陣風 最後の局地戦闘機
と言うわけで、航空機搭載潜水艦伊400最後の出撃が書き終わらんので、書き終わりを待ってたら、新作短編の執筆開始山口多聞先生の企画の締め切りに間に合わないんじゃね?
的な感じで、2日で書きました
あっちももう終わるはずです
1945年7月28日アメリカ海軍第58任務部隊による呉空襲が行われた。
その日の呉上空は、数は少なかったものの驚異的な戦闘力を保持した日本海軍航空隊最後の新鋭機が乱舞していた。
その機は、速度こそ護衛についていたF6Fヘルキャットと変わらなかったが、驚異的な攻撃力によって重装甲を誇る機体を抵抗を許さないほどの速さで落としていった。
その驚異の新鋭機の名は、陣風。
川西航空機にて開発された局地戦闘機であり、今年6月に正式採用されたばかりの機体だった。
当初陣風は1944年7月に行われた試作機種整理の対象となり、開発はそこで放棄されるはずだった。
確かに20ミリ機銃6挺を翼内に、13ミリ機銃2挺を機首に搭載するという重武装と誉四二型を搭載することによって発揮される685キロという計画最高速度は魅力的だった。
だがここに問題があった、それは誉四二型が完成しなかったことである。
そのためこの所定の性能を発揮できるか、不透明な状況となってしまったのである。
さらに言えば、この時期日本は試作機があらゆる機種で大量に存在した。その為成功の見込みがある機を除いて開発を停止することにしていた。
その為、同じ川西航空機にて進められていた、水上戦闘機強風を陸上機に改造した紫電。
そしてそれをさらに低翼配置に改めることで、性能を大幅に向上させた紫電改の実機がすでに完成していたため、川西航空機にたいし紫電改の完成に全力を注ぐため陣風の開発中断が命じられたのである。
だが陣風の高性能を捨て切れなかった、川西航空機と海軍航空技術廠の一部の技術者によって極秘に開発が進められたのだ。
その為の資金は全て川西航空機が負担していた。
その為、川西航空機の社内にはこの機にこそ社運がかかっているという雰囲気がみなぎるようになっていた。
だが海軍の担当者に対しては、その事は絶対に漏らさぬよう緘口令が社内に敷かれていた。
それは、海軍の命令に対する抗命罪になるかもしれなかったからだ。
それでも、紫電改の開発を急ピッチで進めることで海軍の目をそちらに向けることには成功していた。
だがやはり、発動機である誉四二型が完成してないことが大きかった。
なぜなら、それではないと計画通りの性能を引き出すことが出来ないからである。
その為、彼ら極秘開発チームは大幅な妥協を強いられる事になった。
即ち誉二一型の搭載とそれに関連しての、機首への13ミリ機銃搭載の見送りであった。
確かに、誉四二型と誉二一型の離昇出力の差は200馬力しかなかった。
だが過給器の性能の差が大きかった。
誉四二型が2段3速なのに対し、誉二一型は1段2速式でしかなかったのである。
その為、高空性能での差がかなり大きくなるのでは無いかとの、試算結果が出たのである。
その為、武装を減らすことで重量を減らす事によって、速度低下を最低限に抑える事になったのだ。
そこで打撃力の大きな20ミリ機銃を減らしては、意味が無い為13ミリ機銃が、削減される事になった。
そもそもに置いて、陣風は強大な打撃力を持つことを求められていたのである。
そして最高速度もF6Fヘルキャットに勝る620キロ程度になることが予想された。
これは、高空での発動機馬力の減少によるものである。
その為P51などには、最高速度の差から対抗が難しかった。
だが、強武装のため翼の構造を強化した為、急降下速度で900キロまで耐えられる様になっており、これまでの様に急降下で逃げられることは、減るだろう。
また最高速度域での操縦性を確保するため、エルロンやエレベーターはこれまでの羽布張りではなく、ジュラルミンが使用されることになった。
だが、この事が本機の量産性を下げることになってしまった。
また翼面荷重がかなり大きくなってしまった為、運動性の低下が懸念されていた。
だが、運動性の低下は紫電改同様の自動空戦フラップを搭載することによって、最低限に抑えられていた。
だがそれでも、雷電を少しうわまわる程度の運動性しか確保できなかった。
その為、F6Fヘルキャットとの空戦では純粋な旋回半径の差がかなり出てしまう。
だが旋回率の差を考慮すれば、なんとかいい勝負になるだろう。
また本機はロール率が高い為、ロールを使った敵弾の回避がこれまでの日本機に比べ容易だという特徴もある。
