霊獣の真実-2
「……文字が」
イチリヤはペラペラと本を進めたが、そこにイチリヤの読める文字はなかった。
読めたのは、始書の半分にも満たない。
最後まで確認すると、ヒラリと紙が落ちた。イチリヤは足元に落ちた紙を拾う。ニイヤの文であった。
『イチ兄さん、急ぎ届けました。読めない文字はいにしえの文字だそうです。隣国でも解読されていません。その隣国との間の草原に、エデンと言われる台座があるそうです。
イチ兄さん、私には理解出来ないのです。この内容は、私達が探している答えなのでしょうか? 私なりの解釈はあえて言いません。
イチ兄さん、藍の状況が不安です。霊獣は何故藍に居るのでしょう。始書の陽が沈む地とは、色大陸のことですよね。霊獣白虎の地。
ですが、藍には白虎は居ません。青龍、麒麟、鳳凰、玄武が藍の遣いし霊獣であるのに。
イチ兄さん、待っています。答えを必ず……
ニイヤ』
イチリヤはニイヤの文を懐に入れ、パタンと本を閉じた。
目を閉じ、頭に淹れた文字を辿る。始書とニイヤの文の文字が交互に現れる。
「カルラか……」
イチリヤは左肩を掴んだ。強く、きつく。そして、呟く。
「白虎、びゃっこ、……ゃっこ」
森がざわざわと動く。光がユラユラと迫る。
「……ゃっこ、やっこ、やこ? 『ヤコ』」
イチリヤの口からその音が紡がれたのは14年ぶりであった。
ーーフワンーー
森が穏やかに笑った。そして、光は消える。休息せよとイチリヤに促した。
イチリヤは瞳を閉じた。
リライも、隊の者もすでに眠っている。
始まりはわかった。始まりだけがわかった。閉じた瞳の世界に灯る光。光に手を伸ばす。だが、まだ掴めはしない。
「ナーシャ……必ず答えを出すよ……」
イチリヤの意識はそこで途切れた。
森はどこまでもイチリヤに寄り添う。イチリヤ達が目覚めるまで……
森の賢者がイチリヤ達を囲んでいた。
……
……
目覚めたイチリヤは辺りを見回す。
「騎士隊長」
目覚めに気づいたリライがイチリヤに駆け寄る。
だが、リライに視線がいかないのは、見回した光景のせいだ。
森の賢者が十数体、隊を囲んでいる。まるで守っているかのように。そして……
「皆……」
イチリヤは言葉が出てこない。その言葉をリライが言い当てる。
「数日前の私達でしたら、きっと警戒し剣を抜いていたことでしょう。ですが」
リライは言いながら笑った。
「ですが、今はわかります。この者達は私達を守っているのですね?」
「ああ、そうだ」
イチリヤも笑顔で返す。
「すまぬな。私が目覚めぬばかりに出発が遅くなった」
夜はかなり深くなっている。
「いえ、騎士隊長の睡眠時間の方が私達より少なかったはずです。ですから、いいのです。私達も彼らのおかげで安心して休息できました」
イチリヤはフッと笑った。そして、体を伸ばす。
「行くか、リライ」
イチリヤはもう一度体を伸ばした。軽く屈伸し体を目覚めさせる。
「はっ」
イチリヤの元に皆が集まる。
「ヨシ、まずは私が案内人に挨拶する。皆はここで待機だ」
イチリヤはくるりと辺りを見渡した。
ーーボボッーー
光が発つ。イチリヤを待っていたかのように。
だが、いつものように光は一つではない。イチリヤの眼差しは優しい。
「おはよう……いや、まだ夜か。うーん、では心地好かった。皆の光は灯らなくても心地好い」
光が舞う。イチリヤの言葉を受けて。
「さて、挨拶するかな」
イチリヤは皆から離れ森を進む。ある光を目指して。
イチリヤが瞳に捕らえた光。それは常にリライの背面に発っていた。
森の光とは違うもの。イチリヤは迷わずその光に向かって歩いた。
やがて、森の光がイチリヤの背面に。イチリヤの前に一つの光がユラユラと揺れていた。
「藍の国、騎士隊長イチリヤだ。『大岩』までの案内を頼む」
光はクルンと回転した。そして一瞬が過ぎる。
ーーボワンーー
『……』
案内人は無言のままイチリヤにその姿を見せつける。
「……」
イチリヤも無言になる。ならざるを得ない。
案内人の姿は、否、イチリヤの想いが形作られた姿は、やはりナーシャであった。
しかし、イチリヤの知るナーシャの姿ではない。イチリヤが知っているナーシャは14才。今、イチリヤの前にいるナーシャの姿はどうみても……
『やはり違いますか?』
案内人は問う。
「ああ、違う。私の知るナーシャはもっと幼い」
と、イチリヤは即座に答えた。
『ですが、この姿が今の導様のお姿です』
イチリヤは眉を寄せた。案内人の言う言葉の真意がわからない。
『人柱としての導様は、人にありません。導様の想いが姿を変えております。そして、……覇者様の想いが導様を成長させております』
怪訝な顔に変わっていくイチリヤ。最後の言葉でイチリヤは叫んだ。
「覇者様がすでに藍の地に居るというのか! ナーシャの姿を変えているというのか!」
と。
その鋭い気迫に案内人は身を固くした。
その姿がナーシャであっても、イチリヤは怯まない。ナーシャでないとわかっているからだ。
ナーシャの姿の者が、イチリヤの気迫に怯えても、イチリヤは動揺などしない。
