表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/34

閣下は名前で呼んでほしい


 エリーは自分を「閣下」と呼ぶ。


「閣下、おはようございます」

「どうしたんですか、閣下?」

「それは閣下が悪いと思います」


 可愛らしい唇から紡がれるのは、いつも同じ呼び方だ。

 エリーが呼ぶならどんな名称でも可愛いのだが、たまには名前で呼んでほしい。

そう思うアーヴィンは、ちょっぴり寂しさを覚えている。まったく表情に出ないので、気づかれる事はないのだが。


 ――おまけに。


「あっエリー、おはよう」

「おはようございます、サイラス様」


 ……なぜ彼は名前で呼ぶ?


 理屈では分かる。彼の名前はサイラスだし、ラスサイでもイラサスでもサライスでもない。サイラスはサイラスだ。そして、エリーはそれ以外の呼び名を知らない。

 けれど、釈然としない。


「閣下、サイラス様がクッキーをくださったんですよ。とってもおいしいって評判のお店なんですって」

「いやぁ、それくらい。いつでも買ってきてあげるよ」

「ありがとうございます、サイラス様」


 エリーは嬉しそうに笑っている。サイラスもまんざらではなさそうだ。

 その姿を見て、なんとなくもやもやしたものが立ちのぼる。


「……エリー」

「なんですか、閣下?」


 エリーは一点の曇りもない笑みを浮かべ、「閣下」と言った。


「私の名前はアーヴィンという」

「? そうですね」

「アーヴィンという名前だ」

「そうです……ね?」

「アーヴィンだ」

「そうですよね……?」


 首をかしげるエリーを見て、通じていないと気がついた。以前にも名前で呼んでほしいと言ったはずなのに、すっかり忘れているらしい。

 ここで恥じらったり、すれ違いが起こればお約束だが、アーヴィンはどちらにも縁がなかった。そのため、最短で最適解にたどり着く。


「私も名前で呼んでほしい」

「えっ」

「君に名前で呼ばれたい」


 案の定、エリーが目を丸くする。


「い、いえ、ですがその、閣下は閣下というか、すっかりその呼び方に慣れてしまったもので……」

「では今だけ」

「いきなりはちょっと……こ、心の準備というものが……」

「最初は大丈夫だったはずだ。とりあえず一度試してほしい」


 真顔で詰め寄ると、その顔が見る間に赤くなる。ここで恥じらう意味は分からないが、その顔もとても可愛らしい。まあエリーはいつでも可愛いので、この感想は通常仕様だ。


「あ……アー……ヴィ……」

「そうだ」

「アーヴィ……、……ヴィ……ア……」

「そうだ」

「あー、アー……」


 あと少しのところなのに、声は途切れて消えていく。わざとやっているわけではなく、本当に最後まで言えないらしい。


「ちなみに彼は」

「サイラス様です」

「……何故」

「呼び慣れているもので……」


 すみませんごめんなさいと、エリーは恐縮しきりである。その顔はすでに真っ赤だ。これ以上は無理かと、アーヴィンはそっと息を吐いた。


「分かった。今はあきらめよう」

「すみません……」


 両手で頬を押さえたまま、エリーは目をそらしている。ここまで困らせるとは思っていなかったので、ほんの少し反省する。やはり自分は人の心の機微に疎いらしい。


(そんなに、嫌だったのか……)


 そこまで名前呼びを拒絶される寂しさに、さすがに少し傷ついてしまう。

 しかし、エリーが嫌だというなら話は別だ。

 この先一生閣下呼びでも構わないと思いつつ、アーヴィンは決意を新たにする。


 そう、考えてみれば、エリーの閣下呼びは可愛らしい。

 サイラスに呼ばれても嬉しくないが、エリーなら構わない。むしろ、どんな呼び方でも愛おしい。これが愛だと自覚する。


 自分はエリーを愛している。それはどんな時でも変わらない。

 呼び方で変わる事はない。愛しさも、嬉しさも、この胸を揺らす感情も。


 だから。


 もう大丈夫だと言いかけた時、かすかな声が響いた。


「……閣下だけは、恥ずかしいんです」

 エリーが消え入りそうな声で囁いた。


「最初はなんとも思わなくて、だから大丈夫だったんですけど……その、こ、こ、こういう関係になってからはですね、名前を呼ぶと思っただけで、緊張して、恥ずかしくて、どうしても言えなくて……」

「――――」

「閣下だけなんです……こういうの」


 口元を押さえ、耳まで赤くした顔で、自分だけが特別なのだと語る。

 瞬間、胸の奥に甘い棘が刺し込まれた気がした。


 この感情は何だろう。

 くすぐったくて、甘酸っぱくて、どうしたらいいか分からない。胸の中に色鮮やかな花が咲き乱れたようだ。ぱあっと目の前が晴れていく。


 サイラスはやれやれという顔をしている。その目は少し呆れているが、微笑ましい色も宿している。どうやら彼はこの展開を予想していたらしい。なぜだ。不可解さを覚えつつ、一応エリーに聞いてみる。


「……私だけ?」

「……はい」

「私だけが、特別?」

「……はい」


 エリーの顔はこれ以上ないほど赤い。

 それを見て、さらに胸の花が咲き乱れる。もはや大量発生だ。この胸を埋め尽くすほど鮮やかで、美しく、薫り高く咲き誇る。


「一応言っとくと、名前で呼ばれてる男は俺だけですけどもね」

 ひょいとサイラスが口を挟む。こちらは多分悪ふざけだ。

「サイラス様!」


 ぴた、とアーヴィンが固まる。


「……やっぱり名前で」

「無理です! できないです!」

「だがもしかすると一度くらいは……」

「無理ですってば!」


 エリーが悲鳴にも似た声を上げる。


「閣下は閣下です。今はまだ、それ以上は無理!」

「……そうか」

 肩を落とした後で、隣を示す。


「ちなみに彼は」

「サイラス様です」

「……何故……」

「呼び慣れているもので! あと緊張しないもので!」


 わたわたしながら、エリーが必死に弁解する。

 だが、今は悲しくない。なぜならエリーが言ってくれた。

 自分だけが特別だから、恥ずかしくて言えないのだと。


 だとすればサイラスはサイラスだ。どんな呼び方でも構わない。考えてみたら、自分もサイラスと呼んでいる。エリーとお揃いだ。それだけで少し嬉しくなる。


「えー俺はエリーのこと大好きなんだけどなぁ」

「誤解を招くようなこと言わないでください」

「じゃあ嫌い?」

「嫌いではないですが、この場合はまずいです!」

「じゃあ閣下のことは好き?」

「閣下は……閣下は……」


 ちらりと上げた紫色の瞳が、光を浴びてきらめいた。

 その返事を聞きたくて、アーヴィンが彼女を注視する。

 淡い色の唇が動き、二つの文字を辿っていく。



 ――ああ、もう、本当に。



 その答えに、アーヴィンは口元をほころばせた。


お読みいただきありがとうございます。最後の一言は「好き」ですね。


***


*2025年5月22日、コミックス第2巻が発売予定です。よかったら是非ご覧くださいね。樋口先生ありがとうございます!


*活動報告も更新しております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