ミュートの気配
「はあ〜」
再び渡り廊下に戻ってきたゆうは、手摺りにもたれながら、ため息をついた。
「楽しいことか……」
よくよく考えてみると、自分の人生は、高校時代で終わっている。
あの頃、楽しいことといったら、サッカーしかない。
いや、楽しさと厳しさと辛さ…すべて同じくらいだ。
それに、美咲の体を使って、サッカーをやる気にはならなかった。
華奢な体だ。肌も透けるように、白い。炎天下の中、練習して、この体を傷つけたら、申し訳がない。
もし、ゆうと分離して、美咲だけになった時を考えて、鍛えるのはいいことだと思うが…。
よくいうスポーツで、心を鍛えるというが…スポーツが心を鍛えるわけではない。
優秀な指導者…己の無能さ…それらに気付き、成長していくだけだ。
肉体を鍛えても、心は強くならない。
(まずは…楽しさだ)
楽しさを知り…その楽しさの中に、自分の思い通りにならない苦しさを知り…そこから、心は鍛えられるのだ。
だけど、美咲のような痛みを抱えている人間に、さらなる苦しさを与えてやることなんて、できない。
ゆうは、またため息をついた。
「文科系…っていってもな…」
ゆう自身に、興味があることはなかった。
「Fly…To…The…Moon…」
唐突に風に乗って、歌声が運ばれてきた。
軽やかな…まるで、羽毛のような歌声。
思わず、顔を上げたゆうは…その歌声に導かれるように、歩きだした。
渡り廊下を体育館に向かって歩き、入り口を通り過ぎると、細い通路が続いていた。
そこは、単なる通路で、途中で行き止まりになっている。
体育館の側面に伸びた通路の奥から、声は聞こえた。
渡り廊下を渡っても、通路の奥は見えない。
ゆうは、体育館の二階入口ドアの前を通り、その通路の前まで、歩いていった。
確実に、歌声はそこから聞こえた。
通路内を覗いたゆうの目に、普通よりは高い壁に仕切られた通路に、座り込み、空を眺めながら、歌を口づさむ女生徒がいた。
綺麗な黒髪に、一際大きな瞳は…茶色だった。
女生徒は、すぐにはゆうの存在に気付かなかった。
歌の世界に入り込んでいた。
信じられない程の集中力だ。
歌などわからないゆうにも、その集中の凄さはわかった。
まるで、PKを蹴るときのような…集中力。
信じられないことに、彼女は、それを数分以上保つことができているのだ。
人の集中力が保たれる時間は、3分が限度と言われている。
カップラーメンは、その為3分というひともいる。
本当の集中なんて、1分も持つだろうか。
彼女が歌い終わった後、ゆうは思わず、拍手をしてしまった。
女生徒は驚き、ゆうの方を見た。
数秒、ゆうを見つめた女生徒は立ち上がると、無表情のまま、こちらに向かって歩き出した。
そして、何も言わずにゆうの横を擦り抜けて行った。
「あっ…」
かける言葉もなく、ゆうは振り返り、渡り廊下を渡り、校舎に消えていくまで、女生徒を目で、追った。
しばらく、校舎の入口を見つめ……ゆうは、呟いた。
「音楽か……」
音楽。
サッカーほどではないが、少しは興味を持っていた。
安藤理恵という通好みのアーティストのアルバムを、買ったこともあった。
(ゆう……)
学生時代の明日香が、微笑む。
(あたし…音楽やっているの)
嬉しそうな笑顔。
(できれば……君の演奏を聴きたかった…)
涙を流す明日香を置いて…ゆうは消滅したはずだった。
(だけど……俺は今、ここにいる…)
再び渡り廊下に。
ゆうは、拳を握りしめ、
(そうだ!音楽をやろう!)