『白虎様にお訊きください。私は貴方の想いの偽りの産物です。偽りですが本物ですわ。この姿は今の導様のお姿です』
震えたその声に。イチリヤは瞳を閉じ静かに謝る。
「すまない」
『いえ、本来ならば貴方の想いの"ナーシャ"様を見せねばならぬのに、私は出来ませんでしたわ。貴方は想いを形にしても揺るがないと確信がありましたので』
案内人はなお続けた。
『ですから、本物の"導"様をお見せしました。私がお話しできるのはここまで。後は白虎様に』
イチリヤは、心を静めるために閉じていた瞳を開く。
「…」
目の前のナーシャの姿を焼き付けた。
冷静に。ただ心を無にして。
浮かぶ閃きはじわじわとイチリヤを覚醒させる。
ーー今のナーシャの姿ーー
「14の刻は過ぎたのだな?」
イチリヤがたどり着いた答えを案内人に発する。
『白虎様に』
ナーシャの姿の口から返された。
「……ああ、わかった。案内を頼む。私は隊の後方に居る。ここで待っていてくれ。リライを寄越す」
イチリヤは踵を返した。
案内人はイチリヤの背を見つめながら呟く。
『惑わされぬ者。真実の瞳を持つは……』
最後は森のざわめきに消えた。
案内人は姿を光に変え、リライを待つ。
……
……
昼間と違ってゆっくり隊は進む。先頭はリライ。続いて五名。その後に目印をつけていく者五名。最後尾をイチリヤが歩く。
白砂はすでに無くなっていた。だが、出発前にグレコの指示を受けた者が食事と大量の枯れた草を持って現れる。
草の束船を解体した物である。それを木々に結びながら進んだ。
リライと行く五人は元々リライの隊であった者である。後方の五人はイチリヤの隊とグレコの隊数名で編成された。
「騎士隊長、陽が上ったら走るのですか?」
そんな雑談が出るほどゆっくり進んでいた。
「陽が上ったら、まずは食事と休眠だ。速く進みすぎたらグレコが追い付かない。要所人員が到着するまで待機だ」
本当は早く前に進みたい。しかし、イチリヤはそんな思いを口にはしない。
「翔べたらどんなに良いだろうな」
ポツリと呟く。
「はい? 騎士隊長、今何とおっしゃいましたか?」
「いや、何でもない。さ、行くぞ」
進む。『大岩』に向けて。少し前を行く案内人とリライの二つの光を見る。
イチリヤは、繋がった光に胸が小さく痛んだ。
ナーシャとリライが繋がっている……そんな感情ではない。イチリヤは思い出していたのだ。
イチリヤの部屋でナーシャの手を離した日のことを。覇者にナーシャを委ねると、決めた日のことを。
触れたかったナーシャの頭。拭いたかったナーシャの頬の涙。
震えながらシャツに触れるナーシャの手……
イチリヤの背がドクンッと熱を発した。
イチリヤの頭に鈍痛が走る。
ーー何故、私の背の傷はあるのだ?ーー
ドクン、ドクンと熱くなる背と、ズキズキと頭を重くする疑問。
グレコの言葉が突然降りる。『……王子様の身寄りのことですか?』と。カルラを訊いた時のこと。
……鈍痛は頭の芯をえぐった。
「私は……誰だ?」
陽がイチリヤの頬に色を持たせる。口にした疑問を朝陽が吸い上げる。
イチリヤはハッとした。
「騎士隊長?」
リライが心配そうにイチリヤの顔を覗いていた。
イチリヤは頭を軽く振る。何かを追いやるように。
「大丈夫ですか?」
リライは再度問い、水をイチリヤに渡した。
ゴクゴクと飲み干したイチリヤは、大きく息を吐き出した。
「大丈夫だ。少し朝陽が眩しくてな」
そんな理由をリライ達が信じるはずはない。イチリヤの顔色は青ざめていた。
「休みましょう」
リライはイチリヤの体を支えた。
「要所人員が来るまで、休眠するのですよね」
イチリヤの配下の者が、交わした会話をリライに伝えた。
イチリヤは乾いた草の上に運ばれる。
「我々はずっと騎士隊長に寄りかかっていました。藍の国を出てからずっと。騎士隊長、我々にお任せください。どうか、ゆっくりお休みください」
その言葉を受けて、イチリヤは瞳を閉じた。
だが、イチリヤの脳裏に朝陽に消えた残像が浮かぶ。
それは一瞬だった。一瞬見えた自分の姿。森の『大岩』で佇む幼い自分。一瞬見えた映像は、朝陽に溶けた。
残像が残る。
イチリヤの脳裏に。
鮮明に。
「白き虎。何故私の隣に居た?」
イチリヤの声は儚く細い。誰もその声には気づかない。
瞳を閉じたまま、イチリヤは呟く。
「私は……誰だ?」
その問いに答える者はいない。
「何故私は疑わず、『一の王子』であったのだ?」
イチリヤは自身に問いかける。
「背傷の記憶はない。いや、それ以前の記憶もないではないか。何故私はそれを不思議に思わなかったのだ? 何故当たり前に、過ごせたのだ?」
ナーシャが微笑んだ。突如ナーシャが脳裏に現れる。
「私は、ナーシャしか見ていなかった。私の全てはナーシャに向いていた」
行き着いた答え。いや、最初の答えである。この答えだけで、全ては収まらない。
ほんのひとかけらの答えに過ぎないのだ。その答えさえも疑問を生じる。
何故私はナーシャだけを……
無の記憶。
幼い自分と白き虎の記憶。
『カルラ』の刻印。
霊獣は、覇者は、導は!
