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紅団地の記憶

作者: キサキシノ


 私にはある一つの罪の記憶があるのです。

 小さい私達にとっては狭くも広い悪夢の様な世界で、

 一人の女の子を、私達友人は手を繋ぎ囲み輪になって、

 そう、殺したのです。



紅団地くれないだんちの記憶』



「夜、瞳を閉じると、ぼんやりと白い空間が広がるのです」

「そして市松人形の様な一重で重い眼がこちらをじっと覗いてくる」

「白い空間に浮かんだ双眸は、瞬きもせずに私をずっと見つめ続けるのです」


 “紅子べにこ”は日本人形の様な美しい少女であった。

 艶やかな黒髪は、肩に背負ったランドセルで波打ち腰まで伸びている。シャツから、スカートから伸びる細い両手脚は透けるように白く、頬はほんのりと染まり、唇は花の蕾の様に色づき可憐であった。

 長く重い睫に縁取られた大きな漆黒の瞳が辺りを見渡した。

 

 振り返ると、腐ったような赤錆色の重く閉ざされた扉が目に入った。

 紅子の自宅の扉だ。

 紅子の“夢”は必ずここから始まっていた。

 これは紅子が幼少期に過ごした団地の色褪せた記憶と、そして<紅団地>の記憶。

 

 毎晩、紅子は紅団地を彷徨っていた。

 紅子の自宅はこの団地の一つの棟の五階なので、よく、空が見渡せた。

 どんよりと濁った空に生えるように煤けた白色の無機質な団地の棟が並んでいた。

 その棟の間を、ゆったり、ゆったりと、歩く、巨大な少女の赤いワンピースが、深海を泳ぐ海の生き物の様に尾を引いてたなびいていた。

 その少女はあまりも巨大なので、顔を見ることはできなかったが、紅子は毎晩確信していた。


「私は毎晩、その巨大な赤いワンピースの少女の顔を見なくてはならないと、そう思い、紅団地を彷徨い歩いたのです」


 紅子はゆっくりと階段を下り始めた。

 湿気に満ちた紅団地は、静寂に包まれ、カビと生ゴミの混じった様な臭気を漂わせている。足元のコンクリートは所々へこみ、降った雨水が溜まっていた。雨水は紅団地を吐瀉物のような不快な空気で塗り込めていた。

 階段を下りながら、斜めに広がる蜘蛛の巣に頭が引っ掛からないように、紅子は気を付けた。

 階段を下り切ると、道を塞ぐように棒立ちをしているオカッパ頭の少女の背が見えた。

 紅子は眉を顰めた。


「紅団地の住人とは、目を合わせてはいけませんでした」


 オカッパ頭の少女は不自然なくらい微動だにしなかった。

 黒く顔を包む髪と、小さな背中と、細い手足。無機質なパーツの記号は、少女の顔を決して想像させない。紅子にただその後ろ姿を焼き付けるだけであった。

 ふいに、ゴォォォォン、ガアァァァン、と重く鈍い鐘の音が紅団地に鳴り響いた。

 オカッパ頭の少女は「かえらなきゃ」と呟いて、その場を去っていった。

 歩みながらも少しも揺れない重いオカッパ頭が、紅子の目に強く残っていた。

 小さく息を吐いて、紅子は緊張を解いた。


 視線の先、揺れる巨大な赤いワンピースの裾を目指して再び紅子は歩を進めた。

 コンクリートの橋に差し掛かった辺りで雨が下り出してきた。

 前方から、少年達の大きな声が声が響いてきた。

 少年達は、雨除けに何処から取ってきたのか、薄汚れたブルーシートを被って、縦に並んで走ってくる。キーー、キーー、キーホホホ、キョー、と、奇声を発しながら、雨粒を飛ばして走っていた。

