閣下は名前で呼んでほしい
エリーは自分を「閣下」と呼ぶ。
「閣下、おはようございます」
「どうしたんですか、閣下?」
「それは閣下が悪いと思います」
可愛らしい唇から紡がれるのは、いつも同じ呼び方だ。
エリーが呼ぶならどんな名称でも可愛いのだが、たまには名前で呼んでほしい。
そう思うアーヴィンは、ちょっぴり寂しさを覚えている。まったく表情に出ないので、気づかれる事はないのだが。
――おまけに。
「あっエリー、おはよう」
「おはようございます、サイラス様」
……なぜ彼は名前で呼ぶ?
理屈では分かる。彼の名前はサイラスだし、ラスサイでもイラサスでもサライスでもない。サイラスはサイラスだ。そして、エリーはそれ以外の呼び名を知らない。
けれど、釈然としない。
「閣下、サイラス様がクッキーをくださったんですよ。とってもおいしいって評判のお店なんですって」
「いやぁ、それくらい。いつでも買ってきてあげるよ」
「ありがとうございます、サイラス様」
エリーは嬉しそうに笑っている。サイラスもまんざらではなさそうだ。
その姿を見て、なんとなくもやもやしたものが立ちのぼる。
「……エリー」
「なんですか、閣下?」
エリーは一点の曇りもない笑みを浮かべ、「閣下」と言った。
「私の名前はアーヴィンという」
「? そうですね」
「アーヴィンという名前だ」
「そうです……ね?」
「アーヴィンだ」
「そうですよね……?」
首をかしげるエリーを見て、通じていないと気がついた。以前にも名前で呼んでほしいと言ったはずなのに、すっかり忘れているらしい。
ここで恥じらったり、すれ違いが起こればお約束だが、アーヴィンはどちらにも縁がなかった。そのため、最短で最適解にたどり着く。
「私も名前で呼んでほしい」
「えっ」
「君に名前で呼ばれたい」
案の定、エリーが目を丸くする。
「い、いえ、ですがその、閣下は閣下というか、すっかりその呼び方に慣れてしまったもので……」
「では今だけ」
「いきなりはちょっと……こ、心の準備というものが……」
「最初は大丈夫だったはずだ。とりあえず一度試してほしい」
真顔で詰め寄ると、その顔が見る間に赤くなる。ここで恥じらう意味は分からないが、その顔もとても可愛らしい。まあエリーはいつでも可愛いので、この感想は通常仕様だ。
「あ……アー……ヴィ……」
「そうだ」
「アーヴィ……、……ヴィ……ア……」
「そうだ」
「あー、アー……」
あと少しのところなのに、声は途切れて消えていく。わざとやっているわけではなく、本当に最後まで言えないらしい。
「ちなみに彼は」
「サイラス様です」
「……何故」
「呼び慣れているもので……」
すみませんごめんなさいと、エリーは恐縮しきりである。その顔はすでに真っ赤だ。これ以上は無理かと、アーヴィンはそっと息を吐いた。
「分かった。今はあきらめよう」
「すみません……」
両手で頬を押さえたまま、エリーは目をそらしている。ここまで困らせるとは思っていなかったので、ほんの少し反省する。やはり自分は人の心の機微に疎いらしい。
(そんなに、嫌だったのか……)
そこまで名前呼びを拒絶される寂しさに、さすがに少し傷ついてしまう。
しかし、エリーが嫌だというなら話は別だ。
この先一生閣下呼びでも構わないと思いつつ、アーヴィンは決意を新たにする。
そう、考えてみれば、エリーの閣下呼びは可愛らしい。
サイラスに呼ばれても嬉しくないが、エリーなら構わない。むしろ、どんな呼び方でも愛おしい。これが愛だと自覚する。
自分はエリーを愛している。それはどんな時でも変わらない。
呼び方で変わる事はない。愛しさも、嬉しさも、この胸を揺らす感情も。
だから。
もう大丈夫だと言いかけた時、かすかな声が響いた。
「……閣下だけは、恥ずかしいんです」
エリーが消え入りそうな声で囁いた。
「最初はなんとも思わなくて、だから大丈夫だったんですけど……その、こ、こ、こういう関係になってからはですね、名前を呼ぶと思っただけで、緊張して、恥ずかしくて、どうしても言えなくて……」
「――――」
「閣下だけなんです……こういうの」
口元を押さえ、耳まで赤くした顔で、自分だけが特別なのだと語る。
瞬間、胸の奥に甘い棘が刺し込まれた気がした。
この感情は何だろう。
くすぐったくて、甘酸っぱくて、どうしたらいいか分からない。胸の中に色鮮やかな花が咲き乱れたようだ。ぱあっと目の前が晴れていく。
サイラスはやれやれという顔をしている。その目は少し呆れているが、微笑ましい色も宿している。どうやら彼はこの展開を予想していたらしい。なぜだ。不可解さを覚えつつ、一応エリーに聞いてみる。
「……私だけ?」
「……はい」
「私だけが、特別?」
「……はい」
エリーの顔はこれ以上ないほど赤い。
それを見て、さらに胸の花が咲き乱れる。もはや大量発生だ。この胸を埋め尽くすほど鮮やかで、美しく、薫り高く咲き誇る。
「一応言っとくと、名前で呼ばれてる男は俺だけですけどもね」
ひょいとサイラスが口を挟む。こちらは多分悪ふざけだ。
「サイラス様!」
ぴた、とアーヴィンが固まる。
「……やっぱり名前で」
「無理です! できないです!」
「だがもしかすると一度くらいは……」
「無理ですってば!」
エリーが悲鳴にも似た声を上げる。
「閣下は閣下です。今はまだ、それ以上は無理!」
「……そうか」
肩を落とした後で、隣を示す。
「ちなみに彼は」
「サイラス様です」
「……何故……」
「呼び慣れているもので! あと緊張しないもので!」
わたわたしながら、エリーが必死に弁解する。
だが、今は悲しくない。なぜならエリーが言ってくれた。
自分だけが特別だから、恥ずかしくて言えないのだと。
だとすればサイラスはサイラスだ。どんな呼び方でも構わない。考えてみたら、自分もサイラスと呼んでいる。エリーとお揃いだ。それだけで少し嬉しくなる。
「えー俺はエリーのこと大好きなんだけどなぁ」
「誤解を招くようなこと言わないでください」
「じゃあ嫌い?」
「嫌いではないですが、この場合はまずいです!」
「じゃあ閣下のことは好き?」
「閣下は……閣下は……」
ちらりと上げた紫色の瞳が、光を浴びてきらめいた。
その返事を聞きたくて、アーヴィンが彼女を注視する。
淡い色の唇が動き、二つの文字を辿っていく。
――ああ、もう、本当に。
その答えに、アーヴィンは口元をほころばせた。
了
お読みいただきありがとうございます。最後の一言は「好き」ですね。
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