セッション3【忘れられた神】
山道を歩き慣れていない私は、足元を確かめながら一歩ずつ慎重に進む。前を歩く雪音が安全なルートを選んで通ってくれるためそこまで労せずに登山することが出来ていたが、それでも時たま小さな段差に足をかけたり足元の土が滑りバランスを崩しそうになる。
真夏にも関わらず比較的涼しい森の中をそれでも汗がじっとりとにじむほど歩いた頃、植物のものとも動物のものともつかない不快な異臭が鼻を突く。そんな臭いの元が気になり、何気なく路傍を一瞥して後悔する。
異臭の原因となっていたモノは、大きさからして野生動物のものだろうということが推測できる、規則正しく並べられた臓物だった。このような状態で野ざらしにされてからそれなりに時間が経過したのだろうか、並べられた臓物には虫がたかっている。異様な光景に思わず「おえっ・・・」と声を出した私を心配して雪音が振り返る。
「どうされました?やはり体調が優れな・・・」まで口にしたところで私の視線を辿った雪音は同じものを目撃することとなる。
「・・・また、これですか。」
「また?」
「1年前、お嬢様が失踪したあの日。篠奏村内のあぜ道で同じ光景を見ました。」
「まるで何かの儀式でも執り行った後みたいね。」
率直な感想だ。創作の中でよく見る、動物の血や骨を使用した得体の知れない儀式を見ているような気分になる。
「村の風習か何かなのでしょうか・・・?」
「私が篠奏村について調べた中ではそんな風習についての記述は見なかったわ。」
「ならば、狂人や夢遊病患者の仕業ですかね。」
「考えても埒が明かない。写真だけ撮ってとりあえず進みましょう。・・・・・念のために、周囲を警戒しつつ。」
喋りながらもそれぞれ違う角度から3,4枚の写真を撮り終えていた私が前へ向き直ると、先程までと同じように雪音が先導を始める。
臓物の並べられた地点から10分ほど歩くと、ちょうどY字路のように左右に向けて道が分岐している地点へと辿り着いた。整備された上踏み固められていて、今なお人間が使用している痕跡が残る右側の道とは対照的に、左側の道は獣道とでも表現する方が相応しそうな程に荒れている。
できれば私達の進む方向は右であって欲しいという淡い希望は、すぐに打ち砕かれることとなった。
「この分岐を左に進み更に10分ほど歩いた場所が目的地となります。そして・・・」
深刻そうな表情をする雪音が臨戦態勢に入るのが、長く付き合ってきた私にはわかる。
「ここまでの道は人間の跡が多すぎて気が付けませんでしたが。どうやら先客がいるようです。」
地元の人間でも立ち入らないような危険区域に、私達よりも先に入った人間が居る。
1年も経っているし、あの事件とは無関係の人間である可能性の方が高いだろう。しかしどうも、胸がざわつく。さえずる鳥たちの声が、風に揺られてこすれ合う木々のざわめきが、先程までよりもずっと遠くで聞こえている気がする。
「この先、隠れられる場所は」
「すれ違うのもやっとの、崖際です。おそらく、先へ進めば必ず出会います。」
「・・・好都合、じゃない。」
もしもこの先に居る人間がもしも私を死の淵に追い込んだ"敵"ならば、やるべきことは一つしか無い。
こんなことになるのなら、昨夜の内に投げる練習でもしておけば良かったなぁ...
