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兄、ラドクリフ

 翌朝、鍛錬場はいつもとは違う華やいだ雰囲気に包まれていた。普段は暑苦しい男たちだけなのに、女官や侍女たち、果ては下働きの女たちまでが鍛錬場へと押しかけていたからだ。ローランドがお目当てなのは間違いない。きゃいきゃいと黄色い声で騒ぐ女たちを見て、騎士たちは当然面白いはずがない。

 屈強の手練を十名も用意して、臨戦態勢を整えている。細身でひょろ高いだけの『坊や』が一人目の騎士に倒されるのにどれぐらいの時間がかかるか、そのことだけが彼らの興味の対象となっていた。

 それが覆されるとは、彼らの中の誰が想像できただろうか。


「おい、まだ立ってるぜ、あの坊や。ふらふらだけどな」

「今、何人目だっけ? お前できるか?」

「いや、無理。っていうか、やりたくない」

「よくやるよ、あいつ……。女みたいな綺麗な顔に似合わねえ」

 ローランドは胸当てと籠手だけの簡易な防具をつけ、鍛錬という名の総掛かり戦でボロボロにされていたが、よろけながらもまだ相手を続けていた。練習用の剣は刃をつぶしているので大きなケガはしないが、それでも当たれば痛みはあるし小さな傷は負う。

 リタ王女がそわそわとしている。やめさせようか、どうしようか悩んでいるようだ。今のところ魔力は使っていないので、止めるタイミングをつかめないらしい。

 十三人目が打ち込んだ渾身の剣を受け損ねて、ついにローランドが片膝をつく。団長が叫んだ。

「そこまでだ!」

「はっ……お、わ、……た……」

 ローランドはその場にへたりと両膝をついた。ガランと剣が手を離れた。ぜいぜいと息が上がり、毛先からは汗がしとどに伝っているが、相手をした騎士たちも体からほかほかと湯気を立て、アゴからは汗が滴り落ちている。

 団長が近づいてきて、ローランドの頭を大きな手でくしゃくしゃにしながら満面の笑顔で言う。

「よくやった。基礎は出来ているから鍛錬すれば使い物になる。魔力などとつまらないことを言ってすまなかった。どうだ、今夜は飲み明かそうじゃないか」

「はあ、はあ、俺、まだ、はあ、はあ、成人してないんで、酒は、飲めません」

「なにいっ! おおおお、お前、いったいいくつなんだ!」

「十三、です、あと少し、で、十四、になり、ます」

「嘘だろーっ! どう見ても十七か十八……、俺たちは子ども相手に総力戦を挑んだっていうのか? 大人気もなく? 何てことしたんだ、お願いだ、嘘だって言ってくれーっ」

 団長の絶叫が早朝の鍛錬場にこだました。

 デュフレーンでは十七で成人となり、社交界へとデビューする。飲酒も然り。


 その日の朝食後、お茶を飲みながら寛いでいたときのこと。

 リタ王女が興奮気味に朝の鍛錬場でのことを語っていた。

「あの後、ローランドは団長たちとすっかり意気投合してしまって。食事も騎士団と取ることにしたそうよ、お兄様」

「へえ、それで朝食の席にいなかったのか。別にいいんじゃないか?」

「でもシアが楽しみにしていたのにね」

「お姉さま、私は楽しみになんかしておりません。私、ローランドとは師弟になることにしたのですから。勉強して、立派に王族としての責務を果たせるようになるのですわ」

 セオドーシアはきらきらと瞳を輝かせている。

 だが、それを見て、ルシウスは暗い表情になった。昨日の花木立の中の出来事を遠見の力で『見て』いたからだ。

 ずっと、魔力がないことを引け目に思い我慢し続けたせいで、セオドーシアは人の辛さや苦しさを敏感に感じ取り、すぐ共感してしまう。そうなると無理をして自分を押さえ込んでしまうのだ。あまりにもそんなことを繰り返してきたものだから、無理をしていることさえわからずにいる、悲しいほどに優しい妹なのである。

