妖の森-3
「騎士隊長!」
グレコがすぐさまイチリヤの元に走った。沼に足を突っ込みながら。
「こら、グレコ。落ち着け。泥が跳ねるでないか」
イチリヤはそう言いながら、グレコに白い泥を投げた。グレコの顔にビシャと命中する。
「ほらな」
そんなイチリヤの行為に、緊張していた皆の力が抜けた。
「イチ王子様!!」
真っ白な顔で怒るグレコに、大笑いするイチリヤ。
「す、すまぬな。ブワッハッハ」
皆もグレコの白塗りに笑いを抑えられない。
グレコは笑った者を睨むのだが、それがさらにツボにはまるのだ。
「皆、集まれ。グレコ、待っているぞ」
グレコはドスドス歩き、皮袋に入っている水で顔を洗った。
「なんだか……スゥスゥするな」
グレコは顔を撫でた。違和感を感じながらも、グレコはイチリヤ達の元に戻る。
「待たせました」と憮然に言う。
「グレコ?」
イチリヤは、グレコの顔に驚いた。憮然とするグレコの顔をぺたぺたと触る。
「や、止めてくだされ。何なのです?」
グレコ自身は気づいてはいないが、皆グレコの変貌に驚いていた。
「グレコ、顔の痣が消えている」
イチリヤの発言に、グレコは怪訝げだ。
「何を言っておられるのです?」
とは言うものの、皆の自分を見る態度にグレコは顔を確認しようと、触れてみる。右頬にある火傷のあと。皮膚のつっぱりを確認した。
「ん? あれ……」
つるりと滑る肌にグレコは何度も擦る。
「……イチ王子様、消えているのですか?」
「ああ、消えているぞ」
皆が一斉に白沼を見た。
「この中で傷を持つ者はいるか?」
イチリヤのその発言に、数名が手を上げる。
……
……
「やはりな」
沼の泥を傷に塗る。それを洗い流すと、傷が消えていた。
「この沼はいったい?」
リライが呟いた。
「……」
イチリヤは考え込む。考えながら、視線を対岸に移した。炎が揺れている。ずっと燃えている炎。だが、森は焼かれてはいない。燃えてはいない。
「この泥で消火出来るか?」
イチリヤの呟きに、皆がはっと息を飲んだ。
「試す価値はありますな」
グレコはまだ頬を擦りながら言った。
ここで、イチリヤは集まった皆に、狼との会話を伝えた。……ただ、カルラの刻印については話していない。
我々の問いに答えられる者が、森にいること。森の秩序が破られると、その者が現れること。
番人は森の秩序を守るため、我らを森には通さない。通れば、秩序が破られ……その者が現れるであろうと、暗に狼は伝えたのだ。
ただ、霊獣狼は、言霊で炎鎖を放った。つまり、この炎鎖が関門である。
「皆、聞け! 午後に再度対岸に向かう。先発隊はそのまま。後発と待機隊を入れ替える」
イチリヤはリライと目を合わせた。リライは、すぐにイチリヤの意図が理解できたのか、
「この隊は、水の確保ですね?」と、発言する。
イチリヤは笑い頷いた。
「リライの隊は、水の確保。グレコの隊は、先発の後ろにつけ。午後まで体を休めておけ!」
『白虎様、カルラの刻印を持つ者が現れました』
森の奥、狼は大岩に向かって話す。
ーータンッーー
大岩の上に軽やかに現れたのは、白き虎。
狼を一睨みする。狼は身を屈め後退する。腹を地面につけ伏した。
『まだ秩序は守られている。我はまだ必要にあらず。……優しき狼よ、彼の者がここにたどり着くまで、我は姿を見せぬぞ』
いかにも愉しげに、白虎は発した。
狼は耳を垂れ、居心地が悪げだ。
『頼んだぞ』
ーータンッーー
狼が顔を上げる。
すでに白虎の姿は消えていた。
『白虎様には全てお見通しか……』
狼は力が抜けたように項垂れた。が、それは負の気ではなく、気高き位への平伏と尊敬の気持ちである。
狼は遠吠えをすると、白沼へと駆け出した。
『カルラの刻印を持つ者よ。我の炎鎖を越えてみよ』と、言いながら。
「出発!」
再度先発隊は対岸へと草の束船を進ませる。後発は草の束船に乗ったまま。先発隊が岸に上がる。目の前の炎に、イチリヤは結果はわかるものの、水をかけてみた。
ーーシュゥ
……ボボボボボボォォーー
水ではやはり消火出来ず。
「やはりな。では白泥を試すか」
持ってきた木の器に泥を掬う。
「同時にかけるぞ」
先発の皆も同じように泥を持った。
一列に並んだ15名とイチリヤ。イチリヤの合図で同時に炎に泥をかける。
ーージュッシュゥ
……ボボボボボボォォーー
「……そんなに上手くはいかないか」
皆が肩を落とした。炎は消えない。沼と森の狭間で消えぬ炎。
「暑いな、一旦草船に戻れ!」
撤退を指示し、イチリヤは森の奥を見る。光る瞳を確認できた。
『フハハハッ、そう容易く消せぬわ!』
狼の声がイチリヤを嘲笑う。
「ああ、そうでなくてはな! 簡単では森の秩序は守れまい」
イチリヤは狼に応えた。それは、負け惜しみではなく、この勝負を楽しんでいるように。
『……フンッ、小生意気な』
狼も楽しげに返した。
「では、また」
イチリヤは草船に乗った。沼を蹴る。その背に狼の声が届く。
『秩序に反せよ』と。
イチリヤはその言葉の意味を考えながら、拠点へと戻っていった。
「騎士隊長、難問ですな」
グレコはイチリヤに話しかける。
「まあな。だが、解けぬ問題ではない」
秩序に反せよ。イチリヤは言葉を心の中で繰り返す。
「藍王様もよく難問をお出しになられましたな」
グレコは遠く西の空を見た。藍の国がある方向だ。
「ああ、そうだな。……だからなのか、私はこの難問を楽しんでいる」
イチリヤも西の空を見た。在りし日の記憶が蘇る。
……
……
『この火を消してみよ』
焚き火で芋を焼きながら、藍王は言った。
『今、消したら芋が焼けませんよ?』とサンキが返す。
『良いか、考えよ。水を使わずにこの火を消す方法を。答えられた者が、ナーシャに芋を持っていけ』
藍王は楽しげに言ったのだ。
焚き火を囲んで、イチリヤ、ニイヤ、サンキ、ヨシアが居る。藍王はフフンッと笑って、数歩下がった。
四人が考え込む。
藍王の愉快な顔。
『ハハッ、ヒントは言ってあるぞ』と、藍王は言う。
藍王の言葉をイチリヤは思い出す。そして、繰り返す。
ーーナーシャに芋を持っていけ?ーー
イチリヤは、閃いた。
『父上、芋が焼けるまで待ちましょう。火は自然に消えます。燃えるものを足さなければ、いつか消えますから』
水など使わずとも消えるのだ。
『頭にこびりついている、常なるモノが視界を狭くしているのだ。いいか、視界を常に拓かせよ。ひとつに凝り固まるな』
藍王の言葉は深い。四人は深く、深く言葉を心に刻んだ。
『ほれ、イチ。芋を持っていけ』
……
……