◆◇◆
金髪緋眼の少女はその場でしゃがみこんだかと思うと、どこからともなく取り出した黒光りする革製の手袋をはめる。するとおもむろに鞄を開き、中から小さいながらも頑丈そうな金属製のケースを取り出す。躊躇う素振りも見せずに開いたケースの中には、二十本余のナイフが規則正しく並べられ、大事そうにしまってあった。
続けて鞄の中から透明な小瓶を取り出すと、1年以上ある筈のブランクを一切感じさせない慣れた手付きで中の液体をナイフに塗り始める。一本、また一本と最高効率で作業を進める彼女の目には最早、迷いも怯えも存在しない。
「いつもの様に。」
立ち上がりただそれだけを使用人に告げると、リーゼロッテはたった今自分が透明の液体を塗布した6本のナイフを、それが出来るようにと特注で作られた腿と腰のベルトに3本ずつ通していく。
「リズお嬢様。"お仕事"は1年ぶりですし、今回は地形的にも私が隠れる場所がありません。同行しても?」
「そうね。お願い。」
事務的に意思統一を終え、再び歩みを進める。
道が分岐して間もない内は柔らかい土で大半が覆われていた地面に徐々に砂利の占める割合が増してきた頃、二人は遠くにぽつりと佇む人影を見つける。距離にして100m程だろうか、背を向けて立っている相手がこちらに気付いた様子は無い。
(なるべく情報を聞き出してから、もしも敵なら殺す。)
いつ振り向かれても堂々と対面できるような心構えをしつつ、距離を詰めていく。70m... 60m... 50m... 距離が縮まったことで、黒髪のかなり体格の良い男性らしいということは分かるが、相手がこちらに気付く気配はまだ無い。バランスを派手に崩してしまえば崖下へ真っ逆さまという危険極まりない足場を、綱渡りでもするような気持ちで進む。40m... 30m... 20m... ここまで来れば相手の大まかな所持品まで分かるが、男の鞄は銃器を運べるような形状ではないし、服にも不自然な凹凸は表れていない。何かしらの武器を携帯しているとしても投げナイフで対抗できる程度の物だろうと、リーゼロッテは判断する。
そしていよいよ得物の射程圏内である至近距離まで距離を詰めたところで、声をかける。
あくまでも堂々と、相手に付け入る隙を与えないように感情を表に出さないことを心がけつつ。
「静かに、両手が見えるようにこちらを向きなさい。」
その敵意の込もった声を聞いてようやく自分に迫っていた人間に気がついた様子の男は、尋常でない空気を本能的に感じ取ったのか、意外にも言われたとおりに両手を上げてゆっくりと振り向く。
顔立ちの整った、短髪つり目の偉丈夫。
リーゼロッテと雪音は、その男を嫌という程よく知っていた。
「お前は・・・・、お前は、吹雪ポール・・・・・!」
驚愕を隠しきれず、リーゼロッテは一瞬だけ素に戻ってしまう。
「(お嬢様、間違いなく吹雪ポールです。最大限の警戒を。)」と、相手には聞こえない程度に殺した声で雪音が答え合わせを挟む。
◆◇◆
(どうしてこいつがここに?私達が来ることを知っていて待ち伏せた?でもそれなら普通あんな無防備な状態で待つ?それとも、こちらと同じように本当は複数人居る?いえ、しっかりと索敵をしながら通ってきたはず・・・)
頭をフルに回転させ、状況を整理しようと試みているとやがて返事があった。
「やぁ・・・まさかこんなところでお嬢ちゃんに会うとはな。」
これは青年の姿に扮している雪音に対する言葉ではない。となると私のことを知っているコイツはやはり、篠奏村事件に関する記憶を失っていない。
無言で腰に手をかけつつ、心理的にマウントをとるべく威圧する。
「最初に言っておく。妙な素振りを見せたら私達のどちらかが瞬時にお前を殺すわ。」
「おっとぉ。その腰の毒を塗ったナイフから手を離してもらおうか・・・?」
(私の手の内を知っている・・っ!?)
