セッション2【忘れられた狂気】
「リズお嬢様~、夕餉の準備ができましたよ~~!」
久しぶりに自宅の豪華絢爛な大浴場に浸かり、危うくのぼせかけていたリーゼロッテを扉越しに呼ぶ声がした。
「今出るわー、少しだけ待っててちょうだーい」
外に聞こえる程度に声を張ってそう告げると、少女はその美しい肢体をゆっくりとお湯から引き上げる。よく手入れのされた艶のある長い金髪を体に纏わりつかせながらふらふらと脱衣所に到達すると、何やら扉の方から視線を感じる。
「雪音?怒るわよ?」
「うっ」
「主人のお風呂を覗く使用人なんて、本来なら解雇じゃ済まないわよ・・・・」
「だって、背中を流させてくれないんですもん!」と謎の理屈で己の行為を正当化しようとする雪音に呆れながらもリーゼロッテは扉を閉めずに体の水分を拭き取る。
「せめて、せめて髪を乾かすお手伝いだけでも!!!」
「しょうがないわね・・・。じゃあ髪だけお願いしようかしら。」
なおも食い下がる侍女の迫力に圧される形で渋々承諾したお嬢様は、丁寧に畳んで置いてあった服に手をかけつつも頭を雪音に向けてしまう。
「ふふふ~。後悔しないでくださいよ~?この1年間で溜め込んだいちゃいちゃ欲、今こそ発散させて頂きますので!お覚悟を!!」とさながら真剣勝負に挑む武士のような前口上を興奮気味に述べた雪音は何を思ったか主人の髪を鷲掴みにして思い切り嗅ぎ始める。
「ちょ、こらー!髪を乾かすんじゃなかったのー!!」
急いで距離をとろうとするが、時既に遅し。自分の鞄すら持ち続けられないような非力な少女と幼い頃から主人を守れるようにとあらゆる武術を叩き込まれてきたフィジカルお化けでは勝負にすらならない。
「あ゛ぁ^~お嬢様いいに゛お゛い゛~~~~!!!!!」
髪を嗅ぐだけではもはや我慢が効かなくなった雪音は次に服を半分着かけていたリーゼロッテを抱き寄せ、その顔を自分の胸に埋めてしまう。片手でリーゼロッテの頭を抱えながら空いているもう片方の手を腰のあたりに回す雪音の手付きは妙にねっとりとしていて、罠にかかった虫をゆっくりと咥え込む食虫植物を想起させる。
「ちょ、ぐるじい!息っ! っ、息できないがらっ!!」などと必死に訴えかける主人の声はもはや暴走状態の侍女の耳には届かず、虚しく脱衣所に響くだけであった・・・
◆◆◆
「お嬢様~・・・そろそろ機嫌直してくださいよぉ・・・・」
「うるさいうーるーさーいー!」
「私だって1年間、頑張って孤独に耐えたんですしご褒美が必要だったんですよ~・・・・」
そう言われると弱い。
「だからって!せめて場所を選びなさいよもー!」
脱衣所でたっぷりと濃密な時間を過ごすことになってしまった私は、もはや疲れを通り越して溶けるようにぐったりとしている体を引きずり逃げ出すように脱衣所を這い出たところで雪音に抱え上げられ、夕食の準備がされている食堂まで運搬されてきたのだった。
「せっかくの食事も冷えちゃってるし・・・」
「冷えても美味しい料理ばかりを選んで作ったので、無問題です!」
「あなたそれ、最初から私を襲う前提だったわね?」
「う」
やってしまったという表情を浮かべて硬直している侍女にあとでたっぷりと仕返しをすることを決意しつつ改めて食卓に視線をやる。
見事だ、という他ない。いずれも私の大好物であるシーザーサラダにカボチャの冷製スープ、トマトをふんだんに使ったジェノベーゼパスタに加えてわさび醤油が良く合うヴァルフレア家秘伝のローストビーフ。退院祝いに相応しい、自然と気分の高揚するラインナップだ。
「いいわ、せっかくの豪勢な食事ですもの。怒りながら食べてももったいないし、一時休戦といきましょう。」
「ありがとうございます!お嬢様ならそう言ってくださると思ってました!」
何やら手のひらで踊らされているような気分になってくる。
