「休んでいきな」
時の流れが速い。時計の針は地元にいるときと同じ速さで進んでいるのに、目の前に広がる世界を目で追うことが辛い。全ての物事には時間が限られていて、そのタイムリミットに催促されている。
その世界の中でたった一人僕だけが置き去りにされている。
(やっぱり電信柱みたいだ、何も変わってない)
客観的に見た自分を想像してそう思った。誰もが一応その存在は認識していて、だから避ける。そう、避けるだけであって興味を持つ人はいないに等しい。それが悲しいと思っても、頑なに動こうとしない自分の足に苦しめられる。こんな時いつも思い出す。
あれは小学校低学年の時だった。急にクラスの中で仲間外れにされた。そのときはまだ「いじめ」という言葉もよく理解されていなかったし、僕自身もしていなかったから突然のことに狼狽した。
目が合ってもその視線はすぐさま外されるか、僕を貫通する。何かの間違いだと思って「おはよう」と声をかけてみたら素通りされ、後ろの方から笑い声が聴こえてきた。
確かに学校では必要最低限の会話しかできずに、自分から声を掛けたり休み時間のドッヂボールに混ざることだけでも大変だった。
でも、周りが声をかけてくれたり休日の秘密基地作りにつれていってくれて、秘密の暗号も知っていた。友達なんだろうと思っていた。
自分の何が悪かったのか、それを大分時間をかけて考え込んだ。しかし、寂しく流れる時間と代償そんなことを一人で考えていても何も解決はしないことを知った。同時に誰かに頼ることも必要だということと友達という関係の難しさも。
ある日の事台所に立つ母のエプロンのひもを引っ張った。母は「何?」と振り返り、僕の視線に合 わせるようにしゃがんで僕を見つめた。
喉のあたり、手を突っ込めば取り出せるようなそんな感覚だった。何度も空気を吸って、早くそれを吐き出して楽になりたいのに、ただ涙と情けない声が微かに漏れるだけ。
改めて考えると謎だらけで、そのすべてに回答が見つからない。何度思い返しても間違えだと思った瞬間なんてないように思えた。
今自分の中のモノをどう伝えればいいのか、もう見当もつかなくなって結局声を上げて泣いた。
「そっか。頑張ったね」
言葉に成ったものは一語もなかったけれど、母は僕の両手を持って頷き続けた。そしてそれ以上僕から何か訊きだそうとすることもなかった。ただ母の勇ましい手が小刻みに震えていた。
「お母さんがどうにかしちゃっていい? それとも自分で頑張ってみる?」
答えのない二択にまた涙が出てきた。いつもなら母が前者を自動的に選んでくれて、後者の道はないものと同じことになっていた。しかし、その道が解放された今、自然と手が伸びるのは後者の方だった。それが今までへの反動なのか、自分自身でも知りえない間に作られた決意の塊なのかは分からなかったけど、母が二択にしたことにはきっと意味があると思った。
「もうちょっと頑張ってみる」
母は目を光らせながら優しく頷いた。何をどう頑張るのか曖昧なまま母の手をしっかり握った。
「あ、そうだお守り買いに行こう」
そういうと母は、僕の手を一度も離さずに玄関を出た。言葉を交わさずに歩いて数十分、たどり着いたの場所は、神社でも寺でもなく町では頭一つ出た大きさの本屋だった。
多分自動ドアを潜った瞬間のあの匂いは今での鮮明に覚えている。落ち着いた店内の雰囲気がまるで僕に「休んでいきな」と言ってくれているようで自然と肩の荷が降りた。
「何冊でもいいよ。好きなもの選んで来な」
普段積極的に本を読むことはなく、その本屋に訪れたことも片手で数えられるほどであったのに、その時だけは驚くほどに体が動いた。
母は何冊でもと言ったが、僕はたくさんの中からこれでもかという程に吟味した。その悩んでいる時間もまた心地よくて気が付いた時には時計の長針が一回りしていた。
最終的には三冊の小説を持って、料理雑誌を立ち読みしていた母のところへ行った。
「それだけでいいの?」
僕が頷くと、「じゃあ、これも」と母が木製のしおりを足して会計を済ませた。
次の日から学校では暇があれば本を読むようになった。目に見える世界に不満があって寂しくても、本の世界は決して僕を見捨てることはなく、母の言う通りお守りにとなった。
***
右肩に大きなボストンバック、背中には今の僕のように張り詰めたリュックサックを背負い、左手には小さなナビゲーターを持っている。
時の妨げにならないよう駅の隅の方に移動してナビゲーターに話しかけた。
(僕の新しい家は何処だい?)
頭の良い彼は一瞬で道に赤い線を引き、僕を導こうとしてくれた。一度内見したはずが、その記憶は頭に留まることはなかった。記憶力には自信があったのだが、今回ばかりは緊張にかき消された。
安心してナビゲーター片手にいよいよ濁流の中に飛び込もうと思った時、視界の隅に何かを感じ取った。
”危険!歩きスマホ!”