より一層警戒を強めて相手を観察していると、吹雪の体が小刻みに震え始めたことに気がつく。どうやら口ぶりとは裏腹に、精神的余裕は無いらしい。
(いやしかし、動揺はしているわね。人数差とこちらの先手が効いた、か)
「声が震えているわよ?」
「明らかに敵意を向けてきている相手だ、仕方が無いだろう?」
余裕の無さを看破されてか、声色に含まれる怯えが一層顕著になる。ここで畳み掛けるのが吉か。
「ええ、こちらとしてはお前を見逃す理由は無いもの。・・・・ただし、正直にこちらの質問に答えるのなら、命は助けてやっても良い。」
「お嬢ちゃんは、まだ俺を疑っているんだな。」
風が吹き、崖際からいくつかの小石が転がり落ちる。一歩踏み外せば致命となる安定感の無い足場で、両手を上げた状態で何かに掴まることも許されないまま敵意剥き出しの二人の相対者に睨まれて、吹雪ポールは明らかに動揺している。
「白々しい。お前がやったことは知っている。」
あえて何を知っているかを言わずに、カマをかける。もちろん吹雪がSM8号事件に関与している確証も、1年前の篠奏村事件で私を誘い出し殺害しようとしたという確証もまだ無い。ならば、吹雪が犯人だという最悪の事態を仮定して話を進めるのが最もリスクが少ない。
「前も話したが、何を勘違いしているのか。」
前に話した?・・・・何やら、違和を感じる。話が噛み合っているようで噛み合っていないという、漠然とした感覚。しかしその正体に気付くことが出来ない。それでもここで黙り込んでしまえばこちらのハッタリが相手に勘付かれてしまうことになりかねないので、なんとか繕って会話を続ける。
「最初の質問。何をしにここへ来た?」
その質問にどう答えるか悩んだのか、吹雪は一拍置いて答える。
「まぁ、お嬢ちゃんになら隠す必要はないか。・・・
・・・・自ら死のうとした過去の自分と向き合うため、だな。」
そう語る吹雪に、嘘をついている様子は見受けられない。
自ら死のうとした、だと?あまりに突飛な話に、思考を乱される。
「戯けたことを。1年前、お前が私をここに誘い出して殺そうとしたのは知っているわ。」
これは賭けだ。図星ならば、相手は嘘を看破されたことによる動揺を見せるはず。もしも断定的に語ったこの推測が間違っているのならば、こちらの情報量も大したことが無いのだと察知されてしまう。
「何を言っている。場所を決めたのはお嬢ちゃんじゃないか・・・。何も覚えていないのか?」と続いた男の言葉をしかしうまく飲み込めない。「俺はお前に殺されたんだぞ。」
話せば話すほど、ワケが分からなくなってくる。
私は、この男を殺した?眼の前で立って、生きているではないか。いや、それを差し置いてもだ。もしも本当に私が誘い出した側で、この男を殺害することに成功していてもそれは私まで倒れていた理由にはならないし、何より他の2人の存在はどう説明する?やはりこの男の話は虚言・・・なのか?
「・・・何を、馬鹿な、ことを」
とにかく心理的優位を維持しなければいけない、という指令のみが私の口を強引に動かす。
「お前は、自ら死のうとしたと、先程言った・・・。早速、嘘をついた・・・わね?」
必死の演技も虚しく、男は冷静さを失っている私の精神状態を見抜いてか、攻勢に出る。
「まぁ、あれだけの出来事があったからな…あのときがあったからこそ今の俺があるのは間違いない。そしてお嬢ちゃんが何も覚えていないのは仕方ないのかもしれない、な。」
「お前は、一体何を言って、」
「リズ、落ち着いて。相手のペースに乗せられちゃだめだ」
先程よりも一段と声のボリュームを上げた雪音の声はしかし、あまり耳に入ってこない。
「本当に何も覚えてないんだな・・・・。」
憐れみとも嘲りともとれるその一言に言いようのない焦燥感を刺激され、冷静さをまた一つ失う。あの時何があったのかを知りたい。今聞き出すことができなければ一生知ることができないかもしれない、という強迫観念に支配される。
「・・・・・答えなさい」
いつの間にか離れていた手を再度腰にかけ、一瞬にしてそこに携えられていた刃物を抜く。
「答えなさい!あの時、一体何があったッ!」
吹雪に最大限の恐怖を与えるために、ナイフが顔の直近を通り抜けるような軌跡を描くよう投擲する。狙い通りに左頬を僅かに逸れた位置を通過していった致死の刃を直に感じ取った吹雪は固まりこそすれ、意外にも慌てる様子は無い。
「・・・本当のことを話さないなら、次は急所を抉る。」
自分でも脅しなのか本心なのか分からない。それほどまでに冷静さを欠いていた。覚えている限り、ここまで思考をぐちゃぐちゃに乱されたことは今まで無かった。きっと後ろで青年の姿に扮して見守っている雪音も私の異変に気が付いていることだろう。
「話しても良いが、信じるのかどうか…。誰も信じてくれなくて精神異常者扱いだったからな。それでも聞くか?」
話すと精神異常者扱いをされる程の出来事?1年前の篠奏山で一体、何があったのだ?
