流浪の民-1
***『流浪の民』
イチリヤの叫びは、藍の大地に届いたであろうか?
大地の変貌。揺れる大地は次第に境を増す。
民の足元はそれと同じくして、水に浸かっていく。それは正に水壁であった。藍の大地は切り離された。
イチリヤの目前に現れる孤島。湖に浮かぶ孤島。栄えていた城下町も、城下町を見守っていた藍の城も、跡形もなく消えていた。
「必ず、必ず!!」
イチリヤは孤島に向かって叫ぶ。
藍の民も、イチリヤ同様に『必ず』と叫んでいた。
落日。否、離日と言うべきか。この日、藍は如何なる者の侵入も許さず、しかし、訪れるであろう後日の侵入を防ぐため、自ら落ちたのだ。自らが自らに落ちたのだ。
気高さと孤高と慈しみを示し、深き愛に落ちた。
『白国』は何を思ったであろうか。
『黒国』は何を思ったであろうか。
『紅国』は何を思ったであろうか。
自国が誇りし、その姿を見せつけられて。
マントが翻った。イチリヤは孤島に背を向けた。その背にナーシャの『声』は聞こえない。
イチリヤは、南東に進んだニイヤの後を追う。
北西はサンキとヨシアが束ねている。北西に進んだ民らは、『白国』と『紅国』の狭間の死地に向かっていた。この大陸で唯一統治されていない地である。
深い深い荒谷の先に、乾いた地が広がる。白も紅も、この大地を嫌った。長い歴史上、この土地の開拓に両国は多大な人員をかけた。しかし、それは失敗に終わっている。
苦労を嫌う白は、乗り込んだはいいものの、開拓どころかその地での生活を受け入れなかったのだ。野営地にただ人員が交代交代にやって来るのみ。やがてその足は遠退いた。
先を考えし紅は、その地に未来を探し、何かの産物がないかと地を這いずりまわった。だが、希望の種は、紅に恩恵をもたらす種は見つけられず無駄骨となる。
その地は、人々から忘れられた土地となった。
イチリヤは、馬を走らせながら白の陣営、紅の陣営を注視していた。どちらの陣も霊獣に迫られ、北西に進んだ藍の民たちに気づいてはいないようだ。藍の霧も民たちを守っている。
「だが、きっといつかは知れるであろうな」
サンキ、ヨシア頼むぞとイチリヤは祈りを北西に飛ばす。
夕暮れが西の空を彩っていた。
「イチ兄さん!」
ニイヤの声に、イチリヤは顔を前に向けた。
「ニイヤ、被害はないな?」
「はっ、まだ藍の霧に守られていますので」
民たちも大きく頷いた。
イチリヤは、民を見渡す。南東に進んだ民は百人ほどの特殊部隊だ。今、その人数はいない。五十人ほどが固まっていた。
「イチ王子様、海隊は先に進んでおります」
そう報告をしたのは、イチリヤの補佐官であり、王の右腕であったグレコである。
「グレコ、その呼び方は止めろと言ったはずだ。安易に王子と呼ばれては、今後に支障をきたすだろ?」
「はっ、すみません。どうも、慣れないもので」
イチリヤは小さく笑ってたしなめた。
「私はすでに王子ではない。導を守る騎士となったのだ。ニイヤもサンキもヨシアもな」
イチリヤのその言葉にニイヤが頷く。
「騎士隊長でしたね? イチ兄さん」
イチリヤは『ああ』と答える。
グレコは深呼吸し、背筋を正してイチリヤに会釈する。
「騎士隊長! 先陣の海隊はすでに準備が整っていると思われます。急ぎ向かいましょう」
「ああ、皆行くぞ!」
隊は、イチリヤの号令で紅と黒の国境に向けて進んだ。
両国の国境は曖昧で小さな争いが絶えない。あえてその渦中に進むのは、今、その争いが出来る状態にないことをわかっているからだ。両国の大半の兵士は、藍の侵攻にかりだされている。
遠くあった海が、しだいに視界を埋める。
「イチ、……騎士隊長! すぐに出港しましょう! 黒の偵察が近くまで来ております」
海岸に到着するや否や、もう一人の補佐官リライが報告する。
イチリヤには補佐官二人がついていた。
一人は先ほどのグレコ。王の命によってグレコはイチリヤの補佐に就いた。王の右腕であったグレコは、最後まで王の傍にいると頑なに言い張ったのだが、『お前は本当に我の右腕か?! 我は息子と藍の民を守ることが出来なくなるのじゃ。息子たちは藍の民を守る。息子たちは誰が守る? 右腕たる者がそんなこともわからんのか?!』と、王に説得され……否、手厳しく言われ項垂れたのだ。
そして、もう一人はリライである。王の右腕はグレコ。左腕はグレコス。そのグレコスの息子がリライである。
グレコとグレコスは双子だ。その風貌は王に似通っている。影武者であり、右腕と左腕。王が一番に信頼を寄せる二人。グレコにはリーフと言う息子いる。グレコスにはリライ。
王はイチリヤとニイヤの補佐にグレコとリライをつけた。そして、サンキとヨシアにグレコスとリーフをつけたのだ。
「イチ兄さん、紅もすぐに偵察に来ましょう。藍への侵攻の混乱に生じ、あわよくばと国境の拡大をと考えるはずです」
イチリヤの瞳が鋭く紅に向く。黒にも向く。
「父上が何故、藍を孤島にしたのか……わかるな?」
ニイヤ、グレコ、リライは大きく頷いた。
「導に惑わされ、覇者にならんと藍に侵攻。それは単なる欲だ……導かれ治めるからほど遠いな。治めるを、力で行えば、それ自体がすでに治めるからかけ離れると言うのに」
イチリヤの言葉に、藍の民たちは信頼の眼差しを向ける。
イチリヤの前に民が揃う。その瞳は揺るぐことなく、イチリヤを捉えている。
「覚悟はいいな?」
イチリヤのその問いに、首を横に振る者などいない。
「これから、我らは覇者様を捜す旅に向かう。その足を休めることなく、留まる地を作ることなく、ただひたすらに進むのみ。我らは王が藍の未来を託した部隊だ! 覚悟はいいな?」
イチリヤはニヤリと笑って見せた。
膝をつき、イチリヤを見上げる民の瞳がキラリと光る。
それを確認したグレコが一声を上げた。
「出発!!」
一斉に動き出す民に迷いはない。
「ニイヤ、彼らの命を一名たりとも失わぬぞ。いいか、一名たりともだ」
イチリヤの熱い声にニイヤも賛同する。
「ええ、兄さん。決して失うことなく、またこの地に戻ってきましょう」
「ああ、そうだ。一名を足して戻ってこよう。覇者様と共にな」
二人は色を失っていく空を見上げた。
夕暮れは当に過ぎている。昼と夜の狭間の時。落ちた陽は明日には姿を見せる。
落ちた藍もきっと……