そして、このような特徴を持つ本機の設計が終わったのは、1945年1月の事だった。
そこからが少し大変だった。それと言うのも実機を製作するため、海軍の目を盗んで行わなければいけなかったのである。
しかし川西航空機ではその困難な製作に対し、本社そばの地下室にて製作を進めることで対応した。
こうして、製作が開始された。
この際、出来るだけ時間や資材を削減する為、紫電改用の部品を流用していた。
具体的に流用した箇所というと、発動機周り、足回り、そして操縦系統である。
操縦系統がそのままの為、紫電改の搭乗員ならば多少の訓練で乗りこなすことが出来た。
もちろん操縦性は異なる為、そのまま乗り継げる訳ではなく、その辺の訓練は必要であった。
それでも、これまでの機種変に比べれば遥かに容易であった。
そして、1945年3月に試作機が完成した。
これは、紫電改の製造に殆どの技手を投入したからであった。
それでも、この時期この短期間で完成出来たのは、優秀な技手を投入したからであった。
しかし、そこで彼らは気付いた。
この機体を何処で試験するのか?という問題点に。
そこで彼らは、紫電改のテストパイロットを務めていた小福田中佐に、頼む事にした。
小福田中佐は快く快諾した。
その理由としては、紫電改を超える機体ならばそちらを正式採用すべきだと思ったから、らしい。
その後、彼らは紫電改のテストを行っている伊丹飛行場に実機を持って、向かった。
表向きには、紫電改の改良型のテストとなっていた。
だが、その機体を見せればすぐに違う機体だと気付かれてしまう。
そこで彼らは、飛行場司令に賄賂を渡しその時間は飛行場の職員を退避させるよう頼み込んだ。
それに対し司令は、「それだけの実力があると信じているのなら、どうぞおやりください」そう言った。
その為急いで、試験飛行の日付が決定された。
こうして1945年3月20日にジャンプ飛行を実施したのを皮切りに、10日間続けて飛行試験が行われていった。
その結果、次の問題点が明らかになった。
まず、排熱がコックピット内に入って来るということである。
それは、紫電改コックピットと同様の対処法ですぐに直った。
そしてもう一つが、機体の振動である。
それは、機体製造上のミスであったと判明したため、これも修正された。
そして予想外の収穫があった。
6000メートルでの最高速度が635キロも出たのである。
当初の予想では620キロ程度に落ちるのではないかと、思われていたのだが空力性能が予想より良かったようで、珍しく計画以上の速力を叩き出したのである。
そしてさらに細かい修正点を、修正した2号機が4月の中旬に完成した。
再び小福田中佐の手によって、テストされた陣風2号機は、殆ど問題点がなくすぐに制式化しても、問題のない完成度を持っていた。
それにテストを行った彼によると、旋回性能もかなりの物があり、さらにロール率は予想以上に良かったと言う。
それを知った、川西航空機上層部は狂喜乱舞したと言う。
そして、月をまたいだ5月6日に海軍航空技術廠の協力者によって航空本部へと売り込みが行われた。
そこでの反応は、本当にそんな機体が出来たのか?と言う物だったと言う。
だが命令違反を問う声が無かった事は確かである。
なんせ、紫電改の生産に影響を与えることなく、陣風を完成させたのである。
称賛の声はあれども、避難の声が出るはずがなかった。
そして、5月15日に官試乗が行われた。
その際のテストパイロットは滋賀少佐であった。
3時間の試乗を終えた彼は、開口一番こう言ったと言う。「この機体ならば、戦局を変える事が叶うかもしれません」
その時の彼は相当興奮していたという。
ともかくこれによって、この時使用された陣風3号機は即日海軍に領収された。
そして、その後海軍は1週間ほどテストを行った。
そして5月30日に正式に採用された。
それは驚異的なペースであった。
強武装の為に各部の強度をかなり持たせていた事が功を通したのだ。
零式艦上戦闘機で問題になったような、強度不足は無かったし、雷電で問題になった振動問題も無かったのである 。
しかも、20ミリ機銃6挺の射撃時における安定性もかなりの物があり、命中率もかなり良好だった。
だが陣風にも唯一の欠点があった。それは量産性を考慮していない点である。
何故なら、空気抵抗を極限まで減らす為に、鋲跡を全てパテで覆っていたのだ。
それにより、工数がかなり増加してしまったのである。
だが、このことによって10キロほどの速度アップをする事が出来たらしい。