そんなポスターの前には反面教師が溢れかえっていて、残念ながら効力はゼロ。それにわずかばかり寂寥感を抱いた僕は、赤い線を頭に叩き込みナビゲーターを休ませた。
(これで少しは意味があっただろう)
一方的な満足感を胸に、僕は歩き始めた。しかし、相変わらず周りのスピードに圧倒され、歩くことだけで何か得体のしれない不安感が僕を襲った。進むごとに新しいものに圧倒され、何もわからない蜃気楼のような世界の中で、これからの自分の想像だけが膨らみ不安感に拍車がかかった。
行ってみてしまえばどうにかなる。そんな安易な発想で上京した。一週間後には辛うじて合格した大学に通う。そうしたらアルバイトをしてある程度の生活力をつけなければならない。両親にはあまり頼りたくはないのだ。
決して裕福ではないはずなのに、僕が進みたい方向を見つければその度に背中をポンと押してくれて、もし失敗して帰って来ても、背中を支え続けてくれた。
だから自分ひとりになったらどうなってしまうのか疑問だった。
後悔先に立たず。早くももう心が折れかかっていた。不安要素しかないこの世界が嫌ですべてを地元と比較している。
あたりまえの如く地元の面影はなく、空の色さえ見覚えがないような気がした。
今日で何度目かわからない溜息を搗いた。下向きの視線を何気なく上げて息が詰まって咳き込んだ。
見覚えのあるロゴが光っていた。昼間なのに。瞬きをしてもそれは消えることなく、さらに輝きを強め周りの景色をかき消した。
「休んでいきな」
鳴りやむことのない雑音に関係なく耳に届いた声が歩幅を大きくした。人混みの間を縫って歩いて、
何度も荷物を落としそうになりながらたどり着いた。
まるで地元からそれだけをくり抜いて持ってきたかのようだった。自動ドアを潜った時の匂い、雰囲気全てが一致した。あんなにも重かった荷物が体の一部のようになり、心身ともに軽くなりゆっくりと足が前進した。
雑誌の棚、漫画の棚、小説の棚どれもが同じ位置にある。驚嘆のあまり目と鼻が痺れた。
これはいけないと思い、速足で人気のない棚に隠れた。歯を食いしばって、上を向いて、どんなに努力しようとしても、僕を包み込む記憶と雰囲気が優しく体の力を抜いた。
ついに嗚咽がこらえられなくなり、いつかと同じような情けない声が店内の一部に響いた。すぐさま口に手を当ててこらえようとするも、今度は涙が止まらなくなりそれも隠そうと、もう片方の手で涙を拭おうとしたら、バックが勢いよく落ち大きなことに成った。
(何やってるんだろう)
「はい」
突然の声に一瞬だけ嗚咽が止まった。目の前には清潔感溢れる白いハンカチが乗った綺麗な細長い手があった。
顔を上げようと思い腰に力を入れて、自分のひどい顔をを想像して止めた。
「すみません」
白いハンカチを涙で濡らしてしまうのは悪く思い、使えなかった。
「何も悪いことしてないんだから、謝らなくていいよ」
「やめてくれ」そう思った。そんなことを言われたら涙が止まらなくなる。
そっと背中に添えられた手がこれまたずるかった。これでもかというくらいに自分からいろいろなものが涙に姿を変えて出ていく。
「どこから来たの?」
「あ~! 新大学生か」
「〇〇大かな~?」
「勇気だしたのはいいけど、いざ来てみたらびっくりしちゃうよね。
私も上京組だからよくわかる」
周りに聞こえないように小さな声でしゃべり続けてくれるその人の言うことは妙に当たっていて、まるで昔からの友人のようで、しばらくして初めて見た顔もどこか見覚えのあるような気がした。
久しぶりに本を買った。二冊。タイトルはどちらも前向きな雰囲気を帯びていた。
橋本さんはわざわざ店の外まで出てきてくれて、僕にこんなことを言った。
「変化は寂しいから、進化を目指してね」
少なからず僕を認めてくれたんだとまた顔の至るところが痺れた。久しぶりに手を振って別れた。
恐らく午後には地元から送った荷物が届く。その中には本がぎっしり詰まった段ボールもある。自然と動く足は忘れたはずの引っ越し先へと向かっている。
(今日の出来事を母に知らせたら安心してくれるだろうか)
そんなことを考える余裕が出てきても、やっぱり空の色は違和感がある。
まだ不安は広がっていく。大学の事、一人暮らしの事、電車の乗り換え……。
一つずつやっていこう。全部同時には無理だ。今までの自分と共に進んでいこう。
(そういえば、あの本屋バイト募集してたりするのかな?)
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