 ブルーシートの凹凸は少年達の頭の数だけ盛り上がっている。

 紅子は横を走り去っていく少年達を、何気なく目で追っていた。

 1、2、3、三人の少年達の頭がブルーシートの膨らみの下で揺れている。ブルーシートの下で元気に動かされる脚は、その少年達をまるで巨大なムカデの様に見せていた。

 紅子は再び歩を進めようと、思ったが、ふと気になって振り返った。

 少年達の脚が一つ多かった。

 走り去る少年達の被ったブルーシートの膨らみがその頭の数だけ揺れている。最後尾の少年の場所はペタン、と斜めにシートが垂れていた。

 紅子は少しばかり唇を噛み締めたが、再び自らの目指す場所へ向けて歩を進めるのだった。


 橋を渡り、目的の団地の棟がいよいよ近付いていた。

 左の遠方からは、ビュヒュヒュヒュン、ビュン、ヒュン、ビュヒュヒュン、と縄跳びが激しくコンクリートを打つ音が聞こえてきた。

 右奥からはバーーン、ドン、ドン、ボン、ガボン、とボールか何かを打ち付ける音が聞こえる。

 どちらも子供の奇声と、激しい雨が降っているためかビシャッ、ビシッ、ピチャ、という水音が混ざっていた。

 左右から聞こえる異音に邪悪な歓迎を受けるようにして、紅子は慎重に進んだ。


 ふと、上空から降ってくるように重くて黒い粘った塊が落ちてきたような感覚に襲われる。

 それと同時にプーーー、プーーーー、と心臓に響く車のクラクションが鳴り響いた。

 紅子は思わず瞳を閉ざし、しゃがみ込み頭を抱えた。

 閉ざされた視界に広がる暗闇は段々と白に飲み込まれ、二つの黒い丸が並ぶ。

 目だった。市松人形の様な一重で重い眼がこちらをじっと覗いてくる。

 紅子は心臓を強く握りつぶされるような痛みを感じて、強く目を開いた。


 しゃがみ込んだ紅子の目の前には、聳え立つ複数の煤けた白の団地の棟。

 その棟の間をふっとよぎる、巨大な赤いワンピースの少女の後ろ姿が見えた。少女はピタリ、と動きを止めていた。

 少女の髪は肩を少し過ぎたあたりでブツリ、と切り揃えられていた。紅子と同じ黒髪であったが、その二つはとても違って見えた。紅子の髪は艶をまとっているが、少女の髪に艶は全くみられない。ずっしり、と乾いた黒髪の重い束が揺れる事も無く、貼り付いたように背中に垂れている。


 ふいに、ふわり、と巨大な少女のワンピースの裾が翻り、その途端、一つの棟が<紅>に染まる。

 白い棟の群れで、それは酷く異質を放っていた。

 巨大な少女のワンピースの色が移ったのか、それともその<紅>の団地が巨大な少女そのものだったのか、少女の姿は消えていた。


「今夜で一体何日目になるでしょうか。私はある日から、毎晩毎晩、この団地を夢で彷徨い続けていました」

「しかし、私は最初からこの悪夢の様な世界で“やるべきこと”に気付いていたのかもしれません」

「あまりの恐ろしさに、私は気の遠くなるような長い月日、ずっと苦しみながらも、目を逸らし続けていたのです」


 紅子は息を呑んで、紅に染まった一つの団地へと足を踏み入れた。

 内部も紅に染まった、コンクリート壁、床、ポスト、階段、電球、扉。薄暗く、それらの色は一層濃く、重々しく、紅子を飲み込んでいった。

 階段を上る紅子は息苦しく、時々大きく息を吸っては、胸を押さえていた。まるで肉の壁が、床が、天井が、四方八方から脈を打ちながら、血液を生みながら、じっとりと紅子を飲み込もうとしているかの様な錯覚に襲われたからだ。

