22.姉、暴れる
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逃げなきゃ。
最初に思ったのはその事だった。
だが、わずかに足がすくんだ瞬間、ジャクリーンに腕をつかまれた。
「きゃっ……」
「とっくに死んでると思ったけど、運が良かったわ。さあ行くわよ、エリー」
「い、行くって、どこに?」
「決まってるでしょ、伯爵のところによ。あんたがいればうまくいくわ。死にかけのあんたでも、最後の役には立つはずよ」
「何言って……痛っ」
バシッと頬を張られる。
「いいから来なさい。つべこべ言わずにあたしの言う通りにすればいいのよ、この愚図が!」
「やっ……」
腕を引かれたが、エリーは必死に抵抗した。倒れたせいでずるずると引きずられたが、机の脚にしがみついて、懸命に拒否する。苛立ったジャクリーンに横腹を蹴られたが、それでもエリーは抵抗した。
(嫌だ)
このまま連れ去られたら、あの生活に逆戻りだ。
力の限りにしがみつき、歯を立てて引きずられまいとする。さぞや間抜けな恰好だろうが、そんな事を気にしてはいられない。
だが、そんな様子を見下ろしたジャクリーンは低く言った。
「あんた、あたしに逆らうの?」
「!!」
反射的にエリーの身がこわばる。
姉に逆らったらどうなるかは、自分が一番よく知っている。
みっともなく震え出したエリーに、ジャクリーンは満足そうに微笑んだ。
「またあんな目に遭いたくなかったら、あたしの言うことを聞きなさい。いいわね、これは命令よ」
「なんで……そんな……」
自分を捨てたのは姉の方だ。
二度と関わるなと言っておいて、これはどういう事なのか。
蒼白な顔で見上げるエリーに、ジャクリーンは小さく舌打ちした。
「あんたのせいよ」
「え?」
「あんたの魔力付与のせいで、あたしが認められなかったのよ。あんたが余計なことをしたから、あたしの計画が台無しよ!」
「な、何言って、お姉さま……」
「お姉さまなんて呼ぶんじゃないわよ!」
ふたたび頬を張られたが、今度は倒れずに済んだ。
紫の目に怒りの色を燃え上がらせ、ジャクリーンが吐き捨てる。
「伯爵が気に入ったのは、あんたの魔力付与だったのよ。いいえ、伯爵だけじゃない。アランもよ。あんたの魔力付与に惚れ込んで、あたしと結婚しようとしたの。あの二人が思うような仕事ができないと、あたしがとっても困るのよ」
「私の……何が?」
「言っとくけど、あたしにだってそれくらいできたわ。だけどね、あの二人はそれじゃ満足しないの。はっきりそう言われたのよ。だから、あんたを捜したの」
ジャクリーンの目は爛々と輝き、異様なほどぎらぎらしていた。
そういえば、いつもなら魔力を流し込むはずなのに、どうしたのだろう。
よく見ればジャクリーンの髪はぱさついて、白い肌もくすんでいた。
(魔力が……足りていない?)
目の下には薄く隈が浮いている。あの家で暮らしていた時には一度もなかった光景だ。
よく見ればドレスにも皺が寄り、野暮ったくなっている。レースひとつにさえ気を配っていたジャクリーンからは考えられない恰好だった。
「あんたのせいで、ずいぶん魔力を消費したわ。もう限界。あんたの魔力を搾り取って、全部使わせてもらうから。そうじゃないと、あんな無茶な注文こなせない」
「お姉さま……何を」
「残りの魔力、全部あたしがもらってあげる。死ぬのが少し早くなるだろうけど、それはしょうがないわよね。だって、あんたが悪いんだから」
「お姉さま……」
「あんたはあたしのために生きて、そして死ぬの。今さら逃げられると思わないで」
そこでジャクリーンはふふ、と笑った。
「それにしても、本当にツイてたわ。追跡魔法の効果が切れていなくて。身体に刻んだ方は消えてるけど、持ち物には残ってたみたいね」
「持ち物……?」
そこでエリーは思い出した。
エリーを拾ってくれた際、散らばっていた荷物も運び込んでくれたと言っていた。
ジャクリーンが捨てたドレスが大半だったが、中にはエリーの私物も交じっていた。あれに追跡魔法がかかっていたのか。捨てるのは忍びなかったのと、いずれ公爵家を出て行く時に売って足しにしようと思っていたため、今も保管されている。
捨てておけばよかったと思ったが、後の祭りだ。同時に、ジャクリーンがなぜいつも自分の家出を阻止できたのか、その理由が分かった気がした。
「それにしても、なあに、ここ? 工房なの?」
ジャクリーンが作業場の中を見回す。
その口調からすると、ここが公爵家の別邸だとは知らないようだ。
気づかれる前に出て行ってもらおうと、エリーがもがく。
「おとなしくしなさい。ずいぶん高そうなものが混じってるけど……あれ、魔石よね。ものすごく大きいわ」
「そ、そういう趣味の方なので……!」
「伯爵のコレクションにも引けを取らないわ。いえ、もっとすごいかも。ふうん、お金持ちなのね」
ジャクリーンの目に光が点る。
あ、まずいと思う間もなく、彼女が何かを見つけ出した。
「あら、あれは何?」
「!!」
よりにもよって、ジャクリーンが目を付けたのは『王者の冠』が保管されている一角だった。慌ててエリーが引き留める。
「あれは、危険なものなので……!」
「うるさい!」
しがみつくエリーを振り払い、ジャクリーンは魔力を流し込んだ。ビリッ!! という刺激を覚悟したのは束の間、魔力は痛みに変わる前に消えていく。
(……え……?)