イチリヤの脳内で疑問が蠢く。
『思い出したのか?』
その声は狼の声。
イチリヤは目を開ける。右側に感じる強い覇気。迷わずその方向を見た。
「今日は藍の色ではないのだな?」
狼の毛色は、真っ黒であった。真っ黒でありながら光っている。青であったときも、藍であったときもそうであったように。
『我の色は霊獣の色』
イチリヤは始書を思い出す。
「北の寒き地、玄武の色だな?」
と口にしたイチリヤに疑問が浮かぶ。藍の色の霊獣は……
「『カルラ』も霊獣なのか?!」
『ほぉ、何を知ったのだ?』
狼はブルンと体を振った。
「狼殿! 騎士隊長をお願いします」
離れた場所から、隊員が声をかけた。
狼はもう一度ブルンと体を振って応えた。
「何も知らない。何もわからない」
イチリヤに狼と向き合うだけの答えはなかった。
『だから、行くのだろ? 全てを知るために』
イチリヤは白き虎を思い出す。だが、一瞬の映像だけしかイチリヤには思い出せない。
ーー思い出せない?ーー
「さっき、『思い出したのか?』と問うたな」
『ああ、思い出したのか?』
すぐさま狼は問う。
「何を思い出せばいいのだ? 私は……」
イチリヤはその先の言葉を言えずにいた。
狼はイチリヤの右側に座った。狼は常にイチリヤの右側を選んでいる。
『我がことなら教えよう。我はな……』
狼が言葉を紡ごうと、一呼吸した時に、
「白き虎が幼い私の横に居た。それだけだ」
とイチリヤは言った。
風が吹いた。
狼の毛が靡く。
『我は森の番人。……なりそこないの霊獣だ』
イチリヤの告白を受けても、狼はそれに応えずに自身の告白を始めた。
「初めて会ったときも言っていたな。霊獣であると。だが、私の知る霊獣は四体のみだ。そして昨日霊獣が五体であることを知った。今、また霊獣が増えた」
イチリヤは淡々と述べた。疑問が増えていく。それを全て抱えるには、心を無にして全ての言葉を否定しないこと。
『増えてはいない。霊獣は五体。我はな、なりそこないの霊獣……成ることのない霊獣。霊獣にあって霊獣にあらず』
イチリヤは起こしていた体をゴロンと横にした。狼もイチリヤに習い体を丸めて、顔だけを上げていた。
互いの告白は先へと進まない。互いに追究しないのだから。
牽制しあっているのではない。
ただ、互いに"言"を放ちたかったのだ。そこに答えを求めてはいない。
いつまでそうしていたであろうか。イチリヤも狼も無言の時を刻む。
と、狼の耳が動く。
『来たようだ』
狼は体を起こした。イチリヤに何も告げず、リライ達の方に駆けて存在を示す。
リライ達が気づいたのを確認すると、森へと消えた。
「騎士隊長」
リライが近づく。
「ああ、休めた。すまなかった」
顔色の戻ったイチリヤに、リライは安堵の表情だ。
ーーガサガサーー
森が音を奏でる。
イチリヤとリライは音の方を見る。イチリヤが声を出そうと息を吸い込んだ。
しかし、それより先にリライが発した。
「要所人員か? 伝令か?」
と大声で。
「要所人員及びに伝令です!」
声が近づく。
皆が待っていた食料だ。薬菓だけでここまで来たのだ。要所人員が持ってくる食料を皆が待っていた。
「早く飯をくれ!!」
野太い声がする。コロボだ。誰より待ちわびていたはコロボだった。
次話金曜更新予定です。