記憶の戸棚の奥底に封印されたどこか遠い記憶が、私の脳をちりちりと灼くように刺激する。
私は本当に、この話を聞いても、いいのだろうか?
「不審な点があれば・・・わかっているわね」
自分が巻き込まれた忌々しい事件の真相を知り、二度と同じことが起こらないように対策をしなければならないからという合理的な判断か、それとも単純な好奇心か。とにかく話の続きを渇望する自分自身を抑えることなど最早、できなかった。
「本当に、信じるか?」
「いいから、話しなさい」
腰に再度手をかける動作を見せつけると、男はやっとのことで折れる。
「まぁ・・・そうだな。当時の俺は仕事で色々と嫌なことがあって人生を終わらせようと思っていた。その時に見つけたのが自殺サークル用の掲示板だったわけだ。・・・そのことも覚えていないのか?」
「自殺、サークル・・・?」
「あぁ。この村に集まった4人は全員その自殺サークルのメンバーで、我々は同じ目的をもって集まった。もっと言うと・・・この村に決めたのはお嬢ちゃんだ。そこに他の3人が乗っかった。」
自分が自殺サークルなどというものに登録した記憶は無い。ならば記憶を失っている期間、つまり篠奏山事件が発生する直前に登録したということだ。その理由として唯一考えられるのはやはり、吹雪ポールの抹殺。1年前の私は自殺サークルに登録して吹雪ポールを誘き出し、証拠の残らない山中で暗殺しようとしたのか?
いや、それでは疑問が残りすぎる。どうして雪音を連れずに一人で行ったのか。どうして吹雪ポール以外に邪魔な人間を二人も呼び込んだのか。どうして・・・私まで一緒になって倒れていたのか。
「それだと私が倒れていた理由、に、説明がつかない」
混乱し、自慢の思考力が麻痺し始める。頭の中で完結させれば良い疑問をわざわざ口に出して、相手に情報を与えてしまうという初歩的なミスにも気が付けない。何がここまで私の胸を騒がせているのかもわからない。
「私はお前を、殺すために、誘き出した、はずなのに・・、どうして」
その言葉には徐々に怒りが込もっていく。
「どうして、私まで倒れていた・・・・ッッ!!!!!」
「リズ!落ち着いて!」
心配して再度声をかけてくる雪音の言葉にほんの少しだけ、冷静さを取り戻す。
「お嬢ちゃん。・・・オカルトの話は信じるかい・・・?」
「オカ、ルト?」
残念ながら、自分で事件のことを思い出す気配はまるで無い。パズルのピースを紛失したのではなく、そもそも焼けてしまっていて二度と完成させることは出来ないと言った方が近い。しかし、この男はパズルの完成形を持っている。私が失くしたピースがどのような絵柄だったのかを説明されることで、全体像がぼんやりと完成していくかのような錯覚を覚えるのだ。あくまでピースが欠けている私の中ではぼんやりとしか完成しないのがもどかしく、その所為でここまで焦燥を感じるのだろう。
「何を、いきなり・・・」
「ここから先の話は、実際に経験してなきゃとても信じられるような内容じゃあない。それでも、聞くかい」
「・・・・・」
「吹雪ポール、これ以上戯言を続けるのなら、僕が容赦しない。」
痺れを切らした雪音が、いよいよ直接威嚇している。
「俺は何も嘘はついていないぞ?なんなら他の奴らにも聞いてみるといいさ。」
「・・・・・・・・続けて」
「リズ!」
「・・・・・いいから。」