 やがて一つの扉へと辿り着いた。

 この扉の先に住む家族の名前が書かれたプレートに目をやると、紅子の全身にざわりと鳥肌が立った。


「その部屋には私のお友達が住んでいたのです。同じ年の女の子でした」

「しかし、その子はある時から、クラスの子達にイジメられる様になってしまいました」

「この日、その子をイジメている子達に私は呼び出されました。そしてある行動を命令されたのです。その行動を実行しないと、次はお前をイジメてやる、と脅されて」


 紅子は扉を叩き、精いっぱいの明るい声と笑顔を作りこう発した。「〇〇ちゃん、あーそびましょ」紅子の手と脚は震えていた。不自然に形作られた笑顔が小刻みに歪んでいる。

 この異質な悪夢、紅団地の扉が、切れ目の入れられた肉の様にグッ、と開いた。

 紅子は当時を思い出し、瞼を一度固く閉ざした後、決心したようにゆっくりと瞼を開く。視線を少しずつ上げ、しかし、その目の前に現れた人間の顔は見ないようにした。

 紅団地の住人の顔は見てはいけない。紅子が初めてこの悪夢に迷い込んだ時から、心に深く刻まれていた忠告。


 顔は見えないものの、目の前の友人は喜んでいる様子であった。「いらっしゃい、紅子ちゃん」と明るく微笑んでいる、と感じた。

 俯いている紅子の顔は悲しみとも愛しさとも取れない形に緩んだ。大好きだったその友人を、もう一度見たいと、思った。

 しかし紅子は強く表情を引き締めて、その感情を押し殺すのであった。

 友人に導かれるままに部屋へと案内される。

 「ジュースとお菓子取ってくるね」と嬉しそうに別室へ向かった友人の背を紅子はちらりと見やった。


 〇〇ちゃんは、よく赤いワンピースを着ていた。


 海を泳ぐ生き物の様に、ふわりと尾を引いて揺れるワンピースの裾がよく印象に残っていた。

 そして紅子は部屋を見渡した。ある物を探していた。


「私がイジメッ子から命令された行動とは、〇〇ちゃんの家にある一つの人形を盗んでくる事、でした」

「以前イジメッ子のリーダー格の女の子が〇〇ちゃんの家で見かけた人形をいたく気に入ってしまったのです」

「そして今日、私にそれを盗んで来いと命令したのでした」


 紅子が視線を巡らせると、当時と変わらぬ位置にその人形はあった。

 近寄って手に取り、思い出す様に紅子は人形を見据えた。

 着物を着たその人形の髪は黒く、肩を少し過ぎた辺りでブツリと切り揃えられている。艶は無い。顔は白く、丸みを帯びて、のんびりとこちらを見つめる一重の重い黒の瞳が印象的だった。


 紅子は別室に消えた友人の様子を窺い、そしてそっと立ち上がり人形を持ち去った。

 扉を音を立てないように静かに閉めて、紅子は階段を下りようと歩を進めた。

 その瞬間、背後から「紅子ちゃん。どこにいくの」と呼び止められた。

 紅子は背筋が固まった。扉が開いた音もしなければ足跡も聞こえなかった。それなのに背後から友人の声が聞こえてしまった。


「私はこの日、〇〇ちゃんの人形を盗み、そしてイジメッ子の女の子へと渡したのです」

「しかしその翌日、〇〇ちゃんは亡くなり、イジメッ子の女の子は行方不明となり、その後見つかることもありませんでした。人形の行方も、わかりません」

「その日の晩からなのです。私が<紅団地>を彷徨い始めたのは」


 紅子は振り返る事ができなかった。

 “紅団地の住人の顔は見てはいけない”

 紅子が紅団地へと初めて迷い込んだ時に、そう忠告をする声があった。その声は、目の前の、この友人だった。

 しかし今の友人の様子は少しばかりの異質を放っていた。これは紅子の知っている友人なのだろうかと警鐘を鳴らしている。

「紅子ちゃん。それ、私のお人形じゃない?」「ねえ、それ、返してほしいな」友人は紅子へと詰め寄り、紅子は階段の踊り場に追い詰められてしまった。

 〇〇ちゃんの赤いワンピースが紅子の視界いっぱいに広がった。「返して、返して、返してよ」友人は紅子に掴みかかり、バランスを崩した紅子は――目の前の存在の顔を見てしまった。


