石像の導-1
***石像の導
『賢い問いだな。その問いには、数百年前のことも、十四年前のことも、そしてお前が誰であるのかも答えねばならん』
白虎はそう言うと、狼に視線を移す。平伏している狼は、その視線に気づかない。
『"大犬神"である必要はないであろう? 皇子よ、姿を戻せ』
狼の体からユラユラと覇気が昇る。形を成すその姿は、青の魂を首飾りに毅然を立っていた。
「私は東の国の皇子です」
長き黒髪が揺れた。頭を下げた皇子の黒髪は、空気に揺れる。
「霊獣ではないのか?」
イチリヤは問うた。
「……その問いに答えるには、全てを話さねばなりません。世の始まりから」
狼であった皇子の声は、緩やかに上昇し、白虎を伺う。狼の時と違った言葉遣いだ。
『いや、我が何故この地に居るのかと訊いた。故に、世の始まりはすでに知っているであろう』
白虎がイチリヤに確認する。イチリヤは軽く頷き、始書を取り出した。
「始まりは知っている。だが、導の始まりである転の刻からがわからない」
白虎と皇子は瞳を交わす。先に白虎が声を発した。
『先に我が話そう』
白虎は皇子の元に降りた。イチリヤも皇子の元に降りる。
三の者が地に座る。人あらざる三の者。
『転の刻。霊獣の天命の刻だ』
白虎が話始めた。
「寿命か?」
イチリヤは訊く。
『ああそうだ。だがな、人の寿命とは違う。霊獣の天命、それは魂の寿命と言うべきか。霊獣は不死である。だが、霊獣を支えし魂には限りがあるのだ。霊獣の魂の元は何か知っていよう?』
「妖から作りし魂。五つの魂が最初であった」
『そうだ。魂の元は妖の力である』
白虎は息を吐いた。
『いや、妖の力ではない。神と魔の力を融合したもの。人と神で生まれたが妖精。人と魔で生まれたが妖怪。だが、神と魔は交わりをもたなかった。何故かわかるか?』
イチリヤは即座に答える。
「神と魔が交じった力が、神よりも魔よりも強くなると確信していたから」
『そうだ。不思議なものだ。自分より強き者の発生を、神も魔も恐れたのだ。だが、エデンにはお見通しだった。故に世が混沌とした時に、エデンは神と魔の力を融合したのだ。妖の持つ神の力と魔の力を使って魂を作らせた』
「神よりも魔よりも強き存在ということか。そこで、人が言霊を使って霊獣の姿形を与えたのだな、五つの魂に」
始まりが終わる。
『エデンは神を封じ、人は魔を封じた。霊獣は五大陸の天空を治めた。人は五大陸の平地を治めた。妖は人に恐れられ、人が踏み入れぬ険しき地を巡った』
始まりより後が語られ始めた。
『人に寿命があるように、霊獣にも天命があると言ったであろう』
「ああ、だが霊獣は不死なのだろ? 魂の寿命とは、どういうことなのだ?」
『そうだ。霊獣は不死である。その入れ物に寿命はない。だが、支えとなる魂には寿命がある。天命……天空を飛翔できる命は、魂を転じねば失われるのだ。転の刻である』
「魂を転じる?」
イチリヤは思わず声に出した。
『魂の入れ換えだ。神と魔の力から作られた魂であっても、長き刻がその力を失わせる。魂を入れ換えねば、霊獣は力を失い上物だけになる』
イチリヤは皇子を見た。その口から出た言葉を思い出す。
「では、青龍は上物だけとなっている?」
『ああ、そうであった。藍の落日まではな。今は藍の王が青龍に身を委ねている』
白虎が言ったことは、狼、いや皇子からも聞いている。
イチリヤは皇子を見る。
「父上と換わるのか?」
皇子は青龍に戻してくれと言った。魂を青龍に入れる。皇子の首にある青の魂。
「そうです。ならば、藍の王も戻れると思います。元に戻すのです、全てを」
皇子が答えた。
『話が反れたぞ。皇子よ、ここからはお前が話さねばならぬ』
白虎は話の続きを皇子に託す。
皇子の髪がまた揺れた。何かを口にしようと、息を吸い込んだものの言葉は出てこない。
『どこから伝えればいいか、難しいな』
白虎が間を埋める。皇子は軽く頷き、話始めた。
「転の刻、人の寿命と違って霊獣の天命は長い。私達はもう数百年も待ちました」
イチリヤは皇子の姿を確認する。その衣はイチリヤの知る衣ではない。それは数百年前に着られていたものだろう。
「転の刻に魂の入れ換えを行います。"人"がです」
そう言った皇子の視線がイチリヤに向かう。
「人は長くは生きられない。魂の入れ換えをどう行うのか? 何百年も生きられる人はいない。託そうにもそれが出来ない」
イチリヤの返しに皇子はそうだと答えた。