そして海軍は当初それを止めさせるつもりだった。
だが、滋賀少佐のF6Fヘルキャットに圧勝するには、この10キロの差が大きい。との意見により、量産機にもそれを採用することになったのである。
確かにF6Fヘルキャットの最高速度は612キロしかない為、625キロでも十分であるが旋回率が減少する為、旋回戦になったときに相手を上回れない恐れが出てくるのである。
要は、10キロの差が旋回半径の差を補えるか補えないかの違いになる可能性が高かったのである。
こうして6月2日に航空本部より川西航空機に対し、陣風の量産指示が出された。
ここまで1ヶ月とかかっていないのである。
それ程までに、彼らが陣風に魅せられたという事だろう。そして陣風の性能をフルに引き出すため、熟練工のみで誉二一型の製造を行う、ラインが一箇所確保された。
それによって、初期不良の誉が回ってくることは無かった。
だがしかし、徹底的な品質管理が行われた為、こちらも量産度外視の様相を呈していた。
その為、量産1号機がロールアウトしたのは、6月15日になってしまった。
そして、松山基地の三四三航空隊にその新鋭機は配備されることになった。
三四三航空隊とは、局地的制空権を奪手するために源田実大佐を司令として発足した舞台であり、熟練搭乗員が集中して配備されていた。
そして同航空隊には、紫電改が集中的に配備されていた。
その為、紫電改とコックピット内の配置が同じである陣風を配備するのに打ってつけだったのだ。
しかも熟練搭乗員がいる為、陣風の性能をフルに引き出す事が出来るだろうという判断もあった。
量産性が低い陣風を、若年搭乗員に乗らす分けには行かなかったのだ。
こうして2日に1機の割合で配備が始まった。
だが、7月に入り工員が慣れてきたのか、1日に1機の割合でロールアウトしてくるようになった。
その為、7月10日には1個中隊を組める16機が揃っていた。
その後も生産は続けられていたが、それらは全て三四三航空隊に配備されていた。
だが、空襲の激化による物資集積不足と誉発動機が届かなくなってしまった為に、最終的に生産された陣風はわずか25機でしかなかった。
そのうち部隊に配備されたのは、20機であった。
その為、残りの4機は1個中隊の補用機として使用されることになった。
結局陣風は1個中隊に配備されただけで終わってしまったのだ。
だが、乗員たちの士気は高かった。
何故なら、これまでの戦闘機では最高速度域に近づくと操縦が困難になっていたのに対し、陣風では羽布張りを廃止しジュラルミン製に操縦系統の可動部を変更したことによって、最高速度域においてもはるかに良好な操縦性を得ることが出来たからである。
その為、ヘルキャット相手ならやられないという雰囲気が生まれていたのである。
さらに、乗員たちはその強武装にも見せられていた。
なんせ陣風には九九式二号四型20ミリ機銃が門搭載されていたのだから。
搭載弾数は各門250発ずつである。
即ち全門で1500発もの銃弾を搭載しているのである。
そう、もし2門ずつ撃ったとしたら1分半も撃ち続ける事が出来るのである。
ただし、この陣風も高空性能は高くなかった為、B29に対しては従来機より打撃力がおおきいだけの機体と成ってしまった。
そのげんいんは誉四二型の開発が間に合わなかったことにあった。
もし間に合っていたなら、陣風は強力なB29キラーと成っていたことだろう。
そう、陣風は局地戦闘機と言いつつも対艦上機用の制空戦闘機でしか無く、対重爆ともなると限定した攻撃しか仕掛ける事はできなかった。
だがそれでも、B29を1撃で落とす事が出来なくもないという事は心強い存在だった。
こうして、陣風装備の戦闘四○五天神隊は順調にその練度を上げていったのである。
こうして、陣風は着実に戦力化されて行ったのである。
三四三航空隊通称剣部隊司令の源田大佐は、陣風さえ戦力化できれば日本の防空網は磐石なものになると信じていた。
その為、陣風装備の戦闘四○五天神隊にはかなりの期待を持っていた。
特に訓練用の燃料をかなりの量彼らに工面したことでよくわかるだろう。
その為彼らはこの時期では最高の練度を保持するに至ったのである。
また編隊空戦の基本である無線電話も、最上のものが搭載された。
確かにノイズが無いわけではないが、聞き取れないほど酷くは無かったのである。
こうして彼らは個人技だけで無く、連合軍顔負けの連携を見せることになるのである。
また、もともと零戦に乗ってその後紫電改乗りになた乗員は、20ミリ機銃を撃っても翼がしならない事に驚いていた。
