揺れる大地―2
「イチ兄さん、我々は先に出ます」
ニイヤがイチリヤの背に告げた。
イチリヤは振り返らない。
「ナーシャはイチ兄さんを待ってる」
サンキはニイヤ同様、振り返らぬ背に続けた。
「……お前達はいいのか?」
イチリヤの口から抑えた声が出る。
「四人で行ったら、きっとナーシャは泣けないよ」
ヨシアはイチリヤの肩に手を置いた。四人の足が止まる。イチリヤの背を追うように歩いていた三人は、その背に想いを告げる。ニイヤもイチリヤの肩に手を置く。
「イチ兄さんなら、ナーシャはきっと安心する。イチ兄さんが言ったことはナーシャにとって絶対だから」
イチリヤの手に力がこもる。抑えているであろう感情を、その拳に込めているようだ。
「ナーシャが待ってるよ。イチ兄さんが『必ず戻ってくる』って言ったら、ナーシャは頑張れるんだ。だから、行かないと」
サンキもイチリヤの肩に手を置いた。三人の手がイチリヤの肩に乗っている。
イチリヤは瞼を閉じた。小さな頷きだ。
「行ってくる」
短く言うと、三人を振り返ることなくイチリヤは走った。可愛い妹に、一時の別れを告げに。必ず戻ってくると告げに。
藍の城、最下層。
王と王子達しか入れぬ部屋がある。
14年前、その部屋で藍の姫が生まれた。
覇者の導を目に宿した姫が。
藍の色の瞳の姫が。
「ナーシャ」
床にペタンと座り込む少女の名である。
イチリヤはもう一度、『ナーシャ』と呼んで、その頭を軽く撫でた。
「イチ兄」
見上げるナーシャの瞳は藍の色。導の色。
「必ず戻ってくる」
「うん」
イチリヤとナーシャは無言で見つめあった。
ナーシャはゆっくり起き上がった。その瞳はイチリヤをずっと捉えている。
「ナーシャ」
イチリヤは捕らわれた瞳をそのままに、ナーシャの頬に手を滑らせた。
「馬鹿だな。泣いていいんだぞ」
イチリヤの言葉にナーシャの瞳が揺れる。
「イチ……」
堪えきれずナーシャは涙を流した。静かな涙だ。
「イチ様、本当は怖いの。苦しいの。悲しいの。本当は、本当は……」
ナーシャから溢れ落ちる言葉に、イチリヤは胸が締め付けられる。
「ナーシャ、一人じゃない。父上が守ってくれる。私が戻るまでいい子にしているんだよ」
イチリヤはナーシャの頬に添えていた手を離す。そして、小指をナーシャの瞳の前に出した。
ナーシャも同じように小指を出し、二人の小指が繋がった。幼い頃からずっとしている約束の形だ。
「約束は絶対。イチ様は絶対約束を守る」
ナーシャが小さく笑った。
イチリヤはほっとする。可愛い妹を笑顔に出来たから。あの悲しげな顔のまま、離れることは出来ないのだ。これから、覇者を捜す旅にイチリヤは出発する。この地で長い時間と戦うのは、イチリヤじゃなくナーシャなのだから。守られているとはいえ、目に出来ぬであろう父王。この藍の地で長い時間、一人で過ごすことになるナーシャである。
「ああ、絶対だ。私が約束を破ったことはあるかい?」
「ううん!」
ナーシャは真っ直ぐな笑顔をイチリヤに見せた。ナーシャは繋げた小指をソッと離す。笑みを崩さぬように、ナーシャはイチリヤの瞳を見つめていた。
イチリヤはその離れた小指を追いかけた。ナーシャの手首を優しく掴むと、まだ引っ込めていない小指に軽くキスを落とす。イチリヤとて、ナーシャの瞳から反らしていない。