 一方、ローランドのことも何となく理解できるのだった。あの飛び抜けた力は王家なら発揮できただろうが、今の立場では宝の持ち腐れと言えるだろう。それにどれだけ優秀であっても所詮は魔力のおかげと言われる。いったい自分は何のためにこんな力を持って生まれて来たのかと、苦しい自問自答を繰り返してきたことは想像に固くない。巷の評判は必ずしも良いとは言えないが、セオドーシアの王女としての立場や自分への好意を利用するのを好しとしない程度には彼も善人であったのだ。男としての矜持もあっただろう。二人のことがわかるだけに、二人に幸せになって欲しいと願うルシウスなのだった。

 セオドーシアは、そんなルシウスの思いには無頓着に呟く。

「あ、でもお勉強ならローランドのお兄様のラドクリフ様の方が適任だったかしら?」

「だめだ!」

「だめよ!」

 シリウスとリタが同時に叫ぶ。

「ラドクリフには補佐として宰相の仕事を覚えてもらっているからな。執務が滞る」

「そうよ、執務が滞るわ!」

「執務が滞るとは? リタ王女。皆様、おはようございます」

 爽やかに登場したのはラドクリフである。宰相と同じブラウンの瞳にブラウンの髪、長身であることを除けば平凡な容姿である。

「弟の様子を見て来いと母がうるさく言いますので」

「おいおい、まだ一日だぞ、たったの」

 シリウスが苦笑する。

「ロウ家にとりましては百日にも匹敵しますから」

 とんだ親バカぶりだが、そのあとに続く言葉を聞いて一同はシンと静かになった。

「弟はもう家には帰ってこないと思いますので、会えるうちにできるだけ会っておこうと思います。明日いなくなるのか、五年先なのか、それはわかりませんが」

 ここに残るのか、出て行くのか、先のことはわからないが、ローランドが宰相家に帰ることはないらしい。しんみりとした雰囲気はラドクリフの次の言葉でどこかへ飛んで行ってしまう。

「それで、執務が滞るとは? リタ王女。父も私も執務をないがしろにしたつもりはないのですが。何を根拠にそのようなことを?」

「ぐ……、根拠?」

「うん? 一国の王女ともあろう方が軽々しく、考えもなしに思いつきを口になさったと?」

「ち、違うの。あ、あのね、ラドクリフ、そういうわけではないの。私は思いつきで口にしたわけでは、ないのよ?」

「では、どのようなお考えで?」

「はぇっ」

 追い詰められて言葉に詰まってしまい、真っ赤な顔をしたリタに、にこにこと笑いかけるラドクリフを見て、似てないのは外側だけで中身は兄弟そっくりだろとルシウスは思った。シリウスといい、ラドクリフといい、ローランドといい、宰相といい……。

 まともな男は僕ひとりじゃないか!

 その結論に達したルシウスは、あいつらのことはもう構わないでおこうと堅く心に誓うのだった。


 シャワーを浴びてすっきりした顔のローランドが食事室に入ってきた。セオドーシアと目が合うと微かに微笑んだ。

「皆様、おはようございます。シリウス殿下、リタ王女からご報告が行ったと思いますが、今後の食事は騎士団と取らせていただけたらと」

「ローランド!」

 ラドクリフが宝物を発見したように喜ぶ。

「兄上! いいんですか? こんなところで油を売って」

「ああ、執務室にはすぐ戻る。母上が心配されてな、様子を見て来いと」

「ははっ、いつまでも子ども扱いだな、母上は」

「母上から見ればキャンディを喜ぶ子どもから成長してないってことだ。真面目にやっているか? 夜、抜け出して下町へ行くようなことは」

「いやだな、そんなこと、昨日の今日でするわけないじゃないですか。兄上は心配性だなあ」

 昨日の今日でなくなったらするのかという突っ込みも受け付けないほど、馬鹿らしくも和やかに続く兄弟の会話を尻目に、シリウスが片目をつむってリタを見る。

「よかったな、リタ」

「な、何が?」

「おや、まだラドクリフと話がしたかったのか?」

「兄上!」

 先ほどの決意はどこへやら、たまらずルシウスは叫ぶ。

「ああ、そうだったな。ローランド、騎士団の件は了解した。ところでシアのことだが」

 セオドーシアが背筋を伸ばしてシリウスを見た。

「何やら勉強をして立派な王族を目指すらしい。ま、ローランド、そういうわけでシアのことは頼んだよ」

 セオドーシアが、うんうんと頷いている。そのたびに銀色の巻き毛が揺れる。それを見つめるローランドの目が優しく細められる。

「御意、殿下」


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