 赤いワンピースを身に纏った華奢な体はそのままに、しかし、その顔がアンバランスに乗せられた饅頭の様にゴロリ、とそこにあった。

 丸く膨らんだ両頬に挟まれたおちょぼ口が、カカカカッと動いて声を発した。「遊ぼうよ、紅子ちゃん」「次は、貴女の、その美しい体をちょうだい」

 友人の顔は、紅子が今手に持つ、その人形そのものであった。

 紅子は目の前の存在を力いっぱい突き飛ばし、階段を急いで走り下りた。

 紅団地の永遠にも思える長い階段を下りて、下りて、下りきって、息を切らしながら、紅子は自らの背後に聳える紅団地を振り返った。

 団地の棟は、ひらりとした赤い布地に姿を変え、その赤いワンピースからは細い手脚が伸びて、パンパンに膨れた白い顔がずしりと乗っている。

 重い瞼が影を落とす、どんよりとした漆黒の双眸が紅子を見下ろしている。

 紅子は人形を手に、走り出した。


「今朝、私の家に一つの荷物が届いたのです。それは――あの人形でした」

「そして私は決心したのです。今夜、おぞましい紅団地で、あの人形と対峙しなくてはならないと」


 逃げる紅子をゆっくりと追う巨大な赤いワンピースの少女に続くように、左右前後から子供達の笑い声が聞こえた。

 縄跳びを飛んでいた少女が、ぬっと姿を現し、紅子の後ろについてくる。

 ボール遊びをしていた少年も、おかしそうに笑いながら、さらに後ろに続いた。

 ブルーシートを被り橋を走り去っていった少年達が前方からやってくる。紅子を追い越し、そのまま最後尾に続いた。

 息を切らしながら走る紅子は気が付いていた。

 その子供達の顔はみんな、あの人形の顔になっていた。

 背後をちらりと振り返ると、膨れた白い頬を揺らしながら、表情の無い黒く塗りつぶされた様な二つの目がたくさん紅子を見つめて追ってくる。

 もう一つ、気が付いていることがあった。

 本来の顔がわからずとも、その服装や特徴でとっくにわかっていた。

 この子供達は皆、〇〇ちゃんをイジメていた子供達だった。

 全ての思いを振り切るように、紅子は強く前方へと視線を戻して走り続けた。


 気が付いたらコンクリートの道は終わり、足が踏むのは草に変わっていた。紅子は足を止めた。

 小高い丘に、オカッパ頭の少女が立っていた。他の子供達を同じく人形の顔をしている。

 ゴォォォォン、ガアァァァン、と重く鈍い鐘の音が、紅団地全体に響き渡った。

 オカッパ頭の少女が指さした。「かえらなきゃ」指さした先では炎がバチバチ、と燃えている。

 このオカッパ頭の少女は、イジメッ子のリーダーの女の子だった。

 あの人形を欲しがり、手に入れたその後、行方不明になった子だ。

 紅子は炎へと近付き、人形を放り投げた。

 途端に背後から大きな唸り声が轟き、紅子が振り返ると、巨大な赤いワンピースの少女が炎にまみれてうごめいていた。

 しかし少女の顔はおかしそうに楽しそうに歪み、大きく声を発した。

 それは絶望の絶叫ではなく、断末魔でも無い。

 興奮して喜び、発せられた子供の笑い声だった。

 そして気が付いたら、紅子をイジメッ子の子供達が囲んでいた。

 子供達は手を繋ぎ輪を作り、紅子を見据えながら、歌い踊り始めた。

 やがて子供達の体にも炎が生じて、しかし、子供達は燃えながらも、歌い踊り続けた。

 

 人形を燃やした炎はいつしか姿を変えて、それは、赤いワンピースとなっていた。

 紅子は遠い昔に見た、その友人の姿に思わず涙をうるませた。

 人形の顔ではなく、そこにはしっかりとよく見知った友人の顔があった。

 思わず紅子は長い月日、ずっと心の底に溜め込み続けていた言葉を発した。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい〇〇ちゃん」

 友人はただ静かに優しく紅子を見つめていた。

「人形を盗んでごめんなさい」

 友人は紅子の白い手を取り握った。

「助けてあげられなくて、ごめんなさい」

 紅子は全てを悔いていた。人形を盗んだことも、イジメから友人を守れなかったこと、救い出せなかったことも。

「ずっと助けてあげられなくて、ごめんなさい」

 紅子は泣き崩れていた。友人は微笑み、紅子を抱き寄せた。

 赤いワンピースのその姿は、口を開いてこう言った。

「助けてくれてありがとう」


 “紅子”は昼の日差しが差し込む室内で、医師と向き合っていた。

「こうして私は目覚めたのです。もう、紅団地の夢を見ることはないと、思います」

「朝目覚めたら人形の姿はすっかり無くなっていました」

「私は、当時どうして〇〇ちゃんが亡くなったのか、イジメッ子の女の子が行方不明になったのか、何も、わかりません」

「でも……」

 紅子の話を聞きながら、しかし医師の表情は曇っていた。

 医師は疑う様に紅子の顔を見据えながら、やがて引き出しから手鏡を取り出し紅子へと渡した。

 紅子は訳が分からず、とりあえず渡された手鏡を覗いてみた。

「助けてくれてありがとう」

 紅子の息は止まった。

 手鏡には、丸みを帯びた白い頬と、赤く染まったおちょぼ口、そして重く沈んだ漆黒の目がこちらを見ていた。

 紅子の意思に反して、おちょぼ口が勝手にカカカカッと動き言葉を発する。

「助けてくれてありがとう」


 赤いワンピースの裾がふわりと揺れた。

 自身は、赤いワンピースを身に纏い<紅団地>へと降り立っていた。

 まるで歓迎されるようにどこからか子供達の奇声が上がる。

 “紅子”は頽れた。

 これは呪いなのか、罰なのか。

 ――遠くで炎の臭いがした。



-end-



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