「いいか、ナーシャ。この小指は俺だけのもの。いくら覇者様でも俺の許可なく触れることは許さんぞ」
イチリヤはニヤリと笑って見せた。
「ウフフッ」
ナーシャは心から笑う。
「わかった。うん、小指はイチ兄のもの。だから、だから、早く戻ってきてね」
ナーシャは心から泣き笑った。
「ああ」
イチリヤはソッと妹を抱き寄せた。ポンポンと背中をあやす。服を濡らすナーシャの涙がイチリヤの心をさらに締め付けた。
「じゃあ、行ってくる」
「うん」
離れがたい。互いの熱を預ける。会えぬ間の熱を残していく。イチリヤは最後にギュッと力を込めて抱き締めた。
「いい子にしているんだよ」
その言葉を最後にナーシャから離れた。互いにもう顔は見ない。イチリヤは踵を返し、その部屋を出ていく。
「イチリヤ様」
背に告げられる。イチ兄でも、イチ様でもなく、イチリヤ様と。
パタンと閉じる扉。
「必ず! 戻ってくる!!」
イチリヤは扉の向こうに聞こえるように叫んだ。
侵攻の気配が近づく。王は玉座から立ち上がった。視線はイチリヤが準備していた台座に向く。三種の神器が並んでいた台座の中央は、すでに空席となっている。王の頂を飾っている王冠が配置されていたのだ。その左右には、王宝珠と王杓。
「さて、そろそろか」
藍の宝珠を左手に持つ。
ドクン
その鼓動は王に響く。王冠と宝珠、二つの神器の力が体に流れていく。王は大きく息を吸い込んで、『藍の力で藍を守らん! 我に藍の力を!』と発した。そして、王は最後の神器に手を伸ばす。『言霊となりて、その力の通りに!』
王は王杓を手に取った。
ドクン!
神器は王の身となり、三つ鼓動が王の内で波打っている。
(ナーシャ来なさい)
王は心で告げた。
最下層から藍の力によってナーシャは導かれる。そして、一時後扉が開く。ナーシャは藍の瞳を父王に向けた。
(ナーシャ、すまぬ。言霊に力を宿すため、もうここで声は出せぬのだ。だが、わかるであろう?)
ナーシャは王の窺うような瞳に応えるように頷いた。
王は安堵したように頷くと、ナーシャに向かって神器を持った両手を広げる。
(おいで。さあ、行くぞ)
ナーシャは小走りで王の元に行き、抱きついた。王を見上げた顔は笑っている。
「イチ兄が、必ず戻ってくると」
王はそのナーシャの笑顔に、優しく微笑み応えた。
(ああ、必ず戻ってくる。我の自慢の息子達だからな)
二人は笑顔で頷きあった。
ナーシャは名残惜しそうに王から離れ、王のマントを掴んだ。
王はレガリアをぐるんと回す。すると、藍の王から藍の風が流れ出し、ナーシャを包んだ。
藍の風を纏った二人は最上階へと向かう。階段を上りながら聴こえてくるのは、耳障りな侵攻の音だ。
王は最後の一段の前にナーシャを見る。
ナーシャはこくんと頷いた。その瞳は導の色。藍の色。
王は心の奥底で『来るべきその時まで必ず守り通す』と決意を新たにした。
最上階に二人が姿を現した。
ドクン!!
藍の大地は大きく鼓動した。
耳障りな侵攻の音が、止まる。
侵攻者には見えているであろう、藍の風を纏う最上階の二人が。空気が緊張している。城壁内の兵と民も、そして、侵攻兵も、はじめて姿を現した『覇者の導』に瞳を奪われた。
全てが止まったようであった。
だが、この時を待っていた者が居る。者達が居る。
(藍の民よ!)
(藍の民よ!)
