『声』あの日-1
***『声』あの日
『まただわ……』
水流に飲み込ませた白旗がクルクルと踊る。辛うじて、白の民は陣のある岸にたどり着く。
見えるはずのない遠い場所の出来事が、ナーシャには鮮明に見えている。藍の大地と成ったナーシャだからだ。
孤島となった藍に侵攻しようと、今日も白、黒、紅が水流に挑む。
『父上』
そう言って、いや声はない。だが、そう言ってナーシャは笑む。
……ちょうど一週間前。
泣きじゃくって、泣きじゃくって、それでも聴こえぬ『声』
その事実に愕然とし、腑抜けたように空を見ていたナーシャに、突如鮮明な映像が流れた。
白、黒、紅の侵攻が見えたのだ。だが、その侵攻は瞬時に渦巻く水流によって砕かれていた。
ナーシャの記憶が甦る。父は水壁となると伝えてきたことを。ナーシャは、その水流が父であると、水壁と成った父であると確信した。
『父上! 父上! 父上!』
何度も叫ぶ。
ナーシャは音のない声を何度も何度も発した。
『父上……』
だが、それに答える者はいない。答える者はいない。応える者は……
ナーシャは込み上げる涙を堪えずに流す。
『父上、父上ありがとう。私も頑張ります』
ナーシャに鮮明に見えていたのは、水流。青龍となった水流であった。
龍は孤島を回る。『護っているぞ』と言わんばかりに。
ナーシャの空洞となった心が、再び満たされていく。父の愛に応えるよう、ナーシャは立った。
藍の紋章の上に。
導が立つ。
『人柱となりて藍を護る! 大地と繋がれし私の楔を解き放った者が、覇者と生る!!』
青龍に、父に、応えるようにナーシャは叫んだのだった。
視えない『声』が大地を揺らした。
ナーシャの心の極みを、藍の大地が呼応する。ナーシャ自身が藍であるのだ。
『この地は私自身!』
そう、これが一週間前のこと。
ナーシャと青龍となった藍の王が、藍の大地を護っていた。
……
……
侵攻の失敗も一週間が続くと、各陣営もやみくもに進撃することに躊躇いだす。
息を潜めつつある侵攻に、ナーシャは安堵しながらも、黒の陣営から放たれる不穏な空気を感じ警戒していた。
が、それも二三日のこと。各陣営はさらに息を潜め、後退し遠巻きに孤島を監視するだけとなる。
ナーシャはそれを警戒しながらも、侵攻が止まったことで一時の安心を得た。
『イチ兄、今何処に居るの?』
ちょうどその頃、イチリヤは光山の向こうの未開の地で奮闘していた。
だが、ナーシャにそれが伝わるはずもなく、ただただ『視えない声』をポツリと溢すナーシャだった。
『イチ兄……あんなに見たかった外の世界なのに、一緒に見る相手がいないと……寂しいよ』
ナーシャの脳裏に在りし日の映像が流れる。
藍の城、最下層。
王と王子達しか入れぬ部屋があった。
……
……
部屋の中をウロウロとする私。藍のドレスを着ている私。
ああ、この日のことは覚えているわ。だって、はじめて父上と兄達以外の人と会う日だったから。
「どうしよう……」
「ん? どうした」
ヘッドドレスを持ったイチ兄が、私の顔を覗きこむ。
「だって……」
はじめてなのよ。はじめて、女の方とお会いするのだもの。
「ナーシャ、大丈夫だよ」
イチ兄は私の頭をポンポンと撫でる。
「ニイヤの妃となる青の国の姫だ。父上が信頼する青王殿の姫だぞ。それに、ニイヤも言っていた。芯をしっかり持った姫だとな」
そう、今日お会いするのはニイヤ兄さんの妃様。
ニイヤ兄さんは半年間青の国に留学していたの。薬草畑のお勉強だって父上は言っていたわ。帰国したのは、二日前。青王様からの親書と姫様を連れだって帰国した。婚儀打診の親書だったのよ。
「ほら、ナーシャ。こっち向いて」
イチ兄を見上げる。手がゆっくり下りてきて、頭にヘッドドレスが飾られた。
「ソフィア姫は二日しか滞在しない。明日には帰国するのだ。いいかい……父上や私達では教えられぬことを教えてもらいなさい」
まだ教えてもらっていないことがあるの? もう十分教えてもらったわ。私がここに居る理由、ここから出られない理由。
ニイヤ兄さんが留学する半年前に父上から告げられたもの。
「ナーシャ、そんな顔をするなよ」
イチ兄こそ、そんな顔をしないで。イチ兄が時々見せる顔に、私の心がキュウッと締め付けられる。そんな時にいつも漏れるのは、
「イチ様」
と。そう呼んでしまうの。
「いつか必ず、私がナーシャに外の世界を見せてあげるから。な?」
イチ様もいつもそう言って、私を励ましてくれる。
「……ぅん」
小さく答えた私の頬を、イチ様はムニィッと摘まむ。
「そんな陰気な顔をしていると、ソフィア姫と友達になれないぞ」
摘まんだ頬をムニムニとされる。
思いっきり頬を膨らませて、イチ兄の指を離させた。
「アハハッ、ナーシャ。その顔のままでいろ。その方がソフィア姫に可愛がってもらえる」
「もおっ! イチ兄の馬鹿!」
ーーバタンーー
いきなり扉が開く。
「イチ兄さん! すぐに来てください! 紅の王子が」
「わかった」
サンキ兄さんが突然入ってきて、イチ兄と一緒にすぐに出ていった。
「あっ……」
扉が閉まる瞬間、イチ兄がウィンクする。それに応えることも出来ないまま、扉が閉まった。
「紅?」
その存在は知っていても、私には遠い世界。夢見るのは、外の世界。ここから出られない私にとって、あの扉の向こうは焦がれる世界なの。
私の、導の存在が外の世界に知られると、藍が危機に直面すると父上は言った。とても、とても、悲しげな顔で。伝承を話す父上は、悲しげで時々苦しそうに顔を歪めた。その話の内容よりもそのことが私を震わせたの。父上だって、本当は私を外に出したいんだってわかるもの。
藍に導が誕生したと、他国に知られると……この地は戦火に包まれると。だから、私を隠しているのだと。
私はその時はじめて自分の瞳の色が、父上や兄達と違っていると気づいたわ。
鏡に進む。映る私は、藍のドレスに藍の瞳。
「導か……」
ーーコンコンーー
えっ?
扉がノックされた。体が強ばる。音を立てぬようにソロリソロリ鏡の後ろに隠れる。
この部屋には父上と兄達しか入れない。急ぎの用以外は、ノックはせずに決まった言葉を言ってから、私の合図を待って入るはずだもの。
誰なの?
ドアノブがガチャガチャ騒ぐ。
怖い!
『この部屋じゃないのか?』
扉の向こうの声は、すごく苛立たしげだった。
『ソフィア姫! いったい何処に居られるのだ?!』
その叫び声にビクンと体が揺れた。
あっ!
ーーガシャーンーー
鏡が倒れ、大きな音を出して割れてしまった。どうしよう……
『やはり此処か! ソフィア姫! お願いでございます。どうか私の母を治癒してください!』
ーードンドンドンーー
扉の揺れは大きくなって、部屋が振動している。
怖い! イチ兄、怖いよ。