音楽を。
ゆうは力強く頷き、校舎に向かって歩きだした。
しかし、ゆうは知らなかった。
この学校に、音楽をやるところがないことを。
「はあ〜音楽をやりたいって?」
7時半。まだ学校内で、書類の整理をしていた絵里香は、携帯電話をとって、思わず素っ頓狂な声を上げた。
学校の教師ってやつは、生徒に教える為の時間より、組織の年寄りの為に、提出する報告書類に、費やす時間の方が多い。
いらいらして、書類をぶちまけたい衝動にかられていた時、ゆうから電話があった。
「何考えてるのよ!あんたは、加藤さんが戻るまで!仮に、学校に来てるだけなのよ!」
書類上の平穏。何も問題はないと、上に報告しながら、平気で生徒を振り分ける。
学校とは、何て残酷なんだろう。
もう学年主任になりながらも、絵里香は学校の成績分けには、いつも心を痛めていた。
多くの先生は、年数を重ねるごとに、麻痺していく。
自分達が、生徒の未来を握っていることに。
でも、生徒達も、どうでもいいと思っている。
そして、一部の生徒が、躍起になり……無関心になった生徒を踏み台にしている。
教育が、よくなるはずがない。だけど…だからこそ、現場から逃げたくなかった。
少しでも、よくするように。
(実際…全員に、いい評価を与えることはできない)
評価毎に、人数は決まっているのだから。
「部活くらいいいだろ!」
携帯の向こうで、叫ぶゆうに、絵里香は頭を抱え、動きを止めた。
書類の上に、手を置くと、立ち上がり、
「……ここは!この学校は!………音楽をやる部がないのよ…」
絵里香は、唇を噛み締めると、もう一度言った。
「この学校に、音楽系の部は、ないの」
しばらくの間の後、ゆうが叫んだ。
「おかしいだろ!」
携帯の向こうで、声を荒げるゆうに、絵里香はさらに頭を押さえた。
ゆうだとわかっていても、その声は、美咲のものだ。
まるで、生徒に責められているように感じた。
それに、美咲はいじめられているらしい。
担任である絵里香は、まったく気付かなかった。
裏サイトなるものは、あるらしいが…まだ、絵里香はチェックしていなかった。
機械オンチなのもあるが…見るのに、勇気がいった。
美咲のいじめだけでも、大ダメージを受けたのに…それ以上を知ったら、どうなるのか。
「この学校にはないのよ!」
ヒステリックな声を、絵里香は上げてしまった。
「それは、おかしいだろ」
美咲の実家…彼女の部屋で、ゆうはベットの上で、胡坐をかきながら、電話をしていた。
「明日香の出身校だぞ!先輩に、世界的な歌手がいるんだ!ないなんて、あり得ないだろ?」
電話をしながら、ゆうは部屋を眺めていた。
白を基調した家具や、壁紙は、まるで新品のように綺麗で、ベットの横の机の上には、何も置いていない。
どこかの展示場のような部屋。
ゆうは、机の中など確認したが…すべてが整頓されていた。
(もう…帰ってくる気は…なかったか)
さすがに、タンスの中を漁るまではしていないけど、この部屋には生気がなかった。
唯一皺がよっているのは、ゆうが座っているベットくらいだ。
電話の向こうから、絵里香の苛立ちが伝わってきた。
それは、ゆうへの苛立ちではなかった。
少し…無言が続いてから、ため息の後…おもむろに、絵里香は話しだした。
「去年までは…あったのよ」
絵里香の口調は重い。
「それが…廃部になったの」
絵里香は、目をつぶった。
「どうしてだ?」
ゆうはきいた。
「それは……」
絵里香は、口籠もった。それは、思い出したくないことだった。
「何があった?」
「傷害…事件が…起こったのよ」
絵里香の声が、震えていた。
「傷害事件?」
「そうよ…」
絵里香は、簡単に事件の詳細を述べた。
当時、軽音部の部員だった生徒が、付き合ってた男に、無理やりレイプまがいのことされたのだ。
まあ彼氏であるし、多少のことは、目をつぶるはずだった。学校側も、双方の親と話し会って、示談で終わるはずだった。
これなのに、当時軽音部の部員だった女生徒の1人が、相手の男に、襲い掛かったのだ。
「男子生徒も、うちの生徒だったんだけど…授業中、竹刀を持って、殴り込んだの」
穏便に終わるはずだった問題は、その女生徒によって、大事になってしまい…。
「その男子生徒の担任だった…高橋の一言で、軽音部は、廃部になったの」
「高橋…」
ゆうは、拳を握り締めた。
「もともと…部員が三人しかいなかったから……。廃部の対象には、なってたんだけね」
1人は、男子生徒ともめ、1人は、殴り込む。
廃部になったのは、仕方なかった。
「あのさ〜」
ゆうは、呆れたようにため息をつき、ゆっくりと話し出した。
「こう言っちゃ駄目だけど…。高校生なんて、いろいろあるし揉めるぜ。それをいちいち、大人が廃部とか、力でやっていいのかよ」
ゆうの言葉に、絵里香は反論する。
「殴り込みは、認められないわ」
「そりあ…そうだけど…。悪いのは、その男だろ?その男は、どうなったんだ?」
「一応…厳重注意で…」
「はあ?甘いだろ」
ゆうの言葉に、絵里香は黙り込む。
「おい!そいつも罰するべきだろ」
「そ、それは…」
口籠もる絵里香は、ぼそっと口にした。
「彼は…被害者だから…」
「アホか!」
ゆうは、電話越しに怒鳴った。
「被害者は、レイプされた子だろうが!」
「……」
絵里香は、黙り込む。
「ああ!わかったさ!」
ゆうは、頭をかきむしった。
「俺は、軽音部を復活させるぞ」
「え?」
「くだらん大人の判断で、生徒の思いを壊してたるかよ!」
「で、でも」
慌てる絵里香に、
「俺は、入るからな!」
ゆうは、きっぱりと言い放った。
電話を切ると、ベットの上にほおり投げた。
ベットに横になると、ゆうはため息をついた。
「まだいろいろ…面倒がありそうだが…」
かえなきゃいけない。
ゆうは再び、拳を握り締めた。