「あとでたっぷりと報復するから、覚悟しておくことね!?」とこちらが抗議の意を込めてちょっとした反攻に出るも、使用人は余裕の表情を湛えて崩さない。
「楽しみにしておきます。」
・・・完全におちょくられている。長い入院生活中ずっと夢咲看護師にそんな扱いを受けていたことでおちょくられ体質がすっかり板についてしまったのだろうか?もしそうだとしたら由々しき事態だ。とにかく流れを変えて一旦形勢を立て直そう。
「今日はゆっくり休んで、明日は篠奏村に向かうわよ。いただきます。」
話題を変えた上で間髪入れずに"いただきます"を挟むことでもはや元の話題には戻せなくするという高度な(?)テクニックで場を切り抜けようとする私を疑う様子もなく、雪音も「いただきます。」と続く。
一般常識的に、使用人が主人と同じ食卓を挟んで食事を摂るという状況は不自然なのだということぐらい知っている。しかし雪音はヴァルフレア家の使用人である以前に私の親友なのだ。養う側と養われる側という立場の違いこそあれど、私達の生活は主人と使用人のそれというより仲のいい友達同士、持ちつ持たれつの共同生活と言う方が実態に近かった。
「篠奏村山中で私が倒れていた具体的な位置について調べはついてる?」
「はい。危険すぎて住民でもあまり近づかないような、切り立った崖の下です。4名の外傷から判断するに、どうやら揃って転落したみたいです。それも・・・全員が一命を取り留めたのは奇跡とも言える高さから。」
「案内は頼むわね。でも・・・何だって私はそんな危険な場所、それも『SM8号暗殺事件』の関係者かもしれない男の元に雪音を連れて行かずに・・・・。」
「それは私も不思議に思ってました。戸籍のない私の存在は諜報活動やお嬢様の安全確保を有利に運ぶため、神無の人間以外に極力知られないようにするという方針なのは確かです。ですが、存在を知られずに付いて行く方法なんていくらでもありましたし実際にこれまでそうしてきました・・・」
(そのため直接お見舞いにあがろうとした際にも断られたのも寂しかったし別に変装すればいい話なのに云々)などという恨み言も一緒に聞こえてきた気がするが、それは無視して話を続ける。
「そうね、危険の伴う行動にはいつも変装や尾行というカモフラージュを図った上で付いて来てもらっていた。当時の私の行動に謎が多すぎるのよね。」
「お嬢様が篠奏村山中で倒れていたあの日は、朝起きるといつもは幸せそうに隣で眠っているお嬢様が居なくなっていて。電話が繋がらず屋敷中探しても見つからなかったので、直ちに監視カメラの映像を確認すると午前5時頃に屋敷の前でタクシーを拾うお嬢様の姿が記録されておりました。」
過剰にも見えるこの対応はしかし、決して間違いではない。
これまで何人もの敵を"排除"してきた私が証拠を残したことなど一度もない筈だが、それでも突き止められ報復に合う可能性は0ではない。そんな危険に巻き込まれないために、そしてもし私達のどちらかが巻き込まれても即座に気付くことができるようにと決めているルールがいくつかあった。その時の私は《スマホの電源を切らない》という決め事を破り、雪音に隠れてまで出かける必要があったという訳だ。全く心当たりが無いし想像もできないことだが。
「そのタクシー会社のシステムに侵入、防犯カメラ映像から解析したナンバーの車両の走行ルートを見るにお嬢様は篠奏村という土地で下車したという事実まで辿り着きました。あとは私一人の力では限界がある山中の捜索は『篠奏村に一緒に来た友人が山に入って帰ってきません』と通報を入れて公的機関に任せ、村の中は自分で捜索するために変装して篠奏村に向かいました。」
「私達4人が早期発見されたところを見るに、どうやら警察はしっかりと動いてくれたようね」