零戦の場合、初速が低いのが命中率の低さにつながっていただけでなく、過剰な軽量化を施した為に強度が高くない主翼が反動でしなっていたことも一つの原因であったのだ。
その為しならない主翼を持つ陣風の場合、初速はそこまで早くなくても銃口が大きくずれないために、かなりの命中率を出すこたが出来た。
さらに、20ミリ機銃6門同時発射の場合敵機は瞬間的に粉砕されるだろうとも、推測された。
何故なら、20ミリという重量級の銃弾を一気に食らうのである。命中時の衝撃だけでも相当なものになるのだ。
その為、相手が海軍機や単発機ならば相当な戦いを演じられる。そう信じていたのだ。
そしてそれは実戦でも証明されることになる。
こうして訓練を2週間が経った時だった。
アメリカ第58任務部隊による呉空襲が行われたのだ。
この時陣風は全機整備中だった為、出撃することは叶わなかった。
だが他の紫電改装備の部隊は意気揚々と出撃していった。
しかし結果的に敵機16機撃墜を報告したに止まった。
それを聞いた戦闘四○五天神隊の面々は次こそは、そう思った。
そして自分たちが行けばアメリカ軍機なんぞ敵ではない、そうも思っていた。
彼らの仇を取ってやる。
それを合言葉により一層、訓練は厳しさをまして行った。
こうして、7月27日には編隊空戦の技量も最高度に高まっていたのである。
こうして、四○五天神隊の士気は最高に成っていた。
そして、7月28日ついに陣風は初陣の日を迎えたのである。
迎撃地は呉軍港上空。
第58任務部隊第1波攻撃隊が来襲に、少し遅れて到着した。
今日は他にも紫電改装備の戦闘三○一新撰組も参戦していた。
迎撃隊の総兵力は陣風16機、紫電改20機計36機だった。
彼らは、到着するなり即座に敵編隊に飛び込んでいった。
まずは護衛であるF6Fヘルキャットの戦隊に飛び込んだ。
彼らは一航過で4機のF6Fヘルキャットを落としていた。
その後陣風は、一航過で次々にヘルダイバーやアヴェンジャーをその強大な火力によって落としていった。
「後ろにつかれた!」
それが、陣風に落とされた殆どの機体の断末魔の悲鳴であった。
あまりにも短期間で落とされる為に、それ以上言うことができないのである。
攻撃隊を落とされて黙って見ている、直掩隊などはいない。特に最初の一撃で4機のF6Fヘルキャットを落とされた、飛行中隊は怒りに身を任せて、2個小隊8機の陣風に対し、12機のF6Fヘルキャットで突っ込んでいったのである。
編隊空戦を行っていない、他の航空隊ならばこの一撃で半数が落とされていただろう。
だが、気付いた一人の隊員が咄嗟に「敵機後方、急降下!」と無線機越しに叫んだことで、即座に急横転を全機実施した。この反応の速さはやはり熟練搭乗員だからこそであった。
その為に12機のF6Fヘルキャットは、狙いを外された形となり、若干反応が遅れた1機の陣風に対し、数発の12、7ミリ機銃弾を命中させたに過ぎなかった。
命中箇所は主翼の20ミリ弾倉上であった。
もしこれがこれまでの零戦だったならばこれだけでも誘爆、墜落していただろう。
だが陣風は違った。そこには50ミリもの厚さの装甲板が付けられていたのだ。
その装甲板が、やすやすと12、7ミリ機銃弾を弾いていたのである。
その為、翼面が若干乱れただけであり、かすり傷にしかならなかった。
陣風はそこと、コックピット、そして燃料タンクにかなりの装甲を配していた。
特に燃料タンクは生ゴムを使用した外装式防漏タンクとなっており。
たとえ燃料タンクに穴が空いたとしても、ある程度までは溶け出した生ゴムが塞ぐようになっていた。
即ちこれまでの日本海軍機に比べて、圧倒的な防御力を有していたのである。
確かに、F6Fヘルキャットに比べれば劣る部分も多い。だが要所の防御は、かなり近いものがあり弾倉防御では、上を行っていた。
そして、急横転した後彼らは半数が、急降下しF6Fヘルキャットの背後から、追撃を開始した。
残りの半数は、時間差を置いて同様に急降下を開始する。
しかし、急降下速度は同等らしく追いつくことはできなかった。
しかし高度が1000を超え、海面が近付き上昇に移った時彼らの命運は決した。
何故なら、上昇速度では発動機が息を吐き始める6000までは陣風が上だったからである。
しかも、時間差を置いて急降下を行った4機が上から機銃を上昇に移ろうとした瞬間に、ぶっ放した。
それによって、コックピットを砕かれた1機と翼をもがれた2機が落ちていった。