東門でニイヤが声を民に伝達する。
北門でサンキが声を民に伝達する。
侵攻兵の視線は藍の城の最上階にあるのだ。
ヨシアが大きく藍の旗を振った。
王は眼下のそれを確認すると、レガリアを持つ右手を頭上に伸ばす。
ーーシュッーー
レガリアが空を斬った。
レガリアの合図でイチリヤは動き出す。侵攻兵の視線が王と導に集まっている間に、イチリヤは北門から疾走した。イチリヤの乗った馬が土煙を上げる。いや、その土煙よりもさらに視界を妨げる煙幕。藁から燻る煙。その藁を引き摺り馬は駆ける。城壁の門は煙幕によって消された。
王はもう一度レガリアを振る。
ヨシアがそれを確認すると、藍の旗を八の字に振り始めた。
東門と北門が開く。
ニイヤとサンキの指揮の元、民はゆっくりと音をたてずに移動する。
王はその様子を確認すると、左手の宝珠を天高く掲げた。
「言霊となりて、その力を示せ! 藍の民を藍の霧で守らん! 藍の民に道しるべを!」
そして、右手のレガリアで描く。『白』『紅』『黒』の陣にレガリアで射し、三陣を繋げ円を描いた。それから、二本の線を空気を斬りながら描いた。『白』と『紅』の陣の隙間に。『紅』と『黒』の陣の隙間に。
ドクン!
藍の大地はまた大きく揺れる。
イチリヤの描いた煙幕のまわりから、否、王の描いた円と言おうか、藍の霧が広がっていく。生きた藍の霧が。王の言霊が形を成したのだ。それは双翼を大きく羽ばたかせ、各陣営に迫っていく。
藍の霧はその姿を霊獣鳳凰に化した。鳳凰は地すれすれで進む。その高さは人の目の高さ。霊獣が視線を同じくして迫る様に、各陣営に戦慄が走る。
乱れる各陣営を横に、藍の民は王が記した二本の線を音なく進んでいく。その道しるべの先頭には霊獣麒麟。麒麟は、黄色き足跡を地に残しながら進む。
藍の霧が立ち込め民を敵の視界から遮っていた。敵は鳳凰に慌てふためき、こちらの動向に気づいていない。
王は穏やかに眼下を眺める。
「父上、皆無事のようですね」
ナーシャの言葉に王は微笑んだ。
(ああ、我の力も衰えてはいないようだな)
「父上、……霊獣が消える前に」
ナーシャは王の前に伏した。否、紋章の上に身を置いた。
最上階に描かれた藍の紋章。
ナーシャは両膝をつき、固く手を握る。
(ナーシャ、信じるのだぞ。兄達を。藍の民を。そして、覇者様を)
「はい」
(さあ、仕上げるとするかの)
王は後退する各陣営に視線を投げる。
(だいぶ下がったな。……よし、民も十分な位置に居る)
各陣営から避難する民に視線を移した。侵攻兵に気づかれず進む民に、王は安堵の息を吐く。
「父上、イチ兄は見えますか?」
王の目はその姿を捜す。
(困ったもんだ)
王はそう言いながらも、顔はニヤリと笑っている。
「父上?」
(ヨシアから旗を奪い、駆けているぞ。随分派手にやってくれるな)
王の声は軽やかだ。……聞こえぬ声ではあるが。
「藍の地に侵攻できた者など居なかったと、示しているのですね」
ナーシャの言葉に王は誇らしげだ。
(負けてはおられぬな。さて、ナーシャ、我らも示そうぞ)
王とナーシャは互いに微笑した。
「覚悟は出来ております」
ナーシャは一言そう言うと、瞳を閉じた。
王は宝珠とレガリアを天に掲げた。
「我が藍の娘(導)、藍を守る人柱となりて藍の大地と繋がらん!
導を求めし覇者よ、その翼で導の楔を解き放て!
翼を導の瞳におさめ、繋がりとなりて共に歩まん。
我が体、藍の大地となりて独地と成る。藍は藍だけで成る……猛き誇り高き藍に」
その王の言霊が大地を這う。
ドクンドクンと波打つ大地。霊獣がその大地を進む。
乱れた陣営はさらに修羅と化し、我先にと安住の地である自国に向かっていた。
ドクンドクンと波打つ大地の上に、冷静に立てる者は居ない。
王の深き愛に守られている藍の民だけが、変貌する藍の大地を眺めていた。
大地は競り上がっていく。その大地を囲むように水流が走る。
「父上! ナーシャ!」
イチリヤは叫んだ。
水に囲われ孤島となった藍の大地に向かって。