と強がって言ってみるが、もしも雪音の対応が少しでも遅れていたら自分は命を落としていたかもしれないと考えるとぞっとする。本当にこの子が居てくれて良かったと心から思う。
「本当に・・・よかったです・・・・」となぜか私を差し置いてまたもや泣きそうになっている雪音を見て自責の念に駆られる。罪深いことをしたのだ、私は。記憶が無いことなど言い訳にもならない。
「ごめんなさい・・・・。そして、ありがとう。私が今こうして生きていられているのは貴方のおかげよ。」
「いいえ、生きていてくれてありがとうございます。リズお嬢様。」一瞬だけ曇りを見せていた侍女の表情はいつの間にか、無理に作られた微笑みに塗り替えられていた。
この子のためにも、『篠奏村事件』の全容を解明しなければならない。どうしてそんなことが起こってしまったのかが分からないままでは、同じことがまた起こるのではないかという不安は一生消えないだろうから。
「これからまた忙しくなると思うけれど、よろしくね。」
「もちろんですとも!この雪音に何なりとお申し付けくださいな!」
篠奏村の件を片付けたら次は『SM8号暗殺事件』だ。休んでいる暇は無い・・・と言いたいところだが今日はあまりにも疲れたのできっと食事が終わったらすぐに泥のように眠ってしまうことだろう。そうなるとロングスリーパーである私は10時間以上起きない。そんな体を無理に引っ張って調べ物をしても効率は悪いだろうし、諸々の調べ事は明日以降に回した方が良さそうだ。
それに・・・・今日ぐらいは雪音との再会の余韻に浸るのも悪くない。
「え、よく見るとそっちのサラダの方がゆで卵1個多いじゃない!卑怯よ!」
「それはそれは~気付きませんでした~。ぱく」
「あーーーー!!!もう許さない!!今度こそ許さないわ!!!!」
「まってお嬢様!落ち着いて!!あちょっとこらローストビーフ返してくださいお行儀が悪いですよ~~!!!」
その晩随分と久しぶりにヴァルフレア家の大豪邸に響いていた少女たちの和やかな談笑声は、まるで1年の時を経て凍りきった屋敷の空気を溶かすようにどこまでも暖かく染み渡っていくようだった。
◆◆◆
「・・・・じょ・・・・・・・まー!」
「りず・・・じょう・・・・まー!!!!おーきーてーくーだーさーいー!」
「うぇ?」
まだまだ微睡みの中を漂っている私に、声の主が痺れを切らしたのか今度は物理的な力が行使される。
頭まで被っていた布団がバサァッ!!を引き剥がされたかと思うと、心臓が縮むような浮遊感と共に体を持ち上げられる。まずい、"アレ"がくる。
「まって雪音!!起きたから!!お願い、フライングジェットユニコーンクラッチはやめてえぇぇええ!!!」
「起きてくれたならいいんですよ~」
恐怖のあまり凄まじいスピードで意識の覚醒に成功した私を見て楽しげにしている雪音がちょっと怖い。
「幸せそうに寝ているリズお嬢様を見ているのも楽しかったんですが、今日篠奏村に行くならそろそろ起きていただかないと日が落ちる前に帰れるか怪しくなってくるので、お許しください」
それを聞いて雪音に両脇を抱えられたまま時計を見ると、時刻は正午を回ろうとしていた。昨晩眠りに就いたのが22時過ぎだった筈なので、実に14時間ほど眠っていたという計算になる。我ながらなかなかの睡眠量だ。
「うぅ...寝すぎた....」
「しょうがないですよ。昨日は色々ありましたからね。」
「半分はあなたのせいだとおもうんだけど!?」
「さて、心当たりがありませんね~」などと他愛もない会話をしながら地上に降ろしてもらった私はクローゼットから服を一式取り出す。山の中に入る予定なのでなるべく露出の少ない格好をと紺のデニムパンツにグレーの長袖タートルネックを取り出したところで、今の季節を思い出す。
