏があるのだろう。多分。
「なかなか長考だね?」
「ハッ……すいません。動揺してて」
……いや待て、別に先輩は“二人きりで”とは言っていないじゃないか。つまり、俗に言う“いつメン”との食事会に連れて行かれる可能性もある。
あまり詳しいわけではないが、普段の望月先輩なら昼休みは食堂の一番デカいテーブルで友人達と一緒に談笑していたイメージがある。そしてそこに連れて行かれるなら、俺を誘う理由にも心当たりがある。
そう、“ネタバラシ”だ。
昨日の嘘告白がパッとしない感じに終わった今、ノリで続ける意味も無くなってしまったのだろう。正直にバラしてしまって、せめてその反応だけでも拝もうという魂胆なのではなかろうか。
わざわざここまで来たのも、衆目を集めて誘いを断りづらくさせる為の工夫だとすれば理解できる。
──とすれば。
「その、お誘いはすごく嬉しいんですけど……実はちょっと先約がありまして」
ここはこう言ってお断りするのがベストだろう。なにしろ嘘はついていないのだから。
元々こばゆーと昼食を食べるつもりではあったし、約束を反故にする事もなく、リスクを冒す事もなく、誰も悪い気分にさせずスマートにこの話を終えることができる。我ながら完璧な布石と判断だ────と内心思っていたのだが。
「……そっか。先に約束してたなら仕方ないね」
望月先輩は、困ったように微笑んでそう言った。
俺に気を使わせまいと咄嗟に繕ったのか、ややぎこちなさを感じさせるような、明らかに悄然とした笑顔で。
(う……)
自惚れなのかもしれないが、先輩は結構本気で悲しんでいるように見える。非常に判りづらく、けれど疑いようもなく、望月先輩の笑顔には微かな憂いが滲んでいた。
そんな表情を見た途端、あれだけ先輩を訝しんでいたにも関わらず、一丁前に罪悪感に駆られてしまう自分自身がいることに呆れてしまう。
昨晩あれだけ後悔したのに、俺はまた勝手に先輩を疑って、ただただ傷つけてしまっただけなのかもしれない。
「あ、あの……ごめんなさい、せっかく誘ってくださったのに」
「ううん、むしろごめんね。全然気にしなくていいよ。いきなり来ちゃった私が悪かったし」
俺が不甲斐ないばかりに、先輩に大変決まりが悪い思いをさせてしまった。今更どうすべきかと狼狽していた所、ふとポケットに忍ばせていたスマホが振動し、LIMEの通知音がした。
慌てて確認すると、メッセージの送り主はこばゆー。教室の中からこれを送信したようだった。
『気にせず行け雨野。俺の愛する先輩を悲しませんじゃねぇ』
「……すみません! やっぱ一緒に食べてもいいですか」
立ち去りかけた先輩の背を大声で引き留める。
驚いて振り返った先輩に見せつけるように、持っていた弁当を廊下に突きつけながら。
「……ほんと? 良いの?」
「たった今友人から“先輩を悲しませんな”って連絡が来まして」
「そうなんだ……かっこいいねなんか」
「かっけえ奴なんすよ。なのでここはこばゆーの厚意に甘えて……一度断っておいてなんですけど、俺もお昼ご一緒させてください」
深々と頭を下げると、頭上から先輩の安心したような、何かが解けたように溢れた吐息の音がした。
「やった、良かったあ……じゃあその、行こっか」
「はい!」
そう言って歩き出した先輩の背後で、またしても携帯が震える。送り主は相変わらずのこばゆーだった。
『腹立ってきた 俺も先輩と飯食いたい』
『お前が帰ってきた時、より強く殴る為だけにプロテイン飲んでるわ今』
返答に窮した俺は、知らんタイ人の訳分からんスタンプで茶を濁すのだった。
更新遅れすぎてすみません。速度を、上げます。