苛立ちと涙の間で
「ミーナさん、帰ったよ……、また、やっちまった……」
「ランディス! 何やってんだい! 誰か、港へ行ってグレイブ呼んできて!」
グレイブは医療の心得があるので、港町では重宝されている。
いつものように皮袋をカウンターへゴトリと置くと、ローランドはそばの椅子に体を投げ出した。布を巻き付けた手からは鮮やかな赤色が滴り落ちている。
「俺、この稼業、向いてないのかな」
「バカ! スランプなんて十年早いよ! 気が緩んでる証拠だよ!」
ミーナが叱りつける。
ダメなんだ、とローランドは思う。
何を見ても、何をしてもイライラする。
何かに焦っている。
風の音、雨の音、花の甘い香り、剣の重さ、冷たさ、汗や革の匂い、分厚い本、笑顔や涙。
そんな、何でもないものが、唐突にあの声を、あの笑顔を運んでくるから。
ローランド、ねえローランド
やめてくれ、頼む
ローランドは、もういないんだ
あの日の魔法使いはどこにもいない
ある日、ガルフェンがローランドに言った。
「ヴェルテの王都へ行ってみるか?」
ガルフェンがうるさいので、大きな町や王都には近づかないようにしていた。
「いいのか? ガルフェン」
「王都までは十日ほどだからな。気晴らしにちょうどいいだろ。お前が怪我ばっかするんで、ミーナが俺に小言を言うんだよ。こういう時は旅立つに限る。お前も一人旅は散々しただろうが、誰かと行くのもいいもんだぜ。ま、色気はねえがな。そこは我慢しろ」
そうして、ガルフェンとローランドは王都へ向けて出発したのだった。
「傭兵さん、傭兵さん。頼みがあるんだが」
畑が続く農道でいきなり声をかけられた。
剣を提げているからだろう。
ガルフェンが鷹揚に頷く。
農夫はほっとした表情になり、言った。
「その先で、荷馬車の車輪を水路に落として困ってるんだ。力を貸してもらえると助かるんだが。報酬は酒と食い物でどうだろう? ダメか?」
「ガルフェン、行こう!」
「あ、待て! 受けたのは俺だぞ!」
荷馬車の所に着き、ローランドがマントを脱ぐと農夫は言った。
「あ、アンドリュー殿下?」
「ただのそっくりさんだから、こいつは」
それに殿下は今、四十過ぎのおっさんだ、とガルフェンが言ったので、農夫も納得している。農夫はしみじみと言う。
「優しい方だったなあ。政の世界には似合わない方だった」
ちらとガルフェンをローランドは見る。
ガルフェンは知らんふりで指図する。
「俺とこいつが車輪の下に入って押し上げるから、あんたたちはロープを引っ張ってくれ。いいか? せーの! ランディス、押せ!」
泥水に腰までつかり、ガルフェンとローランドは車輪の下へ体を入れて押し上げる。
「ガルフェン! トシなんだから無理するなよ!」
「図体ばかりでかい若造が! 口だけでなく力出せ!」
無事、荷馬車を水路から引き上げ、今は農家の庭先で体を洗わせてもらったところだ。
「いやあ、助かった、助かった。あんた達の前にも何人か通ったんだが、ダメだったんだ。何でも、王都の口入屋で大勢、傭兵を募っているらしくてな。そっちに行ってしまったんだよ。さあ、これが約束の酒と食い物」
「ヴェルテの王都で傭兵を募ってるって? まさか……」
「いや、二十年前のようなことではないらしい。募っているのは、バイロンの辺境伯だそうだから」
バイロン
ローランドとガルフェンは思わず、お互いを見た。バイロンで何かが起こるというのだろうか。
王都までは、あと五日ほど。
「何だか、男らしい街だな、ガルフェン。その、素材で勝負するというか、飾らない良さというか」