『故に、エデンは人に儀式を課した。霊獣が天空を舞い、世が混沌から脱した後に、エデンのあった場所には儀式が記された台座が出現した』
白虎が懐かしそうに言う。始まりを思い出しているのだろう。
続けて皇子が発する。
「儀式は二つです。十年に一度、五大陸から一人づつ、言霊の者が集まります。エデンから言霊の力を授かった者、その子孫達です。言霊の者は各大陸を治める者。妖から力を集める者。わかりますか?」
皇子がイチリヤに確認する。
「入れ換える魂に、新たな力を授けるため。妖から力を奪う?」
イチリヤは首を傾げながら答えた。自分の答えにしっくりしていないのだろう。イチリヤは考え込んでいる。
「奪うのではなく、集めるのです。森の秩序を思い出して下さい」
イチリヤはハッとする。
「夜に悪さをする妖怪から。昼に幻惑する妖精から。本来の時間に妖を活動させ、力を集める?」
皇子は微笑んだ。
「はい、そうです。それに惑わされない者、それが言霊の力を授かった者。大陸の統治者達です」
イチリヤは納得する。
「険しき地に入り妖に挑みます」
皇子の瞳が遠く過去を見ている。白虎のように、思い出しているのだろう。自身の経験を。
「我を幻惑せよ! 我に悪さをせよ! 我はどんな"妖"にも心乱されぬぞ! と」
皇子は懐かしんでいた。だが、また話が反れている。
「エデンに五大陸から力が集められる。で、どうなるのだ?」
イチリヤは話を戻した。
「ああ、すみません。……エデンに記された言を五人で放つのです。エデンから光が発せられます。集めた力がエデンに納められます。ですが、これは力を集める儀式。転の刻の儀式は、導の誕生がなければ行えません」
皇子の声が強ばっていく。
「エデンに記された儀式は二つ。力を集める儀式と転の刻の儀式。力を集める儀式は、人に儀式を継承させるためにあるようなもの。寿命が短き人に課した伝承であるのです」
皇子は声だけでなく、顔も強ばっていく。
「数百年前、我が東の国に導が誕生しました。青の瞳を持つ"青龍の導"です」
イチリヤは息を飲んだ。石像を思い出す。
「私が十歳の時です。妹が生まれました」
皇子の黒髪がサラサラと流れる。俯く顔と同時に髪が皇子の顔を隠した。
イチリヤはドクドクと胸が波打つ。皇子は私だ。イチリヤは思う。そして、妹はナーシャだと。
皇子に自分を重ねる。
「エデンに記された転の刻がきたのです」
その皇子の口からそう紡がれた。
『五大陸を治める覇者よ。
生まれし赤子が霊獣の魂を宿しき時、転の刻が訪れる。
赤子が十四の時、魂を捧げよ。
台座に横たえ、転の言を放て。
力は魂に宿る。
言が愛の化身を喚ぶ。
天空にカルラが現れよう。
導の瞳にカルラを納めよ。
さすれば霊獣の瞳に魂が宿る。
転の刻、下弦の月の刻』
白虎はエデンに記されたもう一つの儀式を言った。
イチリヤは空を見上げた。月が笑っている。下弦の月が。
「あの日を思い出します」
いつしか顔を上げた皇子の声は、流れるような髪の揺れと違い、刻んだように震えていた。
下弦の月を見つめる皇子の頬を涙が伝う。
「私は誇らしかった。導の誕生も、父上がしたことのない儀式を行えることも。二十の時に力を集める儀式を任された。そして、二十四の時に転の刻の儀式を……」
皇子の言葉が止まる。肩が揺れている。その姿にやはりイチリヤは自分を重ねた。
石像の導を見た時に、嗚咽したイチリヤを。
『儀式は順調だった。そうだろ、皇子よ』
白虎は皇子を促した。
「はい、順調に儀式は始まりました」
一言言うと、深呼吸をする。皇子は意を決し、話始める。
「五大陸のどの国も、転の刻の儀式を皇子に委ねました。誉れである儀式だからです。……ですが、それがいけなかったのです」
皇子は悔しそうに唇を噛んだ。
『暫し、我に付き合え』
白虎がイチリヤを見る。イチリヤは眉を寄せた。皇子の話を止めるから。
『転の刻の儀式はな、途中で中断されたのだ』
だが、白虎から伝えられた真実がイチリヤに口を開かせる。
「何故、中断した?!」
『ああ、それを話そうと思うてな。暫し付き合えと』
イチリヤは冷静さをかいていた。石像の導をナーシャと重ねてしまって、心が乱れている。
皇子と同じく、深呼吸をした。白虎に合図する。始めてくれと。
『神はエデンが封じた。魔は人が封じた』
話が始まりに戻る。イチリヤは冷静に白虎の話を聞く。
『エデンに封じられた神は、天界から解かれることはない。エデンの力はこの世界を創造し強大なもの。では、魔はどうか?』