「雪音、今日の篠奏村の気温はわかる?」
「天気は快晴、最高気温は20度とのことです。」
ならこの格好でも問題無さそうだ。山の中だから気温が低めなのか。
「最高で20度ってことは暗くなってくると少し冷えそうね。」
「はい。夜は12度まで落ちる見込みですので、出立するならなるべく急いだ方がよろしいかと。」
「食事は車内で摂りましょう。顔だけ洗ってくるから車の準備をお願い。」
「車内でってそれ私が食べられないのでは・・・?」
「私が食べさせてあげるから大丈夫よ」
「わかりました!すぐに車の準備をして参りますね!」
いや、冗談だったのだが。まあいいか・・・。
小走りで去ってゆく雪音を見送ると、大浴場へと向かう。寝起きがとても悪い私は、朝はシャワーを浴びないと完全には目を覚ますことができないという残念体質になってしまっていた。雪音も、私が「顔を洗ってくる」と言う時は額面通りの意味ではなくシャワーを浴びるという意味なのだと理解していた。
(あの日、篠奏村で私がどういう行動を取ったのか。こんな目立つ見た目をしている人間のことなら、きっと誰かが覚えている筈だ。その証言を取っ掛かりにして、記憶を取り戻せればいいのだけれど・・・)
それなりに古い屋敷だからか、栓を捻ってから最初のお湯が出るまで約10秒間は冷水が出る。その水を両手に溜め、自身の顔面に思い切り浴びせるのも習慣となっていた。
(たとえ記憶を取り戻せなくとも。篠奏村の中を山で倒れていたあの4人で歩いたとして、私が強引に連れて行かれたのか自分の意志で歩いていたのかさえ分かれば、より精度の高い推理が可能になる。いずれ他の"被害者"に会う時も、前もって敵か味方かある程度心構えをしていくことができる。)
心臓に悪い事だと分かってはいるが、出てきたお湯をいきなり頭から受けるような位置に立ち全身を濡らす。そのまま5分ほど考え事をしながら立ち尽くしていた私はようやく満足して栓を締め、髪を乾かすために脱衣所へ移動しようとした。
その瞬間、唐突に悪寒が走る。
体中を這い回る得体の知れない"何か"に全身を精査されるような、生理的嫌悪を催す気味の悪い感覚。
「・・ッッ!」
反射的に辺りを見回すが、変わった点は無い。
「ゆき・・ね?」
一縷の望みをかけて親友の名を呼ぶが、返事は帰ってこない。
確信も何もない、ただの直感であるはずのこの感覚にしかし生命の危機さえも覚え、心拍数が一気に跳ね上がる。
気が付けば、全力でその場から逃げ出すための手足が震えて思うように動かない。
・・・・・・生きねば。
助けを呼ぶための口が震えている。
・・・・・・・・・・・・・・それでも、生きねば。
私は、なんとしても生きなければならないというのに―――――――――。
...
どれぐらいそうしていただろうか。濡れたまま脱衣所にぺたりと座り込んでしまい完全に硬直してしまった私は、雪音に声をかけられるまで暗転した世界の中でただうわ言のように同じ言葉を繰り返し、呟いていた。
生きたい。
生きたい。生きたい。
生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。
「リズお嬢様!!!!しっかりしてください、リーゼロッテお嬢様!!!!!!」
久しぶりに色のついた視界に映ったのは、見たこともないような表情で私の名前を呼ぶ使用人の姿だった。
私は、ひたすら泣いていた。
「ゆき・・・ね・・・・・。ゆきね・・・! 、ゆきね!!!」
際限なく溢れ出てくる安堵という感情の奔流を体現するように。ただひたすらに。
床についていた手を思い切り握りしめると痛い。
頬を伝う涙がくすぐったい。
私は、生きている。
「どうしたんですかお嬢様。変なお湯の浴び方をして貧血でも起こしました?」
そうだったらどれ程良かっただろうか?