「気を使わなくていい、ランディス。内乱が終わって二十年も経つのに立ち直れていない街だ。王都はもっと酷いぞ。剣を離すな。俺以外は全部敵と思え。いいな」
あの港町がどれだけ平和だったか、ここへ来るまでの田舎町がどれだけのどかだったか、今更のように思い知らされた。
ガルフェンが口うるさく言うわけがやっとローランドにもわかってきた。
特に、この灰色の髪と瞳を持つ者にとっては、避けるべき場所だったんだと。
「今夜も野宿か? ガルフェン」
「王都が近くなると、お前も危ないが、俺も危ないんでな。今日は知り合いの所へ泊めてもらう」
「知り合い?」
「デップさ。アーニーもいる」
そう言えば、ローランドがふらふら出稼ぎをしている間に二人はあの港町から姿を消していたのだ。
下町の居酒屋の扉を押して、ガルフェンが入って行くのに続く。
デップはここの主でアーニーはそこの下働きということらしい。
「団長、久し振りですね。ランディスは随分と背が伸びた……、髪も」
「こいつ女みたいに髪を伸ばしてやがる」
「アーニー、久し振り。懐かしいなあ」
「俺は懐かしくなんかねえよ!」
「つれないなあ、アーニー」
年齢が近いせいかアーニーと話すのは楽しい。来て良かったとローランドは思った。
それに少しはアンドリュー殿下のことがわかってきた。二十年前の政変でヴェルテの王都や主だった街は戦火に包まれたのだ。そして、民衆から支持を得ていた殿下は、策略によってその争いに敗れ、ランディスという名の旅行手帳を作り、デュフレーンへ逃げた。ガルフェンたちの役割は殿下を無事に逃がすこと。団長と呼ばれていることからも、護衛か騎士団かだったのだろう。だが、殿下の行方が分からなくなる。対抗勢力に殺されたか。また、殿下を担ぎだして復権を狙う旧派に利用されないためにも、殿下の所在を知る必要があったのだろう。
殿下がデュフレーンへ入ったのは間違いない。
そこからはローランドの想像だ。
調達屋に旅行手帳を売り払い、まとまった金を手にする。髪を染め、市井に紛れ込む。または地方へ行く。
やるじゃないか。
旅行手帳の、あの少し寂しそうな笑顔が頼もしく思えてくる。
アンドリュー殿下は自分の幸せを手にしたのだと思いたい。それも、デュフレーンだからできたのだと。王家の魔力で守られた安全で統制の取れた国だから。
だが、その国を俺が壊してしまった。
殿下はデュフレーンの悲劇を憂えたに違いない。
……変わり者のノートン伯? まさか。でも、一番に支援の手を差し伸べてくれた。いや、どうだろう。
でも、いつかはデュフレーンに帰って確かめてみたい。そしてガルフェンに教えてやりたい。
そう思うと、少しイラつきが治まってくることにローランドは気付いた。
シア、君の守ろうとした国は大したもんだよ。
シア、君に会いたいけど……
髪、切るかな。
ローランドは思った。
ローランドの顔を見るのが嫌で伸ばしてきたけど、国を背負って立とうとするシアに比べれば、何と小さな悩みだったのか。
バイロンへ行ってみようか。
デュフレーンはすぐそこだ。
ぽん、と肩を叩かれて我に返る。
「幾ら?」
居酒屋の客だが、妙な雰囲気の男だ。
ガルフェンがにやにやしながら指を三本立てている。
「ねえ、幾ら?」
ああ、そういうことかと、ローランドは気付く。指を伸ばして、手の平を男の鼻先に突きつける。
「五万ヴェルだ!」
「た、高いわ! 相場は三万よ!」
「俺は高いんだよ!」
男がぷんすか怒りながら店を出て行くと、ガルフェン達が死ぬほど笑っているのが見えた。
今は笑ってろ、ガルフェン。
いつか嬉し涙を死ぬほど流させてやるからな、とローランドは思った。