全然、痛くない。
「何よ、あんた……!?」
ジャクリーンも驚きに目を見張っている。美しい瞳が怒りに燃え、赤い唇が醜くゆがんだ。
「生意気ね! 痛がりなさいよ!」
ふたたび魔力を込められたが、やはり痛くもかゆくもない。魔力不足かと思ったが、そういうわけでもないようだ。いつもほどではないが、ジャクリーンの魔力はほとばしっている。バチバチという音が聞こえるほど。
それなのに、痛くない。
(どうして……?)
理由はすぐに判明した。
つかまれている手の逆、左の薬指に光る指輪。
ほのかな輝きを浮かべながら、指輪がジャクリーンの魔力を吸収している。
(これって……!)
おそらく《守護》が働いている。
それに気づくと、エリーは反射的に手を引いた。後ろ手に回して守ろうとする。案の定、ジャクリーンがそれに目を留める。
「何を隠してるの! 出しなさい!」
「嫌……っ」
エリーが身につけている装飾品はこれひとつだ。遅かれ早かれ見つかってしまう。その前にと、せめて背後に隠してかばう。
これはアーヴィンがくれたものだ。一度ならず二度までも、手ずからエリーに嵌めてくれた。
深い意味などないのは分かっている。
けれど、エリーはあの時、心があたたかくなったのだ。
嬉しい。
あの時の気持ちを大切にしたい。
だから守りたい。どんなものからも。
たとえそれが、世界で一番恐ろしい姉からでも。
「これは、私がいただいたものです……!」
「いいからよこしなさいよ、よこせったら!」
「嫌です!」
姉に逆らったのは初めてだった。
揉み合う形になり、引っぱたかれて倒れ込む。殴られ、蹴られ、どんなに痛めつけられても、エリーは指輪を手放さなかった。
床にうずくまったまま、丸くなって守る。
(絶対に、渡すのは嫌……!)
「このっ……!」
ジャクリーンが振り上げた手が、棚の一角を薙ぎ払った。ばらばらと魔導具が落ちてくる。どれもエリーが魔力付与した品だ。
その中のひとつを手に取ると、ジャクリーンは目を細めた。
「……この魔力付与したの、あんたね?」
「!!」
「死にかけだと思ったら、まだ使い道があるんじゃない。やっぱりあたしを騙してたのね」
「騙してなんか……」
「使えると知ってたら、もっと搾り取ってやったのに。許さないわ」
あんまりな言葉に、エリーは唖然として姉を見つめた。
魔力枯渇ではないにせよ、重度の魔力欠乏を起こしていたのは事実だ。あと少し遅かったら、命の危険があったとも言われていた。ジャクリーンもそれは知っていたはずだ。
それを承知で自分を捨て、あまつさえ利用できると分かったら、最後まで食い物にしようとする。
こんなのは姉じゃない。
姉どころか、人でさえない。
(ひどい……)
呆然と見上げた姉の顔が、見知らぬ他人のように見えた。
「もういいわ。本当ならやりたくなかったけど、仕方ないわね」
そう言うと、ジャクリーンは何やら呪文を唱え始めた。
(何……?)
不思議に思う間もなく、がくん、と足から力が抜けた。
「!?」