イチリヤは考える間もなく答える。
「人が行った封印は解かれたのか?」
と。
エデンよりも、神や魔よりも力なき種族の人。その封印である。
イチリヤの頭には、その答えが示す惨事が予想できた。
「もう、わかるでしょう? 転の刻の儀式と、魔の封印の綻びが同じくして始まってしまったのです」
皇子が白虎の話を引き継いで繋げた。
「儀式の最中に、いにしえの祠から黒き塊が溢れ出、夜空は塊で支配されました。台座の上空もです。
儀式は中断されました。この時に一人でも王が居たならば、そんな判断はしなかったでしょう。私以外の皇子達は、いにしえに向かってしまいました。言霊の者として封印を行うために。
私と妹だけが台座に残ったのです」
皇子の声が悲しみに沈む。
それとは反対に昇る。陽が昇る。
東の空から。皇子と皇女の生きた東の国から。
陽が皇子の黒髪を照らす。
サラリと黒髪が靡く。
「一緒です。あの日もこうして朝陽を眺めました。その陽で妹の体が石化していくとも知らずに。転の刻は過ぎ、魂の入れ換えはなされませんでした」
朝陽を眺める。
「塊はすでに封印されたのか、本当に静かな朝陽でした。視線を妹に戻した時です。妹の瞳から雫石が落ちました。"青龍の魂"です。私は何が起きているのか理解できませんでした。日を改めて儀式を行えばいいと思っていたのです。ですが、その雫石を見た時に一気に不安が押し寄せました」
皇子は首にある"青の魂"を掴む。
「妹は言うのです。『もう転の刻は過ぎました。青龍は天空にいません。ににさま、どうかお願いします。青龍に魂を』と。その時に気づいたのです。妹の体が石になっていくのを」
魂を握りしめたまま、皇子は続けた。
「落ちた雫石……魂を掴んだと同時に、妹は石になりました。最後に見た妹は"真っ黒な瞳"で、私に微笑んだのです。魂を離した瞳は、私と同じく黒でした。東の国に住む皆と同じ黒の瞳で」
数百年前の転の刻は、こうして儀式の中断で終わる。
『我ら霊獣は、朝陽を受けて唖然とした。天空に青龍が居ないことに』
白虎が語りだす。
『我らはあの日、魔の力を吸い上げていた。始まりと同じく、霊獣が力を吸い上げ、その後人が封印する』
そうである。白虎達は、力を吸い上げる霊獣である。封印が解かれ魔の塊が溢れ出る。最初に動くは人ではない。霊獣であるのだ。
『王子達は判断を誤った。転の刻の儀式こそ、優先せねばならなかったのだ。我らは、朝陽を受けてはじめて異変に気づいた。青龍の覇気を全く感じなかった』
「待て、封印はどうなったのだ?」
イチリヤは問うた。皇子の話からも、白虎の話からも封印の結末はないからだ。
『いにしえの王が朝陽が昇ると同時に封印した』
イチリヤは引っ掛かる。何かがおかしいと。
『五人居たぞ』
白虎がイチリヤの引っ掛かりを言い当てる。始書では、選ばれし五人が封印したとされていたからだ。
『五人居た。言霊の力を受け継ぐは一人ではない。いにしえには、五人の王子がいたのだ』
「では、いにしえに向かった皇子達はどうしたのだ?」
イチリヤは問わずにはいられない。
『エデンの台座からいにしえの祠まで、馬を使っても半日はかかる。馬もない皇子達は、下弦の刻にエデンを出たとしても、いにしえに朝陽の刻までにはたどり着けない。無駄足であったのだ』
白虎の声に怒りが現れる。
『我ら霊獣は青龍不在の原因を確かめるため、エデンの台座に向かった。その途中で皇子達を見た。すぐに理解できた。青龍が居ない、つまり転の刻の儀式を皇子達が放棄したのだということを。だがな……』
白虎の声色が変わる。その瞳は皇子に向けられた。
『希望はあった。皇子達は四人。もう一人はエデンにいると。導も居ると確信して、我らは急いだ。皇子よ、すまぬ。我らは青龍の魂のためだけに急いだのだ。導から無理やりにでも魂を取り出すために』
皇子は頭を振る。白虎の懺悔など、皇子にとってはすでに越えていることだ。
イチリヤは遠慮がちに問う。どうしても解せぬ疑問があったのだ。
「訊きたいことが一つある。麒麟はどうしていたのだ?」
霊獣麒麟には、力を吸い上げることは出来ない。イチリヤは麒麟の動向に疑問を持ったのだ。
『そうだな、麒麟は力を吸い上げられない。始まりの時は神を天界に運んだ。……藍の落日の時も、運んだであろう?』
「ああ、そうだ。麒麟は道標を我らに示してくれた」
イチリヤは落日を思い出す。麒麟の黄色き足跡が、藍の民を迷わず目的の地に運んだのだ。
では、転の刻はどうか?