残りの9機は上昇を続けていたが、まず先に急降下を開始した4機がそのうち2機の背後にぴったりと2機づつ、付いていた。その2機は必死に逃れようとしていたが、速度が落ちている状況では無理だった。標的にされた2機は数瞬のうちに、1機は後方尾翼を打ち砕かれ、もう1機は機体全体に機銃弾を浴び瞬間的に空中分解を起こし、撃墜されてしまったのである。
しかし、残りのF6Fヘルキャットはなんとか逃げることが出来た。
それというのも、丁度その時無線によって友軍の危急を聞きつけた、16機のF6Fヘルキャットが側面から陣風8機に突っ込んで行ったのだ。
さすがにその時は、全機が回避することは叶わなかった。
確かに先ほど同様に、真っ先に気付いた乗員が警告を行っていた。
だがそれも遅きに失していた。
この攻撃で、4機の陣風が一気に落とされてしまた。
そして損害の殆どが先に急降下を開始した小隊に集中しており、それだけで3機も落とされていたのだ。
その小隊で生き残ったのは、警告を発した搭乗員だった。
そして落とされた陣風は、翼の付け根に被弾しそこから翼をもがれたり、誉に直撃をくらいそのまま発動機が停止し落ちて行ったりしていた。
そのことは決して陣風が、無敵ではない事の証明であった。しかし装甲を強化した事はその効果を発揮していた。
何故なら落とされた4機の内、コックピットを直撃された1機以外の乗員は全員脱出に成功し、帰還していたのだ。
それは、源田司令より無駄死にはよせとの訓示があったためである。
源田司令は、むざむざ死ぬよりも生きて帰ってくることでその腕を、発揮し続ける方が皇国のためにになると信じていたのである。
しかも三四三部隊が、有能な搭乗員を集め機材も紫電改や陣風と言った、新鋭機のみで構成されていたことも幸いしていた。
即ち、彼らには特攻作戦の指示が終戦まで一度もこなかったのである。
それは同航空隊を海軍上層部も有力な戦力と、認めていた事の証明だろう。
そうして一気に4機を落ちされてしまった陣風隊だったが、その後はその優速を生かし一度乱戦から離脱し、体制を整え再び乱戦下に突入していったのである。
その後は、2機1組となり弾丸が尽きるまで目に付いた目標を落としまくって行った。
そして弾が尽きたペアから順次、戦場から離脱していったのである。
しかし、こうした乱戦下に置いて陣風はさらに2機を落とされてしまっていた。
だが、それ以上の損害は生じ無かった。
しかし離脱に成功した機体も、無傷の物は1機として無かった。
そして戦闘三○一新撰組の紫電改は14機が落とされたのに対し、同数の14機を落としていた。
そして陣風を駆る戦闘四○五天神隊は、最終的に25機程度の敵機を落としていた。
最終的に陣風隊が落とした機数は30機に満たなかった。
だがそれは、陣風隊が一個中隊僅か16機であったことを考えれば驚異的とも言えるだろう。
だがその新鋭機も、F6Fヘルキャットに対し圧倒的有利に立っていたわけでもなく、機数でも圧倒されていた為、6機が撃墜され、残りの10機もかなりの損傷を被っていた。
そして彼らが終戦までに、再び空を飛ぶことは無かった。
何故なら、帰還した10機の内4機が修理不能として破棄され、残りの6機も修理が終わらなかったのである。
確かに補用機として4機の陣風はあったが、それだけでは戦力にならないとの判断から出撃する事は無かったのである。
こうして、川西航空機が戦局挽回の切り札として開発した陣風は、僅か一度の戦闘を行っただけで終戦を迎えることになってしまった。
そのため結局、呉空襲の際に陣風隊が戦艦伊勢に対する攻撃を妨害し伊勢が着底を免れた事以外に目に見える戦果を上げることはできなかった。
戦艦伊勢にしたって、大破の損害を被っていたし、たとえ伊勢が居たところで、戦局が変わる筈もなかった。
結局の所、陣風は戦局に寄与することなく、終戦を迎えることになっってしまったのだ。
終戦を聞いた時陣風開発陣は、戦局を変えることは出来なかったのかと、大きく肩を落としたという。
そして戦後接収したた陣風を試験したアメリカ海軍は、F6Fヘルキャットを上回る性能を持つ優秀機であり、もし1年早くこの機が登場していたら、かなりの損害を強いられただろう。との結論を出したが、それは別の話である。
陣風 最後の局地戦闘機完
と言うわけで、決戦兵器を出した割にはじみな展開になりました
書いてて気付いたんですけど、末期戦好きだなーてのとにほんに勝たせる気本当無いなーって
では航空機搭載潜水艦伊400最後の出撃で会いましょう
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