雪音が心配してくれているのは分かっていた。それでも、どうしても、知っておかなくちゃいけない気がした。
「それじゃ、続けさせてもらおうか。」
もったいぶるようにたっぷりと間を置いた吹雪は、言葉を選ぶように慎重に話し始める。
「・・・俺たちは夏の終わり頃、自らの生を絶つためにここ篠奏村に集まった。」
「私は、違う」
そんな虚しい抵抗を無視し、男は続ける。
「そして山を歩いて場所を探していた。霧がやけに深かったのを覚えているよ。」
先程のオカルト云々という話が脳裏をよぎる。オカルト、霧、そして死・・・
何かが繋がろうとするのをしかし、理性が拒む。
「霧の中歩いていると、獲物から引きずり出した臓物を綺麗に並べている野犬を見かけたりしてな。今思えばとにかく気味が悪い光景だが・・・死にたいとだけ強く願っていた当時の俺は、あまり気にせずに進んだ。もちろんお嬢ちゃんもな」
先程同じものを見たという事実が、この男が本当のことを喋っているのだと予感させる。
「ひたすら歩いた。霧の中、安定しない足場を一言も喋らずに延々と、な。どれぐらい歩いたかもわかんねえが、俺たちはこの場所まで自分の足で歩いてきたんだ。そして、"アレ"を見ちまった。・・・・葬儀の神ってやつをこの目で直接見ちまったんだよ。」
嫌な汗と共に、正気がまた一段階削れたのがわかる。未知の恐怖に心臓を握りつぶされ、どこへも逃げられないような感覚だ。記憶は戻っていないのに、吹雪ポールの話がどこまでも本当なのだと直感できてしまう。もう、やめてほしい。
「そして、正気を失って半狂乱になったお嬢ちゃんに俺は刺された。」
私は、葬儀の神を見た。死の気配に引き寄せられ、至福の死をもたらす彼の神に出会った。間違いない。でも、それはつまり、私が死を望んでここへ自ら足を運んだということ?ばかな、私が、ここまで生きたいと願っている私が、死を望んで、そんな、
「わたしが」
ありえない。ばかばかしい。ふざけている。
「わたしが、自分で死を求めるはずが、
わた、わたし、が、・・・・ぅ」
何か大事な糸が、ぷつりと切れる。
「うわあああああああ!!!やめろ、これ、以上は、やめろおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉあああぁああぁぁぁあぁぁぁあああああ!!!!」
リーゼロッテが目にも留まらぬ速さで腰から引き抜き投擲したナイフが、吹雪ポールに向かって一直線に飛んでゆく。少女の"生に対する執着"を体現したような殺意の一投は、体術に長けた使用人ですら予兆を察知できない程のものだった。ポールは咄嗟に回避を試みるも、自由の利かない狭い足場ではそれも叶わない。脇腹に突き刺さったナイフは根本まですっかり飲み込まれており、それはつまり塗り込まれた毒も一緒に体内へ侵入してしまったことを意味していた。
「リズお嬢様!!!!」
主人に駆け寄る雪音は自分が変装していることも忘れて叫ぶ。まだ情報を引き出せる相手を殺害するなど、本来のリーゼロッテならば絶対にしないことだ。正気を失っている主人が暴れて転落でもしたら大変だと、仕方なく後ろから組み付く。
「ごめんなさい、お嬢様。・・少しだけ・・・眠っていてください。」
一投目で全てを絞り出したとばかりに脱力しぐったりとしているリーゼロッテを念のために気絶させて壁際に寝かせた雪音は、続けて遠くで昏倒している俳優の元へ駆け寄る。
