『声』藍の声
***『声』藍の声
『月が笑ってる』
確か、下弦の月と言うのよね。こんな刻の月なんて見たことがなかったもの。
『フフ、可笑しいものね。今になって寒さを感じるなんて』
思い出すのは、最後に抱き締められた温もり。
あの力強い腕にもう一度抱き締められたい。だけど、もし、また抱き締められることがあるなら、
『きっと、覇者様だわ』
悲しくはない。私は覚えてる、イチリヤ様の温もりを。忘れないわ。
孤独が私の想いを強くさせる。
『平気よ。だって、独りだって抱き締められるもの。寒くはないわ』
自分を抱き締めるの。
小さな温もりが、生きてることを感じさせる。思い出す温もりは、胸を熱くする。
『ずっと一緒だったわ。イチリヤ様と』
そう、どんな時も一緒だった。ずっと傍に居てくれた。
泣いてる私を笑顔にさせるのも、
怒ってる私を笑顔にさせるのも、
我が儘な私を叱ってくれるのも、
全部イチリヤ様。
『孤独が気づかせてくれる。イチリヤ様は、きっと戻ってくるわ。きっと……傍に居てくれる。約束したもの』
そう、いつだって……
いつだって……
いつだって?
何だろう? 心がざわざわする。
浮かぶニイヤ兄さんの顔。困ったように眉を下げてるわ。いつだったかしら?
『留学の時だわ』
ニイヤ兄さんが青の国に留学するから、少しの期間遊べなくなると聞いて、私ったら我が儘を言った。あのとき、ニイヤ兄さんは困っていたわ。
覚えてる。イチリヤ様に叱られたもの。
あれ、何だろう? やっぱり、何か……
どうして、こんなに胸がざわつくのかしら? どうして、背を這うような……奇妙な感覚。
『駄目よ、孤独に負けては駄目』
きっと、孤独が私を襲っているんだわ。そう思う。だけど、何だろう、しっくりこない。
『信じなきゃ。イチリヤ様はきっと戻ってくる。約束したもの。私の傍を離れないって』
サンキ兄さんも、ヨシア兄さんも、また明日って言いながら、来なかった日が沢山あるわ。
だけど、イチリヤ様は違う。いつも、傍に居てくれた。
……居てくれた?
何か、気持ち悪い。背を這うものが、そろりそろりと首まで登ってる。
『約束したもの!』
それを振り払いたくて、大声を出した。
『だって! イチリヤ様は……ずっと……ずっと、一緒……一緒……一緒、一緒、私と同じ』
あ、
あぁ、
ああぁ、
私が、
私だったんだわ。
私が、イチリヤ様の楔……
私がイチリヤ様を縛りつけていた。
外の世界を本当に見たかったのは、イチリヤ様だわ。私じゃない。
『私のせいで、イチリヤ様は何処にも行けなかった』
あのざわつきの正体は、私だった。私の存在だった。
いつだって傍にいた。居てくれた。これからも……
『これからも、私はイチリヤ様を繋げておくの?』
悲しい問いを視えない声にのせた。
答えの決まった問いを。
『子供だったら良かったのに』
もし、私がまだまだ子供だったら、きっと気づかなかったわ。
イチリヤ様の羽ばたきを、私が邪魔していたんだわ。
藍を離れ世界に羽ばたいたイチリヤ様を、きっと戻ってくるイチリヤ様を、……私は繋ごうとしている。
『私は楔だ』
そう、断ち切るのは私の役目。
覇者様を受け入れ、楔を断ち切る。
イチリヤ様を縛りつけてはいけない。
『泣かないわ』
だって、私はもう子供じゃないもの。
『愛する人を、胸をはって送り出せるなら、この想いをこの孤独の地に埋めますわ』
月が笑ってる。
正解だと言ってるのかな?
イチリヤ様、今何処にいますか?
外の世界を羽ばたいていますか?
信じています、必ず戻ってくると。
貴方との約束はそこまでです。もう一つの約束は、破りますわ。
この小指はイチリヤ様にはあげません。もちろん、覇者様にも。
『この小指だけは、唯一私のもの。私だけのもの』
自分を抱き締めるの。寒くはないわ。この想いを抱き締めているのですもの。
『望むように生きて、イチリヤ様』
月が笑ってる。下弦の月が。
イチリヤは大岩で見上げていた。
ナーシャは藍の地で。
イチリヤは過去に、ナーシャは未来に想いを馳せる。
想いは重なるのか?
同じ刻に同じ月を眺めていたように。




