「けんじ」1
彼の一日は、温かみに始まり寒さに終わる。
布団にこもった自らの熱気に温み、この場からお別れしたくないと心から願う。それでも学校へは行かなくてはならないので、毎朝仕方なく体を起こす。キッチンまで早足で移動して、熱めに紅茶を入れる。砂糖はどっさりと。
「おはよう。」
家から少し離れた高校に電車通学をする妹に挨拶をする。そして、朝に弱く不機嫌な妹はそれを無視する。これらは日課みたいなものだ。
けんじも、ゆっくりと朝に慣れていく時間があるわけではない。熱い紅茶をずず。と音を立てて飲みながら着替え、髪を適当に整える。今日はバイトがないから服も自由だ。
家を出るのはだいたい八時前。八時半の電車に乗って大学へ行く。大抵はその電車の三両目でかしわと合流する。
「おはよう。」
先に声をかけるのはけんじの方だ。
「おはよう。」
妹と違い、かしわはきちんと挨拶を返す。性格が落ち着いているから挨拶も落ち着いているけど、今日はテンションが高い。
「どうしたの?今日は機嫌いいみたいじゃん。」
けんじは、かしわを親友だと思っている。直接確認したことはないし、かしわから、認める。と言われたわけでもないけど、勝手に思っている。だから、かしわの機嫌がいいとけんじの機嫌も自然と良くなるのだった。
「さっき、かほ先輩から返信が来てたんだ。」
「好きだなー、ほんと。あの人彼氏いるんだぜ?」
「良いんだよ、別に。どうなろうってわけでもないし。そんなことより、けんじはどうなんだよ。」
「そういうところだぞ?」
ぎくりとしたけんじは、すらりとかわす。
「どういうところだよ…。」
かしわの困った顔が楽しかった。
大学に着いてすぐの一時限目を終えると、いつもの喫煙所に向かう。かほ先輩がいつもタバコを吸っている、小汚いけど風情のある(かほ談)喫煙所だ。
「先輩ー!おはようございます。まだ寒いですよ?よくタバコ吸うためだけにこんな風通しのいい場所来ますよね。」
もうすぐ五月。それなのにまだ洋服を着込まなきゃいけないのは、思いの外寒い春と、この喫煙所でかほをいじるという大切な用事のためだ。
「けんじ、初っ端から嫌味かよ。モテねえぞ?そういうことばっか言ってっと。」
「まあまあ。事実ですから。そんなことより、彼氏さんとはどうなんですか?」
会うたびにかほの彼氏について聞くのは、興味本位とかしわのためだ。チャンスが有るならあいつに滑り込んでほしい。そう切に願うからだ。
一週間ほど前、かしわに
「俺はかしわに幸せになってほしいんだよ。」
そう話すと、意外にもかしわは顔をしかめて
「言われなくてもわかってるし、だからって余計なことはしないでよ。」
どうやら、かしわとかほのメッセージのやり取りはけんじの言動に関する面白い話や、デリカシーがないと思った話らしかった。
かほは、真っ赤な箱を自分のそばにライターとともに置いている。茶色い色のフィルターを口紅で色付けながら、長く煙を吐いている。
「かほ先輩って、タバコだけ吸って話さなきゃモテそうですよね。」
「今のままでも十分です!」
かほは怒っている。けんじは褒めたつもりだったのだが。