「おい、起きろ」と頬を叩かれたポールは意外にもすんなりと意識を取り戻す。
「うぅ・・・いてえ・・・なァ・・・・ッ」
「残念ながらそのナイフに塗られているトリカブト毒には解毒剤は無い。だが、お前にはまだ利用価値がある。生きたいか?」
「おいおい・・・。まだ、映画のほうが、よっぽど現実味が、あるんじゃないか・・・」
「元気そうだな。毒が完全に回り手遅れになるのは個人差もあるが約4~5時間後だ。30分で下山し、すぐに運べば間に合う。だから立って歩け。早くしないとそのうち痙攣が始まって動き辛くなるよ」
そう脅されたポールは簡単な応急処置を施され、既に震え始めている四肢を強引に動かし立ち上がる。
「僕はリズを担ぐ。途中でお前がぶっ倒れても、拾ってる余裕なんて無いからそのつもりで」
予定していた30分をかなりオーバーしつつも下山を果たした一行は、一度登山道の入り口で分かれる。離れた場所に停めてあった車を拾った雪音がポールを迎えた頃には、トリカブト毒の末期症状が表れ始めるとされる1時間近くが過ぎていた。
後部座席に乗せた途端に気を失ったものの、大型の動物ですら容易に殺すことのできる強力な毒を食らって尚ここまで歩いてこられたポールに敬意を込めて「あとは任せて」と短い言葉をかけると、雪音は培ってきた運転技術の粋を結集させ最速で神無町を目指すのだった。
◆◆◆
「じゃあ香澄さん、この男のことはお願いしますね。」
「・・・・・ええ。でも、大丈夫?色々と」
というのはもちろん人気俳優が突如として行方不明になってしまえば世間が大騒ぎするだろうことを懸念しての発言だ。
神無町に戻った私が向かったのは愛染医院という、ヴァルフレア邸から程近い町外れの小さな診療所だった。ここに勤める唯一の医者である愛染香澄は訳あってリーゼロッテお嬢様に協力する無資格の闇医者だがその腕は本物で、お嬢様の支援を受け取り揃えられた医療機器も最先端のものばかりだ。
「それはこちらで何とかしておきます。この地下施設に居る間は、誰にも見つかることは無いでしょうし。」
「・・・・・それも、そうね。・・・・・何とか一命は取り留めそうだし、目を覚ましたらまた連絡する。」
「はい。あと、お嬢様のことなんですが」
吹雪ポールなどよりも圧倒的に優先順位が高い懸案について、相談しておかなくてはならない。
「長期入院から戻って以来、どうも精神状態が安定しないようでして。香澄さんにカウンセリングをお願いできればと考えています」
「・・・・・お嬢様が。・・・・・専門分野では無いけれど、ある程度なら。」
「では、今日そのまま愛染医院に預かって頂いてもよろしいですか?」
本当はヴァルフレア邸の方が安全だろうが、お嬢様が目を覚ました時に正気を失っていたら医者が側に居たほうが良い。かと言って吹雪ポールの件もあり香澄さんをヴァルフレア邸に呼ぶわけにもいかない。
「・・・・・ええ。・・・・・じゃあ具体的にどのような状態なのか、教えてちょうだい」
話を終え、医院を後にする頃にはすっかり日が沈んでいた。屋敷に帰ったらまず、吹雪ポールの失踪に事件性が疑われないように細工をしなくてはいけない。その後で、念のために不審な点が無いか屋敷内の精査だ。午前中のお嬢様の奇妙な言動がもし精神状態の不安定性から来るものではなく、万が一本当に何かが仕掛けられていたのならば、未然に防ぐことの出来なかった私は使用人失格だろう、な・・・。




