始まり
登場人物や国の名前は好きな映画やコミックなどから。
楽しんでもらえたらウレシイです。
逝くな、逝くな、俺をおいて
お願いだ、逝かないでくれ、何でもするから、頼む、逝かないでくれ、頼む
……愛してるわ、ローランド
わたしの、魔法、つかい……
「シア!」
……セオドーシア……
大きな声をあげ、汗びっしょりになって飛び起きた若者のすぐ横から不機嫌な声が投げつけられる。
「うっせぇんだよ! ランディス! 毎晩、毎晩、うなされてよ! いいかげんにしろ!」
「あぁ、悪い……」
体中に吹き出た汗が嫌な記憶のようにまとわりつく。払っても、払ってもなくなることはない。若者は額に手を当ててから自嘲気味に呟く。深いため息とともに。
「五年もたつのに、情けねぇな……」
ゆらりと立ち上がると、雑魚寝の男たちを起こさないように歩き、外へと出た。
山岳地帯のためか、リリリ、と虫の音が小さく聞こえ、深い藍色の空にある金と銀の双子の月がくっきりと大きく見える。
遥かな高みから見下す金と銀のオッドアイ。かつての自分の瞳と同じ色の月を、今は灰色の瞳が見上げて、伏せた。
彼は、もうローランドという名前の魔法使いではないから。魔力はあの時、なくしてしまったから。いや、『彼自身』をなくしてしまったから。
彼が今いるのは、バイロン公国の辺境伯が集めた傭兵の屯所だ。彼の生まれ故郷である隣国デュフレーンは目と鼻の先。ランディスと名前を変え、十五歳でデュフレーンを逃げるように出てから、五年の間、各国を彷徨った。
港の荷役夫や炭鉱労働者、何でもやって生きてきた。最初は遠い北の辺境国へ行った。 少しでもデュフレーンから離れたかったから。
デュフレーンを避けて、あの後の自分の祖国がどうなったのか、考えないようにするために。
だが、月日が経つにつれ、何をしても満たされない、餓えにも似た焦燥感に苛まされるようになる。それはデュフレーンから遠くへ行こうとすればするほど酷くなった。
デュフレーンへ帰りたい。
風の音、雨の音、花の甘い香り、剣の重さ、冷たさ、汗や革の匂い、分厚い本、笑顔や涙。
日常の些細な事柄がすべてデュフレーンを思い出させる。
だから口入屋でバイロンの辺境伯が傭兵を募っていると聞いた時、思わず手をあげていた。デュフレーンが近づくにつれて悪夢を見るようになるとも知らないで。
故郷が恋しくなったのかもしれない。
いや。違うだろ、たぶん。
恋しいのは、あの銀の髪の少女だ。
デュフレーン国第二王女、セオドーシア。
銀の髪と碧の瞳をした少女。国を守るため強大な魔力を持つ王家の中でただ一人、蝋燭に灯をともすことも難しいと嘆いていた少女。
出会いは春爛漫の花木立の中。
彼が十三歳、少女は十歳。
思いは遥か、遥か遠くデュフレーンへと彼を運んでいく。
セオドーシア。シアと呼んでいた。
春爛漫の花木立の中。
甘い花の香りと少し困ったような声。
ローランド、ねえ、ローランド
デュフレーンの方角を見ている彼のくすんだ灰色の髪を、山を渡る風が揺らしていく。
恋しい少女の声を思い出して、そぎ落としたような頬が緩み、きつい目元に一瞬、優しい光が宿った。