・・・・・先程襲ってきたあの感覚は、間違いなく夢幻でも錯覚でもない。正気をごりっと削り取られるあの嫌な感じには、覚えがある。どこでかは思い出せないが、私は確実にアレを経験したことがあるのだということをこの体がはっきりと覚えている。
「誰かに・・・見られていた・・・・。」
「え、何を言って」
「私は何分ぐらい浴場から帰らなかったの・・・?」
「・・・、30分ぐらいです。いつもよりも時間がかかっているなと思い様子を見に来たらお嬢様が床に座り込み、虚ろな目で何かをぶつぶつと呟いていたので。」
「私のことを見ていた"何か"が私を殺す時間は十分にあった・・・。それでも私がこうして生きているということは物理的な力は行使できなかったから、、?それとも敢えて生かされたか・・・・」
声にならない声で考えをまとめ始めた私を雪音が遮る。
「お嬢様、先程から何を仰っているのですか!この浴場に窓はありません。それにセキュリティも万全で、何者かが私に察知されずに侵入することなど不可能です!!」
「・・・・・、そうね。忘れて、ちょうだい。」
確証が無い以前に、自分でもどう説明したら良いのか分からないような事象をこれ以上必死に言葉にしようとしても無意味だと悟った私は、無駄な心配をかけまいと間を空けて話を打ち切る。
「やっぱり、長期の入院でちょっと体が弱っていた・・・、みたい。」
「お嬢様・・・」
「っていうか私また服着てないじゃない!ほらほら、流石にそろそろ出ないと時間が無くなるわ。急ぎましょう。」と努めて明るく振る舞う私を、雪音は心配そうに見ている。
「では着替える間、すぐ外で待機してますね。何かあれば、遠慮は絶対にせずにちゃんと呼んでください。」
「・・・・・・。ありがとう。」
まったく。私がそういう優しさに弱いのを知っているでしょうに。
・・・ほらまた涙が出るじゃない・・・・ばか・・・・・
◆◆◆
道中のサービスエリアで軽食を摂り篠奏村に着いた時、時計の針は14時半を指していた。村からは少し外れた人目に付かない場所を選んで車を停めた雪音は既に、全く見たことも無い青年の姿へと変貌を遂げていた。
(相変わらず凄いクオリティよね・・・)と素直に感心している私をよそに車外へと降り立った雪音は辺りの様子を窺ったかと思うと助手席のドアへ回り扉を開けてくれる。
「ここから少し歩きますが、体調は大丈夫そうですか?」
狙って出しているのであろう少しかすれたようなハスキーボイスにも違和感は無い。才能の宝庫か。
「ええ、心配はいらないわ。ちゃっちゃと用事を済ませて暗くなる前に帰っちゃいましょう。」
「では、まずはお嬢様が倒れていた地点へとご案内致します。」
そう言うとこちらに気を遣ってか、雪音は少しゆっくりとした歩調で砂利道を進み始める。
「ここから500m程歩くと篠奏村集落、集落に入り更に500m程進んだところに登山道の入り口があります。登山道自体は途中で分岐しますが、基本的に他に安全に入山する道は存在しないとのことです。」
「なら、あの日私はそこから入山したと考えて良さそうね」
「はい。実際にお嬢様方が倒れていたのは登山道中腹にある分岐点の、より危険な方を進んだ先でしたので。」
それを聞いて、うっすらと感じるのみであった緊張が意識できる程大きくなる。私は今、かつて自分が死にかけた場所を訪れようとしているのだ。この人生においておそらく最も死に近づいた場所。今回はちゃんと雪音が付いているとは言え、それでも漠然とした恐怖が少しずつ心を蝕んでいくのを自分でどうにかすることなど出来なかった。
駐車した地点から2,3分ほど歩いたあたりで角をひとつ曲がると、篠奏村集落は唐突にその姿を現した。