『麒麟は、エデンの天空で待っていた。魂を運ぶ役目があるからだ。だが、皇子達が儀式を中断し去る。麒麟は戸惑った。儀式が"中断"されたからだ。儀式は始まっていた。麒麟は儀式に繋がれたままであった』
「楔だな……」
イチリヤはぽつりと呟いた。
そう、楔である。
麒麟は儀式に繋がれた。朝陽が昇るまで天空に留まるしかなかったのだ。
『我らが希望を持ったのは、麒麟の不在も片隅にあったのだ。儀式がどこまで進んでいるかが重要だった』
イチリヤは眉を寄せる。白虎は先程も魂を無理やりにでも取り出すと言った。それは、導を犠牲にしてでもということか?
『違うぞ』
イチリヤの嫌悪を感じ取ったのか、白虎が否定する。
『魂を霊獣に戻さねば、導は……』
白虎は言い淀む。その視線は皇子に向いている。
「人が霊獣の力の宿った魂を体に持つ。耐えることは出来ないのです。魂に体を喰われる。だから、私は霊獣狛犬なのですよ」
「こまいぬ?」
皇子から聞き慣れぬ言葉が出た。イチリヤは首を傾げる。
『まだ全部ではない、伝えねばならぬことは。皇子よ、続けるぞ』
白虎はイチリヤに疑問の答えはこれからだと言ったのだ。
「私は青龍の魂を懐に入れ、石化した妹を台座から下ろそうとしました」
動かぬだろう。人の大きさの石を、人が動かせるはずはない。
「……ええ、そうです。動きません」
イチリヤの心を見透かし、皇子が言った。
「人では動かせない。私は叫びました。私に力をくれと。その時です。懐の青龍の魂が私の想いに呼応したのです。熱く突き刺す痛みが瞳を支配しました」
『我らが到着したとき、石化した導と目を押さえ苦しむ皇子を目の当たりにした。何が起きているか、我らにもわからなかった。ただ、青龍の魂が皇子の瞳に宿ったことだけは理解できた』
白虎と皇子がそれぞれに語る。その時を。
「苦しむ私に、白虎様は言ったのです。『人の体では青龍の魂に耐えられぬ! 言霊の者よ、我らに姿形を与えたように、自身に言霊を放て』と」
『我は続けて言った。青龍であってはならぬとな。人でなく、青龍でもなく、もちろん大陸に生きる生き物では魂は耐えられぬ。難儀なことを皇子に放ったのだ、我は』
その時の混乱が目に浮かぶようだった。イチリヤは皇子が掴んでいる青龍の魂を見る。
そして、自身の肩にあったであろう藍の魂を思う。
「私は、苦痛の中考えました。私の頭に浮かんだのは、東の国を出発する前に妹と向かった神の社でした。社の前に鎮座するは獅子と狛犬です。妹と見た狛犬。私は発しました。『我は人にあらず! 神の遣いし神獣狛犬。魂よ、我を受け入れよ』と」
皇子はそう言うと、姿を変幻させた。狛犬に。
『東の国は神が始まりに過ごした大陸だ。神の遣い狛犬を言霊にのせた皇子に、我ら霊獣は感謝した。その選択が更なる希望をもたらしたのだ。魂が納まり、麒麟の楔が解かれた。もちろん青龍の楔もだ。青龍も儀式に繋がれていた。麒麟の背に、上物だけとなった青龍が現れた』
イチリヤは瞳を閉じた。その情景を思い描く。
エデンの台座に『石化した導』
寄り添う『霊獣狛犬』
エデンの天空に『麒麟と青龍』
麒麟と青龍を囲う『白虎、玄武、鳳凰』
「その後は、どうしたのだ?」
イチリヤは瞳を閉じたまま問う。
「私は吠えました。『導を助けろ』と」
皇子の言葉だ。狛犬からまた皇子に戻ったようだ。
『我らは答えを出さねばならなかった。眼下の石像の導と狛犬を、このままにはできない。激情のまま吠える狛犬に、我らは約束した』
一時の間は静寂を際立たせた。