典型的な日本の村落然とした光景であった。家屋の殆どは木造建築に瓦屋根の平屋で、都会と違って家と家の間にはかなりのゆとりがある。遠くまで見渡してみると、住宅が集まっている村の中心部から離れた外縁部には田園が広がっており、時期も相まり誇らしげになびく若緑の稲々が太陽の光を受けて美しく輝いていた。
事前に調べてあった篠奏村の陰鬱としたイメージとはかけ離れた明媚な光景にどこか安堵を感じつつも歩みを進めていると、少し離れた家屋の影からこちらを伺いつつ何やら話をしている二人組の存在に気がつく。格好からして村人だろう。
同じくそれに気がついた様子の雪音に、二人組に聞こえない程度の小声で「警戒されると後々厄介なことになる。微笑んで会釈でも返しておきましょう」と方針を伝える。
これまで敵の排除を執行してくる中で情報収集や情報操作を行ってきたのが雪音ならば、私の役割はその情報を元に推理/作戦を組み立てたり実際に敵と相対して手を下すことだった。当初、後者について雪音は猛反対していたが、体格の小さい私の方が警戒されにくいことに加えいざ取り押さえられた時に救出できるサポート役は二人の内のより強いほうが良いという私の主張を押し通した。
結局先程の二人以外の村人とは会うこと無く、「篠奏山 登山道 野生動物に注意」と看板が立てられているだけの細い山道の入り口へ辿り着く。
「ここです。」と一言だけ告げる雪音の言葉に改めて身を引き締められる。
「野生生物が出たらよろしくね?」と冗談めかして言ってみるが、声は上擦りいつもよりも言葉がすんなりと出てこない。これまで人前に出て話す時にも、失敗してはいけない演技をする時にも、・・・人の命を奪う時ですら、ここまでの緊張状態に晒されたことは無かった。長い入院生活で勘が鈍ったのかとも考えたが、おそらくそうではない。
私は・・・
私は、「死」に対してここまで怯えているのだ。
かつて己に死をもたらしかけた行動。
それを解明するためにあの時の行動をなぞり、自分の意志でもう一度あの時這い寄ってきた「死」に近づいていくことに対し、私の本能に植え付けられた生への執着とも呼ぶべきものが拒絶を示しているのだ。
昔の私にはここまでの生への渇望は存在しなかったように思う。確かに両親の復讐を果たすという目的を絶対に達成するという執念は有った。しかし、復讐の過程で己が命を落としてしまうかもしれないと考えても恐怖は湧いてこなかった筈だ。厳密に言うと"他人によって害される"ことへの恐怖は有ったしその危険をもたらしてくる人間は容赦なく殺してきたが、それは"死"そのものへの恐怖ではなかった。一見すると矛盾しているようにも見える心境の根底にあったのは悲観だ。
両親の仇を取るまでは良い。でもその後は?
将来の夢も、理想の自分像なんていうものも持ち合わせていなかった私を待ち受けているのはどの道空虚な未来。それを自覚し、途方もない復讐劇を諦めかけたことだって何度かある。
そんな私が、今は生そのものに対してここまで執着している。死にたくないと、心が叫んでいる。人の命を軽々しく刈り取ってきたような人間が、自分の命は手放したくないと惨めにしがみついている。今までに殺してきた人間達が地獄から私の行く末を監視していたとしたら、その滑稽さに笑い転げていることだろう。
でも、今はそれで良い。
ここまで強く「生きたい」と思えることは存外、悪い気分では無いから。
だから、この感情に胸を支配されている内はきっと生きようと足掻くことが出来る。未来の私は上手くやってくれる。きっと、大丈夫。
...
しばらく登山道入り口を前にして立ち尽くしていたリーゼロッテを急かすこともなく静かに見守っていた雪音は、目の前に立つ少女から確かな決意の込もった視線を返される。その眼差しを受けてゆっくりと頷いた雪音は、登山道の中へと一歩踏み出す。
それに続く少女の小さな体は、もう震えてなどいなかった。




